快感を訓練するとはどういうことか 現実とはなにか3

pikarrr2008-03-21


僕らはどのように歩いているのか


ボクたちは日々当たり前のように歩いている。坂道でも、凸凹道でも、足下に障害物があっても、苦もなく歩いている。走り、飛び跳ねることも問題がない。しかしロボット工学が教えることはこのような当たり前のことがとても複雑な行為であるということだ。僕らはどのように歩いているのか。どのように歩いているか、説明などできない。「ただ歩いているだけだ。」

しかし僕たちは生まれたときから歩けたわけではない。人の子供は生まれて1年程度で立ち上がり歩き始めるが、それから一人前に走る前には数年かかる。あまりに当たり前となるが、歩くとは訓練する行為である。

では、二足歩行をしない共同体は存在するのか。恐らくいないだろう。人間は二足歩行する動物である。それは他の動物のように4足歩行するよりも二足歩行することが効率的であるように身体構造によって拘束されている。

しかしいま一般化されている歩き方も一つの訓練であるという話もある。あるいはボールを投げるときに「女投げ」というものがある。野球などの訓練を行ったことがない人がボールを投げるときに、「正しい」投げ方をできない、ということだ。

ナンバ走りとは)右手と右足、左手と左足を同時に出すような感覚の走り方。古来から日本人の歩き方や走り方はこうであったともいわれている。江戸時代の飛脚は、エネルギーを費やさないことから、この走り方を用いていた。日本では、明治時代の初期に腿を高く上げて、腕を大きく振るという西洋式の走り方、つまり右手と左足、左手と右足を同時に出して体をねじりながら走るという走り方や歩き方が学校で推奨されるようになってから、このナンバ走りは排除されてきた。

http://dic.yahoo.co.jp/newword?ref=1&index=2004000341



ほんとうに「顔射」は気持ちがいいのか


このように当たり前であるようなことも人の行為のほとんどは訓練によって獲得するものであると言える。たとえば性行為もそうだろう。正式に教育されるわけではないある種の現代の秘技は、アダルトビデオなどを見て覚えると言われる。だからたとえば「顔射」などのように、見る人が興奮するために作られたアダルトビデオの性行為が、(見る人などいない)実際の性行為で行われるという勘違いが起こる。

しかしそもそも正しい性行為など存在しない。「顔射」も一つの性行為である。そしてそれだけではなく、そのような行為を行うことが快感であるのだ。快感は身体に備わる性感帯を刺激するという刺激−反応のような機械的な行為ではなく、そのような状況(コンテクスト)を切り離せない、ということだ。

フロイト精神分析において、性関係に注目したのは、それが生理的なものと「ずれ」ているからだ。生理的なもの=正しい性行為とは生殖を目的とすることである。しかし人間の性関係は必ずしも生殖と関係せずに、人それぞろにフェチ(倒錯)がある。そこでは快感そのものが目的化されている。

性対象倒錯の傾向が多数の人々にみられることが確認されたために、性対象倒錯の素質は人間の性欲動の根源的で普遍的な素質であると考えざるをえなくなった。成熟とともに身体的な変化が発生し、心的な抑圧が行われるようになるため、この倒錯的な素質の中から、正常な性行動が発達してくると考えるべきなのである。

この根源的な素質は、小児期において確認できるのではないかと考えられた。そして性欲動の方向を制限する力のうちでも、羞恥心、嫌悪感、同情、道徳や権威など、社会的に構成された要素が重要であると考えられる。・・・根源的な素質からの<ずれ>がもつ意義を特に重視したが、この素質の<ずれ>と生活における体験の影響は対立するものではなく、互いに協力し合うと想定せざるをえないのである。


「エロス論集 性理論三編」 ジークムント・フロイト (ISBN:4480083456

たしかに性感帯の位置のようなものは身体構造からの拘束としてあるだろうが、その刺激部が性感帯への刺激→絶頂(エクスタシー)というのは一つの神話であり、それは訓練との関係で考えなければならない、ということだ。

性感帯とは、身体のうち、刺激を与える事によって性的な快感を得やすい部分を指す。性感帯は男女を問わず個人差があるが、粘膜が体外に出ている部分と、静脈が皮膚に近いところにある部分は性感帯であることが多い。

女性の場合、陰核、陰唇、膣口、乳首、尿道口、肛門、Gスポットなど、男性の場合、亀頭、陰茎、陰嚢、肛門、会陰、乳首などが一般的な性感帯である。一般的ではないが、女性ではポルチオ、男性では前立腺も性感帯と言われる場合がある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E6%84%9F%E5%B8%AF




