陶酔する人工知能たち


1  なぜ人は人工知能化するのか
2 なぜ「フレーム問題」は錯覚なのか
3 再び、なぜ人は「フレーム問題」に陥らないのか
4 なぜ世界は言語記号のようにポイエーシス(制作)されるのか




1 なぜ人は人工知能化するのか

なぜ人は「フレーム問題」に陥らないのか


人が世界と関わる二つの方法、認知と行為とはどのようなものだろうか。そのわかりやすい例が人工知能「フレーム問題」だろう。人工知能にチェスのような「閉じた」ゲームを遂行させれば、計算によって最適解を求めながら遂行するだろう。しかしたとえば有名なダニエル・デネット「フレーム問題の寓話」のような「開放系」の状況では、その過程で起こる場面(フレーム)が無限に考えられるために計算を収束させることができず、フリーズしてしまう。これを「フレーム問題」という。

「フレーム問題の寓話」 http://www.johf.com/logs/20070422b.html


昔、R1という名のロボットがいた。ある日、R1の開発者たちは予備バッテリーを別の部屋に隠して、その部屋に時限爆弾を仕掛け、まもなく爆発するようにセットした。R1は部屋をつきとめ、バッテリー回収作戦を立案した。部屋の中にはワゴンがあり、バッテリーはワゴンに載っている。R1「引き出す」というアクションを実行すればよいと判断し、ワゴンを部屋の外に引き出すことに成功したが、そこで最初の悲劇が起こった。時限爆弾もワゴンの上に載っていたため、部屋の外に出たところで R1は爆破されてしまったのである。

開発者らは第2のロボットの開発にとりかかった。自分の動作が引き起こす結果 (副次的作用) を判断できるロボットを作ればいい。新しいロボットはR1D1と名付けられた。 さっそくR1の場合と同じシチュエーションが設定され、R1D1はバッテリーの回収に取りかかった。「引き出す」というアクションの実行に先立って、R1D1は副作用のチェックを開始する。ワゴンを引き出しても部屋の壁の色は変わらないだろう、ワゴンを引き出せば車輪が回転するだろう…、膨大な副次的作用の可能性を検討しているうちに時限爆弾が爆発した。

問題は、関係のあることと関係のないことをロボットが見分けられなかった点にある。そこで開発者たちは、目的に関係のないことを見分けられるロボットR2D1を開発した。だが今度も悲劇は起こった。R2D1が無関係なことを見分けて、それらを一つずつ「無視」し続けているあいだに爆弾が爆発した。

では、なぜ人は「フレーム問題」に陥らないのか。これに対する一つの答えは、人は認知によって解を求めてから行為をするわけではなく、認知とともに行為している、ということだ。

認知とは世界全体を俯瞰する<観察者>の位置にたち、現在→最適解への最適コースを求めようとする客観主義、目的論的なものである。それに対して行為は認知とは異なった世界との関係性をもつ。行為は自立的に絶えず進行している。行為することで場面(フレーム)は変化しまたそれにあわせてまた行為するというオートポエティックなものである。

人は<観察者>の位置に立ち世界を認知(観察、予期)しつつ、平行して行為を継続している。認知によって最適解が収束する、しないに関わらず、すでに行為してフレームは変化しつづけている。だから「フレーム問題」に陥る事がない。




恋は人を人工知能化」する


しかし人は多くにおいて、「フレーム問題」のような状況に陥っている。たとえば恋愛の場面である。誰かを好きになると人はちょっとしたパニックになる。「彼女は僕のことをどのように思っているのだろう。」「あっ、いまちらっとこっちをみたけどどういう意味だ。僕のことが好きで合図を送っている?」などなど、彼女の動作、会話の隠された意味を解読しようと妄想する。思い切って、「好きです。つき合ってください」と告白すればすっきりするだろうが、怖くてできない。

あるいは思春期に「僕はなんのために生きているんだろう」「このことになんの意味があるんだろう」となにかと悩んでしまう。大人になり社会の様々な情報を理解できるようになるが、社会での経験が少なくというアンバランスな状況がこのような悩める時期を生み出すのだろう。

