なぜ科学技術は成功したのか 現実とはなにか10

pikarrr2008-04-27


行為系の連続性と可塑性


「行為」による世界との関わりの特徴の一つは連続性にある。たとえば足は「立つ」「歩く」「走る」「蹴る」などのときに作動するわけではなく、絶えず行為している。座っているときは身体のバランスをとっているだろうし、貧乏揺すりのようにストレスの解消を行っている。このような行為の連続性はそのものを語ることができない。語ることは連続性からの名付けによる切り取りでしかないからだ。ただ行為は連続している。

「行為系」のもう一つの特徴は可塑性が上げられる。行為には同じ行為は存在しない。行為は連続性の環境と相互作用しあい、たえず変化している。足という器官は進化という時間の中で、環境との関係によって発達してきただけではなく、現在いまも環境との密接な関係を保ちつつ、行為は変化している。このような行為の可塑性の例として河本は子供が歩行を覚える場面を例に上げている。

オートポイエーシスの機構に相応しい典型的事例は、身体行為の形成に見られる。・・・たとえば始めて歩き始める幼児は、一歩歩くごとに歩行する自己を形成する。一歩歩くことが、そのつど歩行する自己の形成になっている。そのため二度と同じ一歩を踏み出すことができない。歩行の反復は、反復する行為のあり方をそのつど変貌させていく。・・・そのため身体行為の形成プログラムがあるとして、このプログラムは行為の実行をつうじて形成され、行為は次の行為と接続可能なよう実行されるように組み立てられるはずである。P45


オートポイエーシスの拡張」 河本英夫 (ISBN:4791758072

現在は、相対主義の時代である。確かなものはない。しかしそれでも人は現実に適応して生きている。これを支えるのがこのような行為系である。行為は「真実」をしるわけではないが、その連続性と可塑性によって環境と密接な関係を保ち続けている。




言語認知系による世界制作


では言語はなにを行うのか。言語認知系が行うのは、<観察者>の位置に立ち、行為系によって現れる連続性に区切り(裂け目)を与えることである。たとえば「歩く」という言葉によって、行為の連続性に区切りをいれて、切り取る。この言葉の原初における「歩く」とは、「これを歩く」と呼ぶという宣言であり、そして「歩け」という命令である。

たとえばりんごは「りんご」という言葉の前にはない。その前には切れ目のない連続的な環境しかなく、「これがりんごだ!」という命令によって、りんごははじめて「りんご」足りえる。しかし本来切り取った実在のりんごは、現前の一つのりんごである。「これがりんごだ」と命令することはりんご一般を意味する。すなわち言語は実在の名指しではなく、「りんご」そのものを制作している。

「歩く」という行動(ふるまい)は、「歩く」という言語以前には存在しない。行為によって現れた連続した世界が先行し、それに言語が切れ目を入れるのではなく、言語によって「世界」そのものが現れる。それが、言語化されないものは存在しない言語認知系の世界である。

このように言語は宣言であり、命令であり、コミュニケーションであり、他者と世界を共有するがめざされる。共有性の本質は、動物の群にも見られるように、行為を同調されることによって、群れで獲物をしとめる、敵から身を守るというような、強い力を生むことだろう。そして認知系は、言葉によってより的確で詳細な協調性がめざされる。

このような言語の宣言、世界の形成場面では、シニフィアン(言語記号)が選考する。<言語記号>と<概念(意味)>と間には<裂け目(解釈項)>が存在する。すなわち修辞(レトリック)、特に隠喩(メタファー)である。

われわれは時間を何か資材のように捉えています。言い換えると、われわれは無意識のうちに、時間をある目的にために消費されるもの、量を測ることができるもの、価格がつけられるもの等、と考えているわけです。その証拠は、次のようなありきたりの表現に見ることができるでしょう。