「規則に従う」


ヴィトゲンシュタインが日常会話研究において、言語コミュニケーションを言語ゲームとよび、そしてその現ゲームというものを「規則に従う」と考えた。ここで重要なことは人は規則を解釈してそれに従うのではなく、「規則に従う」ということを原単位にして言語コミュニケーションを行っている、ということだ。「規則に従う」はコンテクスト(状況)も含めてどのように振る舞うべきかを、実践的な訓練で身につけていくものである。

規則の表現−たとえば、道しるべ−は、私の行為と如何に関わっているのか、両者の間には如何なる結合が存在するのか?・・・私はこの記号に対して一定の反応をするように訓練されている、そして、私は今そのように反応するのである。(198)

規則の或る把握があるが、それは、規則の解釈ではなく、規則のその都度の適用において我々が「規則に従う」と言い「規則反する」と言う事の中に現れるものである。(201)したがって、「規則に従う」という事は、解釈ではなく実践なのである。(202)

「如何にして私は規則に従う事ができるのか?」−もしこの問いが、原因についての問いではないならば、この問いは、私が規則に従ってそのような行為する事についての、[事前の]正当化への問いである。もし私が[事前の]正当化をし尽くしてしまえば、そのとき私は、硬い岩盤に到達したのである。そしてそのとき、私の鋤は反り返っている。そのとき私は、こう言いたい:「私は当にそのように行為するのである」(217)


『哲学的探求』読解 ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン (ISBN:4782801076

僕たちは日本語をあまりに当たり前につかっているのが、第2言語を習得することは困難を伴う。そしてよく言われるのが「習うより慣れろ」「(第2言語を母国語としてもつ)外人の彼女を持つことがよい」などと言われる。なぜそのように話すよりも、「規則に従う」ことの実践的な繰り返しの訓練が重要であるということだろう。




「無意識は言語のように構造化されている」


先の歩くことや性行為もひとつの「規則に従う」例であるとすれば、言語コミュニケーションは「規則に従う」ということではなく、行為とは言語のような「規則に従う」ことといえるのではだろうか。ここでいう「言語のように」とはある種の構造化である。それはラカンがいう「無意識は言語(ランガージュ)のように構造化されている」ということととても近いように思う。

そもそもにおいて、後期ヴィトゲンシュタインラカンは近い関係にある。言語(シニフィアン)−意味(シニフィエ)の関係を懐疑している、すなわち「言語コミュニケーションは失敗するものなのに、なぜ成立しているのだろう」ということをともに思考した。そしてその解が、「無意識は言語のように構造化されている」、ということだ。

ラカンの無意識は大文字の他者象徴界)と呼ばれるように、超越論的である。簡単に言えば、「正しさ」とはこの場合には「みんな(共同体)」がそのように振るまうだろうという信用によって支えられているということだ。

このパロールに創設的な価値を持たせているのは次のことです。絶対的な他者(A)という限りでの他者がそこに存在しているということです。絶対的とは、つまり、この他者(A)は再認されてはいるが、知られてはいないということです。

いわゆるパラノイア的認識は、私が鏡像段階から出発することによって定義づけを試みた一次的同一性を通して、嫉妬という敵対関係の中で打ち立てられる認識です。対象というものの根拠をなすこのような競合的、競争的な基盤が乗り越えられるのは、まさに第三者と関わりをもつ限りでのパロールにおいてです。パロールは常に、契約・同意であり、皆が承認し同意するものです。たとえば、これは君のもの、これは私のもの、これはこれ、これはあれという具合に。


「精神病 上」  ジャック・ラカン (ISBN:4000011758

大文字の他者との契約、同意、承認は、ヴィトゲンシュタイン「規則に従う」にとても近い。それは「命令」であり、習慣(制度)である。無意識とは社会的な「掟」として与えられるということだ。掟にはなぜそうであるのか、という意味以前にただ規則・命令として同意させられている。

或る規則に従う、という事は、或る命令に従う、という事に似ている。人は、命令に従うように、訓練され、その結果命令に或る一定の仕方で反応するようになるのである。(206)

規則に従うという事、報告するという事、命令を与えるという事、チェスをするという事、これらは習慣(使用、制度)である。(199)


『哲学的探求』読解 ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン (ISBN:4782801076




ヴィトゲンシュタインの生理学


ただヴィトゲンシュタインの無意識はその「掟」の根拠を超越論に求めない。ではどこに求めるかといえば、実在/経験論的であり、生理学的なもの、たとえば学習とシナプスの関係に近いのかもしれない。訓練をすることで、意識的で未熟であったある行為が、生理に無意識に、反射的に完成した形で行われる。その訓練の極限にスポーツ選手の超人的なプレイなどがあるのだろう。現にヴィトゲンシュタインの言語論はその後の心理学や認知科学に大きな影響を与えた。

