なぜレトリックは人へ訴えかけるのか 現実とはなにか8

pikarrr2008-04-10


論理とレトリック

最後のキスはタバコのflavorがした ニガくてせつない香り
明日の今頃にはあなたはどこにいるんだろう 誰を思ってるんだろう
You are always gonna be my love いつか誰かとまた恋に落ちても
I'll remember to love You taught me how
You are always gonna be the one
今はまだ悲しい love song 新しい歌 歌えるまで


「First Love」  宇多田ヒカルASIN:B00000JAT7)  

詩はコンスタティブな意味では表しきれない「意味」を伝える。それは意味を伝えると言う以上に心に訴えかけてくる。なぜ詩にはこのような力があるのだろうか。

他者に意味を伝える方法として、大きく二つが考えられる。一つはより論理的に詳しく説明して、納得させる。もう一つはたとえ話、物語や俳句、詩などのようにレトリックカル(修辞的)に意味を迂回しつつ伝える。

ギリシア時代以来、この二つは言語研究の中の重要な研究対象であった。論理学が言明の内容よりも前提と結論がどのような形式でつながっているかという「形式」をめざすのに対して、隠喩(メタファー)やアイロニーなどのレトリック(修辞学)は人を説得するための弁論術としてあった。しかし近代に入ると、研究としてのレトリックは廃れていく。現代でも言語研究において曖昧で特殊なものと位置づけられている。

論理が主観を消去し、客観を目指すのに対して、レトリックは主観的な共感を目指す。現代において、レトリックは研究分野と言うよりも、人へ訴えかける物語、詩など芸術的な表現方法としてあるといえる。




レトリックという運動


このような「レトリカルな効果」は、いままで示した「断絶」によるものと考えられる。コンスタティブな言葉では<言語記号>−<意味(概念)>が明確に結びついている。論理学ではこの結びつきは一義的に決定されるとされ、形式主義へ向かう。

人工知能は、「最後のキスはタバコのflavorがした ニガくてせつない香り」という歌詞からコンスタティブな意味以上の意味を受け取ることはできないだろう。仮にそこに人と同じような過剰な意味を読み込ませようとさせるならば、「フレーム問題」からフリーズしてしまうだろう。

「レトリカルな効果」とは、<言語記号>−<意味(概念)>を切り裂き、小さな穴を開けてしまう。人工知能がフリーズするその手前で、人は「なにか」を受け取らざるおえない。

メタファーは単に言葉の要素ではなく、われわれが考えるときや行為するときにも、避けえないものです。それは思考や行為の媒体であると言っただけでは足りません。メタファーとは、概念の生じる場であって、いわばそこで概念を育む母胎のようなものだ、と理解していただきたいと思います。


ようやく問題を解いた
時間とともに、いっそう問題がもつれた
入り組んだ問題
なんども問題に打ち当たった
にわかに問題が浮上してきた<問題>がわれわれにとって氷や固く結ばれた紐などのように、実質のつまったある種の実体のようにイメージされているのが確認できます。・・・<問題は固形物である>というメタファーを使って、はじめてわれわれは問題に関して語れるようになったばかりか、実は、そもそも問題なるものを概念として思考しうるようになったのです。メタファーの場で概念を形成したおかげで、問題に打ち当ったり、問題を解いたりすることが、われわれに経験としてはじめて可能になったわけです。メタファーが単なる言語の問題ではなく、思考や行為の問題であるというのは、こうした概念の成立を意味します。P46-48


「新修辞学」 菅野盾樹 (ISBN:4906388965

論理では<言語記号>−<意味(概念)>が一義化されている。これは主観の排除であり、人は言葉に対して客観的な立場におかれる。それに対して「レトリックな効果」では、<言語記号>−<意味(概念)>に裂け目が開けられて、<意味(概念)>は宙づりにされる。

たとえばいまでは「巨乳」が性的なメタファーであるのはあたりまえになっている。これはひとつの文化でしかない。人間の性的な倒錯は様々なものに性的な意味を読み込むことができ、「女子高生」でも「幼児」でも性的なメタファーになりえる。対象を「性的なものとして見る」という「概念の成立」には(文化的な)訓練が必要である。ここでは人はすでに運動の一部として巻き込まれており、客観的な立場ではおられない。それが人に訴えかけるという「レトリックな効果」である。




レトリックの共犯と脅迫


先に示したように、「お笑い」というユーモア(レトリック)は「ボケ」という<言語記号>に対して、「おもしろい」という<意味(概念)>へ向かう間に、いかに解釈するか、これはおもしろいのか?という断絶がある。それは人工知能が決して越えられない断絶である。だから「ボケ」と笑いの間に、一瞬の緊張が走る。「ツッコミ」とはこのような緊張か解放するために、「笑うところである」ことをしめすサインである。「はい、みなさんわらってください」ということだ。

なじみのお笑いタレントや、パターン化された笑いでは、安心して笑うことができるが、初めて見る、経験した事がないような「ボケ」では人々がうまく笑えないことはよく起こる。笑いはおもしろいという私的な体験ではない。もしひとりだけ笑うと、それは場から浮いてしまう。笑いは他者と同時に一気に笑わなければならない。乗り遅れてはいけないが、先んじてはいけない。それが「せき立て」である。