話をする時間がまた沢山ある
試験時間はもう少ししか残っていない。
時間を節約する必要がある。
会う時間を取っておいてくれ。
時間を浪費してはいけない。

実は、こうしたメタファーの体系が他の体系をさしおいて支配的になったのは、産業社会が成立して以降のことなのです。これはおもに近代の西欧に始まる比喩にすぎません。西欧も近代以前には時間に関してこういた概念をしていませんでしたし、いまでは少なくなりましたが、産業化されていない社会では、時間もこれとは違ったメタファーで時間を経験する選択肢が残されているのです。

フランクリンの有名な格言「時は金である」は、近代社会では時計が計量化されるものになり、同時に労働の量の尺度になったことを物語っています。これのメタファーが「資本主義の精神」の重要な一部を形成している点は、社会学ウェーバーが明らかにしました。P49-50


「新修辞学」 菅野盾樹 (ISBN:4906388965

沢山ある「時間」、少ししか残っていない「時間」、節約する「時間」、取っておく「時間」、浪費する「時間」という「隠喩(メタファー)」の体系が、「時間」の概念を宣言する。それによって、<裂け目(解釈項)>は隠蔽され、<言語記号>=<概念(意味)>がもはや疑うことがない「現実(リアリティ)」として形成される。産業社会以降成立してこのような「時間」の<意味(概念)>は、有史以来の疑われない「真理」とされ、<裂け目(解釈項)>はなかったものとして無意識へと抑圧される。




メタレベル=言語が宣言される場、オブジェクトレベル=「権力」が増幅される場


再度、メタ言語(制作)図式にもどる。本質的に言語(コミュニケーション)において、オブジェクトレベルは存在しない。先に示した言語による世界の形成場面、<裂け目(解釈項)>が無意識へと抑圧される場面は、メタレベルからオブジェクトレベルへ遡行していく過程といえるだろう。

メタ言語(制作)図式 (*はコミュニケーション、◇は制作)


 オブジェクトレベル0 (学習0) 
   ◇演繹(ディダクション)・・・論理、アルゴリズム、数学(イコン、インデックス)
   *生得的生物反応(コミュニケーション)
 オブジェクトレベル1 (学習1) 
   ◇帰納(インダクション)
   *条件反射(パブロフの犬
 メタレベル1 (学習2) 
   ◇仮定(アブダクション)・・・仮説検証、シンボル
 メタレベル1.5 
   *言語コミュニケーション(言語ゲーム
 メタレベル2 (学習3) 
   ◇創造的仮定(アブダクション)・・・天才的な閃き
   ◇修辞(レトリック)・・・アイロニー、詩、物語り、お笑い、脱構築

ニーチェはこのような傾向を「権力への意志と呼んだ。「意味の導入」という「歪曲」によって人は世界を作り出す。この例としてニーチェは、宗教やイデオロギー「道徳」、さらに論理学を批判する。人は言語を手に入れることで、行為をより的確に同調させ、より強い力を手に入れたことを可能にした。メタレベルが言語の力の生まれる場とすれば、オブジェクトレベルへの遡行は「権力」が増幅される場である、といえる。

ニーチェが示唆しているように、人間を中心にして定義することによる権力への欲求は、人間に、終わることがない解釈の増殖を生み出させる。・・・解釈とは「意味の導入」(あるいは「意味を通じての欺瞞」)であり、比喩形成にほかならない記号形成である。なぜなら、この思考の中には、文字通りの、真実の、自己同一的な意味の可能性などないからである。同一化は比喩化という行為を構成する、したがって、「決してあるものがとらえられるのではなく、むしろあるものが表示され、歪曲されるのである(ニーチェ)」。このことは、もちろん、行為(結果)とその目的(原因)との同一性にも拡張される。「あることが目的をめざしてなされるときにはいつでも、何か根本的に異なった他のことが生起する(ニーチェ)」力への意志とは、「不断の読解」−表面上の同一化を通しての比喩化、解釈、意味作用−の過程である。P44-45


デリダ論」 ガヤトリ・C.・スピヴァク (ISBN:4582765246




帰納法のダイナミズム


再度言えば、「オブジェクトレベルへの遡行」とは、「真理」「現実(リアリティ)」が生まれる過程であり、権力が増幅される場である。これは<裂け目(解釈項)>の隠蔽によって行われる。