これらは、行為の前で考えすぎてしまうという「フレーム問題」に近い状況である。このような認知過多の状態を人工知能化」と呼びたい。

「認知」を言語論的に図式化すると以下のようになる。<言語記号>は<解釈項>によって解釈し<概念(意味)>が理解する。人工知能化」とは、<言語記号>(彼女の動作、会話)を様々に解釈してしまい、その<概念(意味)>が収束せずに「躓き」、混乱、妄想に陥ってしまう。

このような認知過多な状態に対して「行為」は、解釈の決定不可能を断ち切って、「思い切って告白する」「思い切って毎日を楽しむ」など、場面(フレーム)を進展させる力となる。

<言語記号>−<解釈項>−<概念(意味)>


<彼女の動作、会話>−<様々な解釈>−×躓き<妄想>




古い組織は人を「機械化」する


たとえば仕事において担当やバイトが権限以上の事態に直面すると、上司にお伺いを立てるだろうが、すぐには連絡が取れない場合、どのように処理をしてよいか、パニックになってしまう。

この場合には彼らは頭が悪く処理できないのではなく、仕事に忠実であるほど権限を飛び越えて行為することを躊躇し、権限内で対応しようとする。しかしいくら考えてもそこには解はなく、パニックになる。これも「フレーム問題」のような状況といえる。

図式的に表せば、A)通常は、<問題>対して状況にあわせて意味を理解し適切に遂行する。しかしB)のように、<問題>が権限外、マニュアル外の場合には解釈が収束せずに「躓き」、パニックになってしまう。

          <言語記号>−<解釈項>−<概念(意味)>


A)通常      <問題>−<権限内>−<適切な理解、遂行>
B)人工知能  <問題>−<権限外>−×躓き<パニック>
C)機械化     <問題>−(×思考停止)−<マニュアル的な解釈>
D)野蛮化     <問題>−(×思考停止)暴走

このような人工知能化してしまうのは、なんとかしようと努力しているからと起こることだ。たとえば公共機関や古い組織が往々に形式ばった対応になるのは、担当が人工知能化する前に思考停止してしまうからだ。そしてただマニュアルに従った機械的な対応しかない。機械は入力(input)に対して出力(output)が決定され悩むことはない。だからこれは「機械化」といえるだろう。<解釈項>が社会的な権威や宗教的な信念などに強く依存する場合にも思考停止しマニュアルや規則や教えに従ってしか対処しない。

さらに「どうしよう?」と悩む前に、行為してしまう場合がある。思考停止して行為することは「暴走」である。これは「野蛮化」とでも言えるだろう。しかし俗に言う「仕事ができる人」というのは、権限外に対して「責任」をもつことで、多少野蛮化しつつ柔軟に行為する人であると言えるだろう。

これら人工知能化」「機械化」「野蛮化」の例は極端に図式化しすぎているが、これらからわかることは、「認知」には社会的な基盤として<解釈項>が働いている必要がある。そして多くにおいて毎回毎回解釈するのでは疲れるために社会的な<解釈項>に従い、無意識に「機械化」して対処しているだろう。そして社会的な<解釈項>では対処できない場合には、人工知能化」する前にある程度強引にでも「野蛮化」して行為する必要があるということだ。




「フレーム問題」は人をコミュニケーションへ向かわせる契機


たとえば彼女とじゃれ合っているときに「バカ!」言われる。「バカ」のコンスタティブな意味は「頭が悪い」であるが、この場合の「バカ」の意味は「親しみ」を表しているだろう。ここでは「バカ」という<言語記号>はレトリカルに使用されている。だから解釈する場合には「え?なに?」という小さな「フレーム問題」が起こっている。そしてその返答として「なんだよ!」とじゃれかえし、彼女が笑うことで<解釈項(状況)>が正しく共有されていることが確認される。

すべての認知で<言語記号>はレトリカルに現れて、<解釈項(状況)>において「え?なに?」という「小さな躓き」が起こっている。このような傾向が特に顕著なのが他者とのコミュニケーションである。もしコミュニケーションがすべてコンスタティブな意味によって機械のように行われたらいかに殺伐とするだろうか。それはどんなにまじめな場であってもだ。たとえば「お笑い」のボケも理解不能な<言語記号>を示すことで、「フレーム問題」を引き起こし、一瞬の間のあとに「笑う」という行為を引き出す。

