アブダクションとレトリックと真理  現実とはなにか1

pikarrr2008-03-13


仮定(アブダクション)による「断絶」


プラグマティズムの祖といわれるパースは、いままでの論理的な推論法である、演繹、帰納に、仮定(アブダクション)を加えた。以下に例を示すと、演繹はa、bからcが推論されるという典型的なアリストテレスの三段論法である。しかし仮定(アブダクション)は、c、aからbは決して導かれない。だから仮定(アブダクション)は従来の論理学では誤謬である。しかしまず仮説を立てるという思考は人が推論する方法としてとても納得がいくものである。仮定(アブダクション)では、c、aとbの間に「断絶」が存在する。そして人はその断絶を飛び越えようとする。

演繹(ディダクション)

 a この袋の豆はすべて白い。
 b これらの豆はすべてこの袋の豆である。
 c これらの豆はすべて白い。

帰納(インダクション)

 b これらの豆はすべてこの袋の豆である。
 c これらの豆はすべて白い。
 a この袋の豆はすべて白い。

仮定(アブダクション

 c これらの豆はすべて白い。
 a この袋の豆はすべて白い。
 b これらの豆はすべてこの袋の豆である。


参照 プラグマティズムの思想」 ISBN:4480089624




ベイトソンメタ言語


ボクはこれをベイトソンの学習論と参考にメタ言語論としてつなげてみたい。

・オブジェクトレベル0 (学習0) 演繹(ディダクション)

ベイトソンの学習0とは学習が必要がないコミュニケーションである。機械のようにINPUTに対していつも同一のOUTPUTを結果する。演繹がプログラムとして使われていることからも、これはまさに演繹に対応するだろう。

・オブジェクトレベル1 (学習1) 帰納(インダクション)

学習1では、パブロフの犬のように反復によって学習が行われる。これは帰納に対応するだろう。

・メタレベル1 (学習2) 仮定(アブダクション

学習2は学習1のメタレベルである。学習1のコンテクストを学習する。この段階は人の言語コミュニケーションに対応する。意味を獲得するためにはコンテクストを必要とする。

パースの記号論では、記号はイコン、インデックス、シンボルに分けられている。そのうちイコン、インデックスは記号(シニフィアン)と対象(シニフィエ)が見た目や物理法則によって関係する、それに対してシンボルは記号(シニフィアン)と対象(シニフィエ)の間に解釈項(コンテクスト)を必要とする。一般的な言語はシンボルとされる。たとえば「いぬ」というシニフィアンシニフィエは動物の「犬」か、「負け犬」という罵倒か、解釈が必要とされる。

これはヴィトゲンシュタイン言語ゲーム論につながる。日常言語ではシニフィアンに対してシニフィエは事後的にしか決定しないということだ。そこには「暗闇に飛躍」が存在する。ある人は発話する。それを他者がどのように理解するか、そこには断絶が存在し、一つの賭であり、どのように伝わったかは事後的にしか決定しない。すなわち解釈項(コンテクスト)は断絶を橋渡しする。

言語コミュニケーションは、生物が先天的に決定された反応をするように、的確にオブジェクトレベルで伝達することはむずかしく、そこに断絶が存在する。このためにたえずメタレベルの読みを必要とする。そしてそこには絶えず誤配の可能性がある。しかしそれ故に、柔軟で多様な表現が可能になるのだ。

これを、論理的な推論でいえば、仮定(アブダクション)に対応するだろう。仮定とは演繹としては推論されない誤謬であるが、人は論理的な真へ到達するために、まず「暗闇に飛躍」するのだ。パブロフの犬のように反復(帰納)の先に真を見いだすのではなく、メタレベルでコンテクストを読み、真を仮定する。これが実際に人が行う推論の方法だろう。

パースが仮定(アブダクション)を強調するのは、人の推論において帰納は存在しないだろうということだ。人はその始めに必ず何らかの仮定(アブダクション)を行う。言語で思考するということはそういうことだ。




創造的仮定(アブダクション


・メタレベル2 (学習3) 創造的仮定(アブダクション)、修辞(レトリック)

ベイトソンは、人間はさらに学習2のメタレベルを学習することができるという。コンテクストのコンテクストを知る、あるいはコンテクストに再帰的で操作するレベルである。このレベルには、「お笑い(ユーモア)」アイロニー脱構築などがあるだろう。

たとえば子供はお葬式では静粛にするというコンテクストをまだ学習していない。すなわち学習2が未熟であるために、ところかまわず騒ぐ。しかし大人がお葬式で騒ぐという行為にはアイロニーがある。お葬式では静粛にすることが正しいとしりつつ、「あえて」騒ぐ。それによって死者を楽しく見送ろうという配慮がある。あるいは「お笑い(ユーモア)」とは、「あえて」突飛な発言、行為を行うことで、その場の空気(コンテクスト)を破り緊張させ、ツッコむことで場を緩和させ、人々の笑いを誘う。