たとえば中世では多くにおいて、神が<裂け目(解釈項)>を補うことで「真理」が成立した。あるいは演繹、数学などでは、<解釈項>としての西洋文化は隠蔽され、時代、文化に関係なく成立するアプリオリな総合判断」とされてきた。このような演繹、数学などの世界の整合性を信じる、すなわち強く「オブジェクトレベルへの遡行」を志向する傾向は合理主義と呼ばれる。

それに対して近代以降、新たな「オブジェクトレベルへの遡行」として経験主義が生まれた。経験主義は合理主義のような「強いオブジェクトレベルへの遡行」を放棄することを特徴とする。たとえば帰納法では、「経験」によって行為系の連続性の世界へと実動的に関わり、それを近似的に言語認知系へと描写する。このような経験と描写を反復し、オブジェクトレベルへの遡行がめざされる。めざすのは合理的な「真理」ではなるが、それが近似値であることに自覚的であるという「弱いオブジェクトレベルへ遡行」と言えるだろう。

合理主義的な「強いオブジェクトレベルへの遡及」は、<言語記号>=<概念(意味)>は強い結びつきを要求することで、疑いを入れない強い信念、すなわち「強い超越性」を要求する。これは憶見を生みやすく、閉塞しやすい。

これに対して、経験主義の「弱いオブジェクトレベルへの遡行」では、経験と描写(行為と認知)の<裂け目>が差延する隙間として働くことで、ダイナミズムを与える。その成功例が科学技術である。(実験)行為において環境にコミット(経験)し、認知によって近似的に理論化(描写)する。またそれを元に仮説を立てて、環境に再度コミット(経験)するように反復し続ける。




「神の見えざる手」が豊かさを生む


このような説明は、ある意味で事後的である。近代において、経験主義が成功したのは、合理主義よりも方法論として優れていたというよりも、経験主義的なダイナミズムを生みやすい環境によるためではないだろうか。

近代における人口増加による都市化、印刷技術、交通手段などの発達によって、コミュニケーション環境が飛躍的に発展した。これによって帰納法における経験と描写(行為と認知)の反復は促進される。描写は高速で拡散伝達されることで、同様な行為(実験)を様々な場所で多くの人々によって追試され、再度描写される。そしてそれらが再度拡散伝達されるというダイナミズムを加速される。

これを表すメタファーが、アダムスミスの「神の見えざる手」というメタファーだろう。「自らが最も優位性を持つただひとつのモノを生産することに特化する・・・分業によって技術革新がおこなわれ、労働生産性が上昇することによって富(生産物の増大)は生まれる。(アダムスミス)」ここでいう「分業」とは単なる合理性ではなく、創発性である。すなわちダイナミズムとは創発性である。創発とは「部分の単純な総和にとどまらない性質が全体として現れる」ことである。

そして「神の見えざる手」が現代においても、近代以降を代表するメタファーであるので、「神の見えざる手」が経済活動に関係するからだ。アダムスミスに先立つ、経験主義者の祖であるロックにおいて、そのはじめに資本主義的であった。経験主義は自由主義であり、そしてそのはじめから資本主義と結びついている。

近代における経験主義的な方法論の成功が実際に資本主義経済として豊かさを生み出したという実績と切り離せないだろう。

ロックにおいてはこの自己保全の権利は具体的には、・・・生命、自由、財産の権利、つまり所有権を意味するが、この所有権が「労働」によって生ずるものとされている点に、かれの自然権思想の大きな特徴がある。

・・・このようにロックが所有権の根底に労働、経済活動をおいていることは、ロックの政治論として展開されている市民社会の現実が、すぐれて経済的な性格の社会であることを物語るものであるといってよいであろう。いうまでもなく、のちのアダムスミスをはじめとする古典経済学者においては、市民社会は自由放任を原理とする「商業社会」として、貨幣経済にもとづく社会としてとらえられることになるのである。P12


「社会思想の歴史」 生末敬三 (ISBN:4006000898

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