   <言語記号>−<解釈項>−<概念(意味)>


彼女:<「バカ!」>−<彼女がじゃれている>−×小さな躓き<親しみ>
ボク:<「なんだよ!」>−<じゃれかえす>−×小さな躓き<親しみ>

<言語記号>−<解釈項>−<概念(意味)>

<お笑いのボケ>−<お笑いを見ている状況>−×小さな躓き<おもしろい(笑い)>

すなわち多くにおいて「フレーム問題」は人をコミュニケーションへ向かわせる契機となっている。コミュニケーションは「え?なに?」という「小さな躓き」が次の行為(発話)を生み出すことで繋がっていく。そしてこの終わりのない連鎖が新たな<解釈項>を変化させていく。それがつむがれて社会的な基盤としての文化活動となる。

しかしポストモダン論で言う大きな物語の凋落」という現代の状況は、<解釈項>を社会基盤として共有することがむずかしくなっていることを示している。「え?なに?」という「小さな躓き」以上に理解不能「大きな躓き」によって行為で容易にとび越えることができなくなっている。このような人工知能化」する社会の中で、躓きの不安から反動的な「機械化」「野蛮化」が生まれている。




2 なぜ「フレーム問題」は錯覚なのか

先のエントリー「なぜ人は人工知能化するのか」http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20080522#p1)について、いくつか反響をいただきました。説明不足から誤解を与えているようなのでid:raurublockさんとの議論を参考にボクの考えをもう少し説明してみたいと思います。




「フレーム問題」という客観主義的な錯覚


人に人工知能「フレーム問題」が起こる、というのは客観主義的な錯覚です。客観主義とは自らを<観察者の位置>(神の目線)におき、現象(フレーム)を観察することです。これによって現象(フレーム)は<観察者>とは切り放された客観的に存在することになります。基本的に科学は客観主義です。

とくに人の認知について考える場合には、自らも現象(フレーム)の一部であり、現象に影響を与えることを考慮する必要があります。たとえば神経生理学などの実験によると、人の神経回路は入力(情報)を流し込めば出力(認知結果)が出る機械ではなく、入力(情報)とは別に自立的に解釈し出力(創作)するということが明らかになっています。

人間の色知覚については、神経生理学的にみるときわめて微妙なことが生じている。・・・色知覚では条件しだいで、同じ波長の光が異なった反応をし、光の量が乏しければ、赤より青の方が支配的にみえる。徹夜した朝の夜明け前、街並み全体が青みがかって見える。色知覚は「不規則な反応」をすることが多い。にもかかわらず人間の眼が色調を区別する場合には、三万五千種程度区別することができるらしく、「高度に分節している」。・・・物理的刺激との関連では、同じ物理的刺激が異なった色知覚をもたらし、異なった物理的刺激が、同じ色知覚をひきおこすこともある。つまり物理的刺激と色知覚との関係は「非対応」である。

また物理的な電磁場の波長スペクトルは連続的だが、色知覚においては、「赤」「オレンジ」「黄」のように質的な差異として不連続になる。そのため色知覚は「構成的」に生じる。色知覚では、経験科学的な以上のような特質が明らかになっている。

これらをもとに神経システムの作動のありかたを考えてみると、以上のような帰結が得られる。神経システムは、外的刺激を受容してそれに対応する反応をするのではなく、むしろそれじしんの能動的な活動によって視覚像を構成する。P162-163


オートポイエーシス―第三世代システム」 河本英夫 (ISBN:4791753879

すなわち観察者と現象(フレーム)は切り離せず、現象(フレーム)は<観察者>の解釈との関係で現れます。そして<観察者>の解釈はその時の現象(フレーム)から影響を受けるという相互関係にあります。だから人間の認知の場合、「フレーム問題」のようなフレームが固定するのは客観主義的な錯覚であって、フレームは絶えず変化しています。




<行為によりフレームがかわる>


先のエントリーでいった「認知とともに行為している」「認知によって最適解が収束する、しないに関わらず、すでに行為してフレームは変化しつづけている。」ということは、たとえば

