貨幣の魔法とはどういうことか 現実とはなにか6

pikarrr2008-03-28


重層的なコンテクスト


コンテクストとはなにか、ということで以前 *1以下のような図を参照させてもらった。

SocioLogic(lovelesszero5.0) 
http://www5.big.or.jp/~seraph/mt/000108.html

静から動へと階層化されて、とてもわかりやすい図である。先の「ドラマ(劇)」としてコンテクストは、階層の全体を表し、「ゲーム」としてのコンテクストは、「参加者のその場における役割(ルール)」あたりを重視する。「テクスト」としてのコンテクストは、「会話の流れ」そのものを重視する。

しかしいままでの議論にから、超越論的、非階層性という2つの修正を加えなければならないだろう。




修正1 超越論的


一つ目の修正は超越論的、ということだ。コンテクストは客観的にどこかに存在するようなものではない。たとえば「日本人として振るまう」といっても、人々にとっても一律の意味を持つわけではない。だからコミュニケーションは私が考えることを、相手も共有するだろう賭によって成り立ち、事後的にしかわからない。しかしさらに根源的には事後的にもわからない。完全に伝わった事は確かめようがない。

だから問題はこのような差異があるにも関わらず、それでも一つのコンテクストとして共有を支える働きがあるということだ。それはみなに共有されているという無意識の「信念」によって支えられている、すなわちコンテクストは超越論的であるということだ。




ソシュールの言語論


パースと並んで言語論の祖としてソシュールが上げられる。それはパースと同様に従来の<言語記号(シニフィアン)−概念(シニフィエ)>の結びつきに「裂け目」を入れたることで新たな言語研究の分野を切り開いたことによる。ソシュールが考えたのが、意味(シニフィエ)は言語記号シニフィアンから決まるのではなく、差異の体系として決まるということである。たとえば「キツネ」の概念は、「猫」でも、「犬」でも、「タヌキ」でもない・・・という差異によって決定される。

ここからわかるのは、意味(シニフィエ)は言語記号(シニフィアン)とは関係なく、決定されるという「恣意性」である。すなわち<言語記号(シニフィアン)−概念(シニフィエ)>には裂け目があり、さらには概念(シニフィエ)を決定するのは、第三項としての「差異の体系」である。そして差異の体系はその言語を共有する社会・文化を反映したものである。

パースの言語記号論に対応させれば、以下になる。そして差異の体系とは社会・文化的であり、コンテクスト的である。

<言語記号(シニフィアン)−解釈項(差異の体系=社会・文化)−概念(シニフィエ)>

ソシュール構造主義の祖と考えられるのは、言語に差異の体系という(無意識)下部構造があること明らかにしたからだ。構造主義者たちは社会・文化の様々なところに、言語のような下部構造があることを見出していく。




マルクス貨幣論


このような構造主義のわかりやすい例の一つが、マルクス貨幣論である。正確には、柄谷がマルクスの可能性の中心」で展開した貨幣論である。柄谷は労働価値説を消去しつつ、マルクス貨幣論構造主義そのものを見出していく。

この考えに正当性を持たせるのが、そもそもソシュールの言語論は経済学の影響から考えたということだ。ソシュールの概念(シニフィエ)は「価値」である。マルクスはそれまでの<商品(シニフィアン)−価値(シニフィエ)>の関係に、ソシュールに先駆けて「裂け目」を入れたのだ。

たとえばリンゴ1個が100円というとき、リンゴの使用価値はそれを食べて栄養をつける、というものだ。そこからは100円という価値は見いだせない。100円という価値は交換価値という別の法則によってきまる。みかん1個50円、えんぴつ1本30円・・・バイト時給900円・・・などの交換価値による差異の体系によって決定している。これはそのまま先のソシュールの構図に対比されるだろう。