言語コミュニケーションにもどれば、ある人が他者に対して、ある状況(コンテクスト)おいて「規則に従い」発話する。しかし状況(コンテクスト)はその初めから他者と共有されているわけではないので、そこにズレが生まれれば、修正していく、というようなものになるのだろう。

大脳皮質で起きる変化の主役はシナプスであると考えられています。Kleimら(2002)は学習による変化がシナプスでおきていることを示すデータを発表しています。彼らはラットにリーチング(到達)課題を訓練し、大脳皮質の運動野のマップを訓練した群と訓練しなかった群で比較しました。その結果、リスザルの場合と同様、訓練により手指の領域の拡大が見られました。彼らはさらに運動野の組織像を調べました。訓練の結果、・・・1個の神経細胞あたりのシナプスの数が手の領域で有意に増加していました。学習によって細胞あたりのシナプスの数が増えることが確認されたわけです。

http://www.biological-journal.net/blog/2007/03/000182.html



無意識の三層構造


ラカンの無意識と、ヴィトゲンシュタイン的な無意識の関係は、三層構造になっているということだ。

1) 先天的な生理構造
2) ヴィトゲンシュタイン的な無意識・・・訓練による生理的な条件反射的
3) ラカンの無意識・・・大文字の他者=超越論的な共同体への信用

再度、性行為の快感にもどれば、体のどの部分に刺激を受けやすい神経が集まっているかは、先天的な生理構造である。しかし実際に性行為による快感は刺激部→快感のような機械論に従わず、状況(コンテクスト)を含んだ実践的な訓練によって、「快感の感じ方」が身体に刻み込まれる。これがヴィトゲンシュタイン的な無意識である。

さらにラカンはもっと柔軟であり、必ずしも実在的な訓練がなくても(超越論的な)信頼があればよい。たとえば社会のタブーが無意識化されていれば、そのようなタブーを犯す(だろう)行為に人々は興奮する。性行為の快楽は(みなが)禁止している(だろう)から快楽なのだ。ここでは実際に禁止されている必要はなく、主体の独我論的(超越論的)なものでしかない、ということだ。

歩く、走るという行為を考えるときには、大文字の他者は働らかずに、訓練による生理的な条件反射のように感じる。しかし散歩のようなコンテクスト(状況)がキーになるとラカン的になる。

しかしどちらにしろ、ラカンヴィトゲンシュタイン的な無意識は相補的に働いているとともに、分けて考えることが難しいのはたしかだろう。強いて言えば、ヴィトゲンシュタイン的な無意識の方が「硬い岩盤」という生理に深く刻まれているというしかないだろう。そのような「堅い岩盤」ラカンでは大文字の他者の領域(象徴界)ではなく、現実界であると線引きされている。ヴィトゲンシュタインが超越論を「語りえぬもの」としたように、ラカンにとって生理学的ものは「語りえぬもの」なのである。結局、二つの無意識はこの線引きの「倫理」の違いでしかないとも言える。




メタ言語(制作)図式 


先にエントリーアブダクションとレトリックと真理」 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20080313でしめしたメタ言語(制作)図式に対応させてみる。言語ゲーム、すなわち人間の一般的な言語コミュニケーションは、訓練によって「規則に従う」ということで、オブジェクトレベル1条件反射のようであり、しかしそれ以前に状況を読む必要があるためにメタレベル1であり、また状況を操作することもあるので、メタレベル1.5とする。ただしラカンの言語論は、よりコンテクストに柔軟であることから、メタレベル2とした。

メタ言語(制作)図式」 (◎はコミュニケーション、◇は制作)


オブジェクトレベル0 (学習0) 
   ◇演繹(ディダクション)・・・論理、アルゴリズム、数学(イコン、インデックス)
   ◎先天的な生理構造、生物反応(コミュニケーション)

オブジェクトレベル1 (学習1) 
   ◇帰納(インダクション)
   ◎条件反射(パブロフの犬

メタレベル1 (学習2) 
   ◇仮定(アブダクション)・・・仮説検証、シンボル

メタレベル1.5 
   ◎言語ゲーム・・・ヴィトゲンシュタイン的な無意識

メタレベル2 (学習3) 
   ◇創造的仮定(アブダクション)・・・天才的な閃き
   ◇修辞(レトリック)・・・アイロニー、詩、物語り、お笑い、脱構築
   ◎ラカンの言語論(無意識)

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