ネズミっぽい?→<行為によりフレームがかわる>→違う。ウサギっぽい?→<行為によりフレームがかわる>→耳が長い?→<行為によりフレームがかわる>→白い?→<行為によりフレームがかわる>→・・・やっぱりウサギだ

ここでいう行為とは、よく見るでも、近づくでも、息をのむでもいいのです。行為は<観察者>の解釈に影響を与え、そして現象(フレーム)に影響を与えます。それによってフレームはわずかずつでもかわっています。ただ人の認知は<行為によりフレームがかわる>をどこからかやってきた閃き(直観)と錯覚するかもしれません。

たとえば「だまし絵」は能動的に<行為によりフレームがかわる>ことで違ってみえることがおもしろいアスペクト認知」の例です。しかしアスペクト認知」でもはじめて見たときから1分後のフレームはかわっています。その間に人は見方(<解釈項>)に慣れて(学習して)います。最初よりもみることが簡単になっています。

「この中に隠れているもう一つの生き物、何でしょう?」
http://www.n-i-c.gr.jp/2007web/favorite/index.html




人工知能化」という比喩(メタファー)


ボクは人が誰かを好きになると人工知能「フレーム問題」のような状況に陥るといいましたが、これは厳密な人工知能「フレーム問題」とは異なります。恋愛中でも彼女をそれほど思わない時もあれば、ものすごく気になり妄想するときもある。また他の女性に目移りすることもあるし、性的欲求不満の波が関係することもある。だから恋愛中もたえず「フレーム」は変化しています。

フレームは変化しているが、「告白する」などの行為が怖くてできないことで認知過多になり、人工知能「フレーム問題のような」状況に陥ることがある、ということです。だからボクが人工知能化」「機械化」と呼ぶのは、ある状況では人はまるで人工知能のような」「機械のような」状況が見られるという比喩(メタファー)です。

しかし比喩(メタファー)とっても人工知能化」によって「フレーム問題のような」状況が酷くなることで、日に何度も手を洗ったり、食器の汚れが気になり外食できないなどの潔癖症や、対人関係がうまくいかないという不安や強迫性など神経症につながります。




「行為でない認知は存在しない」


ボクは先のエントリーの最初で、「人が世界と関わる二つの方法、認知と行為」と二項対立で語ってきました。しかしこれまでの説明で明らかになったのは、人に人工知能のような「フレーム問題」が起こらないのは、人は人工知能のような純粋な認知がない。人の認知とは一つの(解釈)行為である。行為でない認知など存在しないということです。

人の認知と行為との複雑な関係をわかりやすく、認知/行為の二項対立の図式で語るために人工知能の例から話は始めたのですが、早くも形而上学的二項対立の脱構築に到達してしまいました。

しかしそれでも人は神経症にいたるような人工知能「フレーム問題のような」状況に陥ることがある。この「自然な振るまい」「不自然な振るまい」の差異はなにか。これがシリーズ「陶酔する人工知能たち」の一つのテーマです。




3 再び、なぜ人は「フレーム問題」に陥らないのか

「運動自体の知覚」


たとえばアナタは椅子に座っている。少し離れたテーブルの上にりんごがおいてある。アナタは「あのりんごを取ろう」と思い、立ち上がり、テーブルまで歩き、りんごを手に取る。ミッション成功である。ここでとても不思議なことは、ミッションを達成するまでにどのように体を使い立ち上がり、二足で前進し、手を動かしてりんごを取ったのか「知らない」ということだ。アナタが知っているのは「あのりんごを取ろう」と思い、見事に取ったことだけである。

人にとってこれらの一連の動作は考えるまでもないとても簡単なことであるが、もしこれら一連の動作ができる人間型ロボットをつくろうと考えたとき、これら動作の難解さがわかる。「立ち上がる」「歩く」「掴む」、それぞれが先端のロボット研究のテーマとなっているような高度な制御技術が必要となる。現時点で一連の動作が行えるロボットを制作することはとても困難だろう。