<商品(シニフィアン)−解釈項(交換価値の差異の体系=社会・文化)−価値・価格(シニフィエ)>

しかし貨幣論では、言語論と異なり、価値は貨幣(価格)によって一元的に表される。なぜ貨幣という商品は特別なのか、とマルクスは問う。たとえば貨幣がない場合を考えてみると、商品同士を交換する場合、互いにその商品がほしいという奇跡の出会いが必要であり、なおかつその場で交換基準を決定するという緊張した駆け引きが求められる。それは一歩間違えれば、闘争に至るだろう。そこに貨幣を介在することで交換はスムーズに行われる。

そしてこのとき貨幣は、「あらゆる商品にたいして直接に転化しうる」「一般的価値形態」の位置を獲得する、というか、「一般的価値形態」の位置が貨幣である。それは貨幣への絶対的な「信頼」を獲得する。すべてが貨幣価値化されることを許し、貨幣価値化されなければ社会の一員ではないようなほどの錯覚。それが貨幣への欲望を生む。なにか買いたいからお金がほしいということではなく、貨幣そのものが強く欲望される。

商品を交換価値として、交換価値を商品として掌握しておく可能性とともに、黄金欲が目覚めてくる。商品流通の拡大とともに、いつでも役に立つ、絶対的に社会的な富の形態たる貨幣の力が、増大する。「金はすばらしい物だ!これをもっている人は、彼の願うこと何一つかなわぬものはない。金によって、霊魂さえ天の楽園に達せしめることができる(コロンブス)」・・・貨幣退蔵の衝動は、その本性上とめどがない。質的に、またはその形態上、貨幣は無制限である。すなわち、素材的富の一般的代表者である。というのは、あらゆる商品にたいして直接に転化しうるからである。P229-232


資本論 カール・マルクス (ISBN:4003412516) 

ここに(神的な)「転倒」がある。もしかすると「掟」はかつてそうすべき理由があったかもしれない。しかし「転倒」後においては、「掟」を守る事が目的化する。それは無意識に、盲目的に行われる。そこでは構造を維持するために「掟」にしたがうのではなく、人々はただ「掟」を守ることで構造が維持される。そして商品交換における「掟」とは、「貨幣を信用(欲望)しろ」というものだ。

先ほどの商品交換の図式に戻れば、解釈項としての交換価値の体系が「超越論的なコンテクスト」に対応する。人々は<商品(シニフィアン)−価格(シニフィエ)>という関係を当たり前に思っているが、無意識に超越論的なコンテクストが価値体系を支えているのだ。そして隠されているが、貨幣はただの紙切れだという「裂け目」である。このような貨幣の位置は「ゼロ記号」「超越論的シニフィアンと呼ばれる。

貨幣は、それぞれの商品にあたかも貨幣量で表示されるべき価値があるかのような幻影を与える。すなわち、貨幣形態は、価値が価値形態、いいかえれば相違なる使用価値の関係においてあるという事実をおおいかくす。・・・すべての商品と関係しあう一中心としての商品、すなわち貨幣によって、すべての商品は「質的同一性と量的比率」によって存在させられる。それが最初からあったのではなくい。それゆえに「共通の本質」とは、潜在的な貨幣形態にすぎないのである。

問題は、なぜいかにしてそのような中心化が生じるのかということである。いいかえれば、一商品の中心化こそ、そうしたシニフィアンの関係のたわむれを抹消し、同一性を形成し、超越論的な「価値」を付与するのだから・・・言語(ラング)体系の場合、貨幣のように中心はないが、各語に内在的な意味(概念)があるというプラトニックな常識を支えているのは視えない中心なのであって、だからこそソシュールはそれを否定すべく「中心のない関係の体系」を取り出したのだ。・・・そこで構造主義者は、体系を体系たらしめるゼロ記号を想定する。P37-38