このレベルを、論理的な推論、すなわち真へ至る方法として考えると、仮定(アブダクション)の一種であると考えられるが、レベル1の仮定(アブダクション)がコンテクストが固定されることで誰もが想像するだろうレベルであるのに対して、レベル2の仮定(アブダクション)はコンテクストのコンテクストによって推論の可能性が広がる。エーコアブダクションを三段階にわけて、もっとも高次のアブダクション「創造的なアブダクションと呼んだが、それに相当するだろう。 当然、誤謬可能性も高まる。

天才は、常人では考えられないことを発想する。しかしそのような「閃き」は神から降ってくるものだろうか。これはメタコンテクストから展開されたとすれば、その発想の過程は常人には追いかけられず、「降ってきたもの」としかみえない。画期的な発想がある体系と他の体系のクロスオーバーに生まれやすいのも、メタ体系(メタコンテクスト)に立っているからだろう。

しかしニーチェがいうように創造とは、「小児の無垢」であると考えられる。このようなメタコンテクストが必要であるか、という疑問がある。たとえば先ほどの「お笑い(ユーモア)」の話にもどれば、人を笑わせるのは必ずしも高度なコンテクストの操作を必要としない。人が転けるとき、周りの人は笑う。これは転けるという非日常がその場の(空気)コンテクストを破る緊張を緩和するためである。すなわちコンテクストとは社会的に共有されるものであり、「小児の無垢」が到来するときに、周りの人がそこに天才の閃きを感じ、感嘆すれば、創造は成立する可能性がある。

創造がその人にとって、オブジェクトレベルであるか、メタコンテクストのレベルであるかは、社会性として決定される。そして往々にして、それが創造的であるかは、事後的に評価されるのである。

孤独の極みの砂漠のなかで、第二の変化が起こる。そのとき精神は獅子となる。・・・わたしの兄弟たちよ。何のために精神の獅子が必要になるのか。なぜ重荷を担う、諦念と畏敬の念にみちた駱駝では不十分なのか。新しい諸価値を創造すること−それはまだ獅子にもできない。しかし新しい創造を目ざして自由をわがものにすること−これは獅子の力でなければできないのだ。

小児は無垢である、忘却である。新しい開始。挑戦、おのれの力で回る車輪、始源の運動、「然り」という聖なる発語である。そうだ、わたしの兄弟たちよ。創造という遊戯のためには、「然り」という聖なる発語が必要である。そのとき精神はおのれの意欲を意欲する。世界を離れて、おのれの世界を獲得する。


ツァラトゥストラはこう言った ニーチェ (ISBN:4003363922




修辞(レトリック)による真の開示


メタレベル2が創造的であるかは、事後的にしか評価されないということは、それは多くにおいて「おふざけ」でしかないことを示す。現に多くの天才的な発想は最初は社会的にまじめに相手にされないのである。

それはメタレベル2では、真へ至る方法としての論理そのものが、解体される可能性があるからだ。それは修辞(レトリック)と近接する。先の例でしめすと、以下のようになるだろう。b’は詩的な表現であり、無限に開かれる。もはや論理的な真へ至ることが目指されていない。そして論理的な真とは、そもそも論理とはなんだろうか、ということが宙づりにされている。これは単なるおふざけであるが、また論理そのものを懐疑する新たな真への近接ともとれる。

修辞(レトリック)

 c これらの豆はすべて白い。
 a この袋の豆はすべて白い。
 b’ これらの豆はすべて目立ちたがりだ。

後期ヴィトゲンシュタインは、パースのプラグマティズムと多くにおいて近い。パースは「暗闇への飛躍」「実際的な関わりのある結果(プラグマティック)」に見いだした。パースの仮定(アブダクション)とはそこにまだ実用的な真理が想定され、そこへ近づく行為なのである。パースのプラグマティズムが、その後、論理実証主義「意味の検証理論」「命題の意味はその検証方法にほかならない」)に影響を与えたと言われるのもこのためである。パースは有用性を目指して、限りなく進歩主義へ近接する。

それに対して、後期ヴィトゲンシュタイン「暗闇への飛躍」「規則に従う」をおく。人はただ規則に従っているだけという。飛躍に進歩的な「価値」を見いだす寸前で踏みとどまる。だから後期ヴィトゲンシュタイン「飛躍」は、パース的な仮定(アブダクション)よりも、むしろ修辞(レトリック)に近いだろう。それがヴィトゲンシュタインの前期から後期への跳躍であり、論理の彼岸における新たな真の開示である。
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