このような意識に上らない運動を秩序だてる知覚を養老孟司「運動自体の知覚」と呼んだ。

多くの運動は「無意識」である。ただ、この「無意識」の意味は、あんがい難しい。本棚の本を取ろうとして、歩き出す。目的の本を手にとる。これだけならなんでもないが、その過程の動作をいちいち意識したらタマらない。日常慣れた動作でも、意識したとたんにギコチなくなるのは、誰でも経験する。ふつうは目的を設定し、号令を発すれば、あとはほとんど自動的に身体が動いてくれる。P221

運動系が脳内にあり、それが大脳皮質のかなりの部分を占める以上、その運動系について、われわれはなにかを知っているに違いない。そうした「知識」こそ、・・・まさに「運動自体の知覚」であろう。P225


唯脳論 養老孟司 (ISBN:4480084398




行為に対する野心的?な考察


「運動自体の知覚」がどのようなものであるかは、認知科学の分野でもまだわかっていない。(参照 蒼龍のタワゴト 「そこでただ突っ立ってないで、考えなさい」http://d.hatena.ne.jp/deepbluedragon/20080225/p1)このために主に養老孟司唯脳論オートポイエーシス論」という行為に対する野心的?な考察を参考に以下の項目を考えてみたい。 

1) <目的論>と<無自覚>
2) <連続性>と<自立的な秩序維持(オートポイエーシス)>
3) <試行錯誤>と<訓練・経験による習得>
4) <他者の模倣>と<伝承文化>
5) <物理的環境>と<社会的コンテクスト>




1)<目的論>と<無自覚>  視覚系と聴覚-運動系の逆理


行為において「自覚」されるのは「目的(意図)」「あのりんごを取ろう」と、「結果」「りんごがとれた」だけであり、その間の行為そのものは「どのように」行われているかわからない。「ただ行なっている」としかいえない。

脳の感覚の場合と同じように、自分の運動系を知っている。それは、始めは知覚系による、運動の監視のみだったであろう。しかし、やがて運動系の脳内での機能そのものが、われわれの意識にのぼり出したはずである。それが目的論の発生に違いない。

こうした「運動の意識」は、たとえば・・・運動のプログラムをいちいち意識するようなものではなかったであろう。それでは、プログラム自体が動かなくなる。従って、その意識は、プログラム的な細部は省略するが、出力と入力はしっかりと押さえるものだったであろう。考えてみれば、それが「目的意識」である。われわれはなにかを「しようと思い(意図)」、それに「適した行動をとる(運動)」。それだけ知っていれば、行動は十分であるらしい。それ以上の細部が必要なのは、新しい随意運動を練習する時だけであろう。それもほとんど意識がないのは、よく知られている。

目的論というものが、アリストテレス以来、ヒトの思考と切っても切れない縁があるように見える。それはなぜか。われわれの脳は、運動系からいわば「目的論を取り出して」いるのではないか。P225-227


唯脳論 養老孟司 (ISBN:4480084398

さらに唯脳論では、脳の観点からヒトの活動を視覚系と聴覚-運動系にわけている。これはそれぞれ交わることがない光と音という外界情報に対応し、以下のような差異がある。これら二つは脳は「連合」しているが、そこに生まれる差異が人の行為の特徴を生み出している。

視覚系
 ・「物事をひと目でみてとる」、無時間性、構造。
 ・コマ送りの形で時間=運動を構成する。映画。
 ・純粋な視覚は、瞬間か永遠かを表現する。


聴覚−運動系
 ・時間軸の上を単線で進む、機能
 ・リズムすなわち繰り返し単位が重視。音楽。


唯脳論養老孟司)より

たとえば先の<目的論>と<無自覚>という特徴は、視覚系と聴覚−運動系の差異に関係するだろう。「目的(意図)」「あのりんごを取ろう」というときに、「結果」「りんごがとれた」という無時間な視覚像が予期されている。そして聴覚−運動系の連続性によって、その間の行為そのものは無自覚に「ただ行なわれる」

視覚の特質は、「物事をひと目でみてとる」ことにある。写真はそれを典型的に示す。・・・写真というのはいわば瞬間の像である。現実を流れる時間という要素が、写真そのものの中からは、抜け落ちている。それが視覚あるいは画像の特質なのである。

音ということになると、画像とは違って、時間軸の上を単線で進む。・・・音は始めから時間の中に存在している。視覚は時間を疎外あるいは客観化し、聴覚は時間を前提あるいは内在化する、と言ってもよいであろう。