マルクスの可能性の中心」 柄谷行人 (ISBN:4061589318) P32-37




修正2 非階層性


二つ目の修正は非階層性である。上図の階層はなにを表しているのだろう。無意識としてのコンテクストの深層だろうか。動/静という対比でいうとそのようにもとれるが、これは空間のメタファーだろう。国、文化圏という広大な空間から、いまコミュニケーションするこの場という小さな空間である。

しかしこれを無意識の深層と考えることはできないだろう。たとえば人は身近な家族、友達の関係よりも、「日本人」としてのアイデンティティが深層だろか。むしろ身近なものとの体験ほど深層である。

無意識の深層を考える一つの方法として、精神分析がある。精神分析では、人は他の動物に比べて未熟なまま生まれる故に、先天的であるよりも、後天的の習得が重要となる。そして生まれてまもない幼児期の体験(教育)ほど深層に刻まれやすいと考える。

さらには、精神分析の症候とは幼児期の忘れられた記憶(深層の無意識)が大人になって回帰すると考える。たとえば性的な倒錯(フェティシズム)はその典型である。なぜ自分はそのようなフェチをもっているかわからない。これは、幼児期の記憶と大人の症候は単純な結びつきではない。子供の頃、親がいなくてさびしかったから、大人になって親のような恋人を求めるというようなことではなく、そこには「断絶」があり、無意識は思わぬ形で回帰する。




メタ言語は存在しない」


先のソシュールの言語の差異の体系、あるいはパースの3項の記号論においても、コンテクストとは言語を解釈する特別ななにかというよりも、言語体系そのものと考えられる。

ラカンメタ言語は存在しない」というときにも、同様な意味でコンテクストの階層性を否定する。これは人は機械のようにオブジェクトレベルでコミュニケーションするということではなく、ラカン「オブジェクトレベル」とはメタ言語(制作)図式」でいえば、メタレベル2=言語コミュニケーションの次元である。人はここから階層を降りることも、上ることもできない。

メタ言語(制作)図式」 (◎はコミュニケーション、◇は制作)


オブジェクトレベル0 (学習0) 
   ◇演繹(ディダクション)・・・論理、アルゴリズム、数学(イコン、インデックス)
   ◎先天的な生理構造、生物反応(コミュニケーション)

オブジェクトレベル1 (学習1) 
   ◇帰納(インダクション)
   ◎条件反射(パブロフの犬

メタレベル1 (学習2) 
   ◇仮定(アブダクション)・・・仮説検証、シンボル

メタレベル1.5 
   ◎「ゲーム」的言語ゲーム

メタレベル2 (学習3) 
   ◇創造的仮定(アブダクション)・・・天才的な閃き
   ◇修辞(レトリック)・・・アイロニー、詩、物語り、お笑い、脱構築
   ◎「ドラマ(劇)」的言語ゲームラカンの言語論(無意識)

これはデリダエクリチュール論にもつながるだろう。言語行為論では発話の意味をコンスタティブな意味(オブジェクトレベル)、パフォーマティブな意味(メタレベル)に分類する。それに対して、デリダはコンスタティブであるか、パフォーマティブであるかは、決定できないと反論した。これはいままで語ってきた「断絶」の問題である。コンテクストは主体の内面の「信念」でしかない以上、原理的に決定することは不可能なのである。

たとえば、C君が「Aが「君(B)は馬鹿だ」と言っていたぞ。」というのは、メタ言語であり、発話者C君はコンスタティブな意味ではAとBの第三者の立場=メタ位置に立っている。しかし「なぜC君はそのようなことを発話したのか」のかとパフォーマティブなレベルでは、第三者でとして、「客観的に」「公平に」見ることのできるような中立的な視点」でいられない。

Cが発話する事はメタ言語の形態をとっていたとしても、それはいつも大文字の他者の次元にしかない。これは、先の図式のオブジェクトレベル0においても同様である。ウィトゲンシュタインが示したのは、数学でさえも、「信頼」から切り離すことはできないということだ。