自ら(意識)さえもだますように、無意識はせき立てられて身体をふるわせて、回りの人々にわかるように大声で笑う。このような「せき立て」の運動は社会的な共犯関係でありつつ、ひとつの脅迫でもある。

みなが笑っている場で、ひとり笑っていない者は回りに不安を与えて、不気味である。それは「あえて」笑っていないのではなく、ただうまく笑えない場合でもだ。そしてこのように「笑えない者」の進む道は二つしかない。場(コミュニティ)から排除されるか、「王」になるかである。「王」になるためには、みなより一瞬先に大声で笑いきってしまわなければならない。先走ってしまうと共犯性は崩れ、逆に排除されるからだ。それはひとつの賭であり、勇気である。「王」の笑い声が大きいのはこのためだ。

ただ少しの「笑い」の速度差が構造上の大きな異なる位置に立たされる。「王」になるか、「奴」となるかは、コインの裏表の関係にある。




「せき立て」


原理的には、コミュニケーションはこのような「せき立て」の連続である。このような「せき立て」の原理を、ラカン「囚人ゲーム」という見事な例でしめした。(エクリ1 「論理的時間と予期される確実性の断言」ISBN:4335650043論理的には決定できない問いがあり、それは他者との一瞬の暗黙の合意によってのみ解を得られる。

三人の囚人に五枚の円盤が与えられています。三枚は白で二枚は黒。囚人たちの背中に円盤が貼り付けられています。他の囚人の背中を見ることはできるが、自分の背中をみることはできません。もちろん会話も禁止されています。ゲームの規則は、自分の背中の円盤の色を論理的に推論して言い当てることができた囚人だけが解放されるというものです。規則の説明がなされた後に、三人の囚人の背中には、三つとも白い円盤が貼られます。

ゲームはあっけない結末を迎えます。三人の囚人はいっせいに走り出し、三人とも正しい解答を述べて解放されるのです。彼らはどのようにして、正しい答えを得たのでしょうか。その思考過程は以下のようになります。

囚人Aは、他の二人の囚人B、Cの背中が白いのを見て考える。もし自分(A)の背中が黒なら、囚人Bの目には黒と白の円盤がみえているだろう。ならば囚人Bはこう考えるはずだ。
「もしも自分の背中も黒なら、囚人Cは駆け出しているはずだ」「なぜならCの目には黒の円盤が二つ目に入っているのだから」「しかしCは駆け出そうとはしない」「ということは、私(B)の円盤は白なのだ。駆け出そう」と。

しかし誰も駆け出すものはいない。ということは、私の最初の仮定は誤っていたのだ。すなわち、私(A)の背中の円盤は白なのだ。

この判断には、明らかに時間的な要因が含まれています。囚人Aの論理構成は「自分以外の二人の囚人が駆け出さないところをみた」という瞬間と、そこから下される事後的な判断なしには成立しないためです。また、この判断を下すには、誰よりも早く駆け出す必要があります。誰かが駆け出す瞬間をみてしまうと、論理的な判断が不可能になってしまうからです。これを精神分析家は「せき立て」と言います。


「ひきこもり文化論」  斉藤環 (ISBN:4314009543
参照 http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20070604




近代化というレトリック


論理は主体を排除する客観主義を目指すが、「論理」に感動することもあるだろう。そもそも数学、物理学、論理学などの形式化は世界が簡潔な法則でなりたっているという「信念」によって成り立っている。だから世界がE=mc²のような「美しい」方程式として見出されたとき、感動を覚えずにはおれないだろう。

物理学が、コペルニクス革命」に始まるのは象徴的である。コペルニクスが示したのは、「世界は美しい法則でできている」というレトリックである。そこに近代化という「せき立て」が生まれた。

われわれは時間を何か資材のように捉えています。言い換えると、われわれは無意識のうちに、時間をある目的にために消費されるもの、量を測ることができるもの、価格がつけられるもの等、と考えているわけです。その証拠は、次のようなありきたりの表現に見ることができるでしょう。

話をする時間がまた沢山ある
試験時間はもう少ししか残っていない。
時間を節約する必要がある。
会う時間を取っておいてくれ。
時間を浪費してはいけない。

実は、こうしたメタファーの体系が他の体系をさしおいて支配的になったのは、産業社会が成立して以降のことなのです。これはおもに近代の西欧に始まる比喩にすぎません。西欧も近代以前には時間に関してこういた概念をしていませんでしたし、いまでは少なくなりましたが、産業化されていない社会では、時間もこれとは違ったメタファーで時間を経験する選択肢が残されているのです。

フランクリンの有名な格言「時は金である」は、近代社会では時計が計量化されるものになり、同時に労働の量の尺度になったことを物語っています。これのメタファーが「資本主義の精神」の重要な一部を形成している点は、社会学ウェーバーが明らかにしました。P49-50


「新修辞学」 菅野盾樹 (ISBN:4906388965

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