外界の事物は、ただなにげなくそこに存在している。しかしわれわれの脳はそれを、聴覚や運動系に依存して、時を含めて取り込む。あるいは視覚系に依存して、時を外してとり込む。この二つが脳の中で「連合」するのは、そう簡単ではなかろう。・・・ヒトの脳は、視覚と聴覚という本来つなぎにくいものを、いわば「無理に」つないだのではないか。その「無理」が、意識的な考察では年中顔を出す。P147-151

視覚はコマ送りの形で時間=運動を構成する。これが映画である。したがって、視覚の時間には、いわば量子が存在する。これをわれわれは瞬間と言う。それは、「視覚が構成する運動」すなわち映画であれば、一秒の十六分の一から三十二分の一である。この「量子」を固定し、それに対して他の感覚を「流せば」「永遠」という観念が生じる。・・・したがって純粋な視覚は、時間に関しては、瞬間か永遠かのいずれかを表現する。

他方、聴覚-運動系では時間は流れる。とくに聴覚では、リズムすなわち繰り返し単位が重視され・・・音楽は典型的に現れる。こうした「単位性」が、すでにのべたような、視覚との連合を基本的に可能にするのであろう。P200-201


唯脳論 養老孟司 (ISBN:4480084398




2)<連続性>と<自立的な秩序維持(オートポイエーシス)>


「目的」を達成したから行為が終わるわけではない。「りんごをとった」あと、ロボットのように立ちつくすわけではなく、行為は続く。というか生きている限り行為をとめることはできないだろう。寝ていようが行為は続いている。

そして行為の「目的」が自覚されないからといって、操り人形のように身体が秩序なくバラバラに動き出すわけではない。無自覚なときにも行為はある自立的な秩序をもって連続的に運動し続けている。このような運動の連続的な自立性はオートポイエーシス・システムと言えるだろう。

物理的刺激との関連では、同じ物理的刺激が異なった色知覚をもたらし、異なった物理的刺激が、同じ色知覚をひきおこすこともある。つまり物理的刺激と色知覚との関係は「非対応」である。

また物理的な電磁場の波長スペクトルは連続的だが、色知覚においては、「赤」「オレンジ」「黄」のように質的な差異として不連続になる。そのため色知覚は「構成的」に生じる。色知覚では、経験科学的な以上のような特質が明らかになっている。・・・これらをもとに神経システムの作動のありかたを考えてみると、以上のような帰結が得られる。神経システムは、外的刺激を受容してそれに対応する反応をするのではなく、むしろそれじしんの能動的な活動によって視覚像を構成する。P162-163


オートポイエーシス―第三世代システム」 河本英夫 (ISBN:4791753879

「だまし絵」は視覚系に対応する。「うさぎ(鳥)」にみえた「結果」は無時間であるが、「〜として見る」という行為が無自覚に働いている。だからだまし絵の驚きは「うさぎ」「鳥にもみえる」というフレームシフトにあるのではなく、この二つにしかみえないということにある。そこには「うさぎとして見る」「鳥として見る」という「自立的な秩序維持(オートポイエーシス)」が無自覚に働いていることを自覚させられるのである。このような「〜として見る」という行為は見る時にはいつも無自覚に働いている。




3)<試行錯誤>と<訓練・経験による習得>


行為は生まれたときからできるわけではなく、「立ち上がる」「歩く」「掴む」などの簡単な行為でも後天的な訓練・経験によって獲得される。だからいつも試行錯誤を基礎としている。そしてこのような訓練・経験という試行錯誤によって、オートポイエーシス・システムとしての行為は生成・維持されるのである。

訓練・経験の反復によって「飛び上がる」「速く走る」「飛んでいるものをキャッチする」などさらに高度な行為につながっていく。これらには筋力の向上も重要であろうが、スポーツ選手の例でわかるように反復された訓練・経験が重要となる。

運動系には、もう一つ大切な性質がある。それはいわゆる試行錯誤である。・・・ヒトはそれをしばしば「経験」と呼ぶ。その意味では、運動ないし行動には、始めから「間違い」が許されている。運動系は「やってみなけりゃ、わからない」のである。P232