象徴的なレベルでは、(ラカンの)「手紙はかならず宛先に届く」という命題は、次のような一連(ヴィトゲンシュタイン的な意味の「一族(ファミリー)」)の命題を凝縮したものである−「抑圧されたものはかならず回帰する」「枠組みはつねにその内容の一部によって枠をはめられている」・・・究極的には、これらはすべて同じ一つの基本的前提、すなわちメタ言語はない」という前提のヴァリエーションである。

解釈学的企ての狙いは、不可視でありつづけることによって、つまり主体に捉えられるのを逃れることによって、主体の視野を前もって決定づける「枠」あるいは「額縁」の輪郭を、目に見えるようにすることである。私たちの眼に見えるものも見えないものも、つねに歴史的に媒介された先入観の枠を通して与えられる。・・・その地位は超越的である。すなわち、先入観が私たちの経験を意味ある全体性に組織化する。世界は、根本的に有限性の枠内においてのみ、私たちに開かれている。このレベルでは、メタ言語の不可能性は、事物を「客観的に」「公平に」見ることのできるような中立的な視点はないということと等しい。


「汝の症候を楽しめ」 スラヴォイ・ジジェク (ISBN:4480847081




否定神学的主体


そして「信念」によって覆い隠される決定不可能性、すなわち「裂け目」は自己言及であり、ゲーテルの不完全性定理に行き着く。先ほどの商品交換の例では、貨幣の位置がそれに対応する。

形式体系の"内部"(牢獄)から出ようとするか、外部性をとりこもうとする安易な試みがつねにくりかえされる。しかし、外部性があるとすれば、それは形式体系の内部における自己矛盾としてのみあらわれるだろう。そこで、あるテクストの完結的な意味(構造)を、同じテクストからそれに背反するような意味(構造)を引き出すことによって「決定不可能性」に追いこみ、解釈し囲いこむこと自体を向こうかする企てがなされる。ディスコンストラクション(脱構築とよばれるこの批評行為は、しかし、それ自体"形式化"されれば、ゲーデルの(不完全性の)証明に帰着するのである。


「内省と遡行」 柄谷行人 (ISBN:4061588265

ラカンにおけて、主体は他者との関係でしか自らがなにものか見いだせない。だから他者の欲望を欲望する。想像関係として現前の他者を欲望しても、象徴関係として大文字の他者を欲望しても、決して満たされない。自らが何者であるか、充足する事はない。このような決して満たされる裂け目が現実界である。そしてこの裂け目は、言語体系における自己言及の裂け目=ゲーテルの不可能性の構造をもつ。ここに精神分析と言語論が融合された美しい主体論がある。そしてこれを東浩紀否定神学と呼んだ。ラカンにおいて主体は否定神学的な主体である。

言語ゲーム「信念」によるコンテクストを基底にしているとすれば、すなわち「断絶」を超越論的に乗り越えようとするとき、このような否定神学的な主体が浮上する。たとえばウィトゲンシュタインもいうように貨幣交換も一つの言語ゲームである。ある人が貨幣に価値があるように(無意識の「掟」によって)振るまい、他の人がそれに合わせて商品交換が成立させる。そのようなリレーのネットワークよって、貨幣の構造は支えられている。そしてこのときに貨幣を中心化する否定神学の構造が現れる。

だからこのような「信頼」のネットワークがとぎれる外部ではとたんに魔法が解けて、それはただの紙切れでしかなくなる。たとえばある貧しい未開の土地に行って「これは1万円札といって、この国で言うと家が建つぐらいの価値があるんだ。だからこの家と交換してくれ」と言って通用しないだろう。マルクスが恐慌によって資本主義は破綻し、その先に社会主義社会を見たのも、商品交換がこのような「信念」というもろい基盤の上にしかなく、魔法はいつか解けるだろうからだ。
*2

*1:「なぜ「空気が読めないことが最も嫌われる」のか?」http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050825

*2:画像元 http://1fukufuku.com/?pid=1546160