「女は存在しない」とはどういうことか 現実とはなにか5

pikarrr2008-03-27


女は「ドラマ(劇)」を好み、男は「ゲーム」を好む


「女性」はムードを大切にすると、よく言われる。これは先の「ドラマ(劇)、ゲーム、テクスト」というコンテクスト分析でいえば、「ドラマ(劇)」を重視するということがいえるかもしれない。「女性らしさ」とはこのような場の空気(コンテクスト)に敏感で、柔軟に対応し、緊張を緩和する姿勢とも言える。性関係でいえば、性行為そのものよりも、それを取り巻く背景から、快感をえる。

それに対して、「男性」「ゲーム」としてのコンテクストを重視する傾向があるといえるかもしれない。場の空気を気にするよりも、行為を訓練して場のルールを身につけ、上達することに好む。性関係でいえば、行為そのものをスムーズに、そして女性に快感を与えたという結果に快感をえる。

男性雑誌によくある「女をイカせるテクニック」などの記事に象徴的だが、女性の身体に快感のポイント=スイッチを求める。そのスイッチを押せば、女はエクスタシーを感じる。男性がよく女性の乗り心地など、機械のメタファーで語るのもそのためだろう。あるいは、コスプレなどの倒錯的(フェティシズム)なプレイを好む。それは女性のようなムードを好むというよりも、一つの(ゲームの)プレイである。

さらに、これらは性関係だけではなく、男性の方が論理的ということを表しているのかもしれない。男性は決定的な効果を与える「必殺技」が好きなのであり、そこには明確な「原因と結果」と、そこへつぎ込むパワーがある。それはまさに男の子が好む電車、大型車、スーパーカーなどに象徴される「強い機械」なのである。




「女」という言語ゲーム


ラカン「女は存在しない」と言った。この意味は今までのコンテクスト論で考えるとわかるだろう。人間の女性は生物的な「雌」ではなく、コンテクストとして作られたということだ。これをウィトゲンシュタイン風にいえば、「女」という言語ゲーム、ということになるだろう。女性は「女性」という「規則に従う」ことを訓練することで「女性」になるのだ。

男性と女性の身体の構造の差は明らかである。さらに運動能力にして平均すれば、その差も明らかである。しかしそれでも人間には動物との「断絶」があり、コンテクストの影響は絶大的である、ということだ。

先ほどの男らしさ、女らしさには、女性は所有物、男性は所有者という男尊女卑的な文化的背景が見える。「男性」「ゲーム」を重視することは、場を支配する所有者としての能動性と関わっていて、「ドラマ(劇)」を重視する「女性」は場に従う所有物として生きるための受動性に関係する、という文化的なものが大きいのだろう。




懐疑という狂気


コンテクストが一つの文化でしかないといっても、懐疑することは困難であるだけではなく、病理である。たとえば恋愛は人を懐疑的にする。彼女はオレのことをどのように思っているのだろうか。このような懐疑は彼女が「好きだよ」と言ってくれたとしても、終わることがない。「ほんとうのほんとうはどうなのだろうか」あるいは思春期も同様に様々なことに素朴な疑問をもつ。「大人は汚い」ということは、単に反抗期というだけではなく、コンテクストが不安定な状態にある。

そこから、懐疑が過剰になると、神経症となる。手すり、つり革などの人々が使うものがさわれない。人は私の事を嫌っていると不安でコミュニケーションできない。過度になると、この椅子の足が壊れないとなぜ言えるのだろうか。FBI工作員がオレの命を狙われていると、妄想にまでいたる。これらは過剰な懐疑によって「現実」が壊れている状態であるといえる。

しかしある意味でこのような懐疑は正しい。なぜなら懐疑をやめるような確かな基盤としての「現実」はどこにもないからだ。たとえば人工知能を作る場合にまさにこのような問題に陥る。ある状況の中でもっとも適切な判断を行うようにプログラムするということは、チェスや将棋のようにルールが明確で、その可能性が有限である場合はよいが、人が生きるコンテクスト(状況)のように無限に可能性が考えられる場合には、その計算は終わる事がなく、フリーズする。

社会において人はフリーズすることなく、当たり前のように「現実」を生きているのは、人は盲目的に信じる基盤としての「現実」(=コンテクスト)によって支えられているからだ。

例えば、生理有機体としての僕が今いますよね。僕の生理有機体システムが回っているわけですが、大いなる可能性において、一般に普通の臓器が入っていて、普通の循環器系、消化器系、神経系が内蔵する、と期待されているわけです。・・・果たしてそうか、という問題がまずあります。MRTでスキャンしたらそうなった。しかし「そうなった」というのはあくまで操作的な問題であって、ある刺激を与えたらあるリアクションが返ってきたということですから、同じリアクションが返ってくるものであれば、それでなくたっていい可能性がある、という問題がありますよね。

更に言うならば、例えば僕は自分の心臓は人工心臓じゃないと思っていますけれども、人工心臓である可能性もあるわけです。しかし人工心臓じゃないといっても、それでは人工心臓じゃない心臓が心臓なのか、という問題もあるわけです。つまり、いろんな場面で心臓のふりをするエイリアンだという可能性もあるわけですよ(笑)。つまりそれが心臓の「誤配」です(笑)。

我々がそれを心臓として、あるいは偽物として受け取るという認識の問題じゃなくって、我々の体のシステム自身が、実はそれが誤配された何ものかであろうが、本物の心臓であろうが、人工心臓であろうが、「うまく回っている」という事実だけがあるわけです
ね。
・・・「そういう視点のフリをした別のものじゃないか」「誤配された何ものかが視点のフリをしているんじゃないか」とか、永久に言えてしまうんで、無限背進になってしまいます。


http://www.miyadai.com/texts/azuma/index.php
宮台真司東浩紀を語る!」

このような懐疑からわかる事は、コンテクストとは認識論である、ということだ。さらに言えば独我論である。みなに共有された明確なコンテクストというものがどこかに存在するわけではなく、それは主体の中にしかない。今はこのようなコンテクスト(状況)だから、みなはこのように振るまうだろうことで、ふるまっているのだ。それは盲目的に、無意識の「信頼」によってなりたっている。

女とは「私は女である」という「信頼」によって女である。コミュニケーションの中で、女であると承認され、女性的であると「かわかがられ」、女性的でなければ「眉をひそめられ」というコンテクストの中で女である。