唯脳論 養老孟司 (ISBN:4480084398

オートポイエーシスの機構に相応しい典型的事例は、身体行為の形成に見られる。・・・たとえば初めて歩き始める幼児は、一歩歩くごとに歩行する自己を形成する。一歩歩くことが、そのつど歩行する自己の形成になっている。そのため二度と同じ一歩を踏み出すことができない。歩行の反復は、反復する行為のあり方をそのつど変貌させていく。P45


オートポイエーシスの拡張」 河本英夫 (ISBN:4791758072



4)<他者の模倣>と<伝承文化>


このような訓練・経験は他者を真似ることを基本にする。そして行為そのものは言語によって記述することが難しいために身近な他者の身振り手振りの観察を真似ることで習得していく。そして人から人へ伝承されることで文化が生まれる。

一般的に文化は文字によって伝達されると考えられるが、言語も行為である以上、言語行為そのものは書物だけから学ぶことはむずかしい。言語を覚えるのは書物から学ぶ以前に、他者の言語行為を真似ることで学ぶ必要がある。

たとえば学校で国語的な言語を学ぶ場合も、先生の言語行為を模倣することで習得するのである。そしてそのときは、学校が「正しいこと」を学ぶ場であり、先生が「正しいこと」を教える人であるというコンテクストの中で、国語的な言語は習得される。だからテレビから学ぶ言語行為は「正しくない」「おもしろい」コンテクストとして習得される。

そしてこのような言語行為の学習の経験が、その後の書物を読み学習することを可能にする。行為の模倣の重要性を考えると、映画の発明以降の動画メディアの発展は必ずしも現前する他者を模倣する必要はなくなったっている意味で、人の世界への関わり方を大きく変えただろう。




5)<物理的環境>と<社会的コンテクスト>との関連性


行為はオートポイエーシスな自立性を持つだろうが、「(物理的な)環境」とのアフォーダンスな関係性で行われる。「立ち上がる」行為は座っている椅子との関係、「歩く」のは床との関係、「掴む」のは「りんご」との関係として行われる。たとえば不安定な椅子や、凸凹の床、つるつるの「りんご」では、その行為は慎重に行われるという微妙に異なった動作になるだろう。

逆にいえば、商品デザインの基本は、行為を補助することにある、すなわち聴覚-運動系を無自覚化することを目的とする。椅子はこの椅子に座って転けないかと自覚しないように、床は歩いて躓かないかと自覚しないように、空調は暑い寒いと自覚しないように、アフォーダンスデザイン」されることを基本とする。

アフォーダンスとは、動物(人間)に対して環境が提供するために備えているものであるとする。すなわち、物体、物質、場所、事象、他の動物、人工物などといった環境のなかにあるすべてのものが、動物(人間)の知覚や行為をうながす契機をつねに内包している(アフォーダンスをもつ)。たとえば椅子は「座る」ことをアフォードしているし、床はそこに立つことをアフォードしている。

http://www.dnp.co.jp/artscape/reference/artwords/a_j/affordance.html

さらに複雑であるのが、「社会的なコンテクスト」の影響である。「社会的なコンテクスト」の分析において、「ドラマ(劇)、ゲーム、テクスト」という3つのファクターが必要であるといわれる。特に「ドラマ(劇)」ではその人、あるいはその行為の社会的な背景が問題になる。




再び、なぜ人は「フレーム問題」に陥らないのか


これら行為についての考察をもとに、先の「フレーム問題の寓話」を考える。まずこの問題設定そのものが視覚系の思考である。先に無時間な視覚像として「結果」「バッテリーを回収する」が想定されてそこまでの「フレーム」の可能性が解釈されるという筋立てである。しかしこの筋立てでは無数のフレームの出現するのは必然であり人工知能はフリーズするここには聴覚−運動系の思考が欠落している。

人が行為するとは、先の「りんごをとる」例でいえば、目的=「あのりんごを取ろう」、結果=「りんごをとった」「無時間な視覚像」が認知されたあと、事前に最適解が求められるのではなく、行為は「試行錯誤」として行われる。しかしそれが「試行錯誤」でなく、最適解をたどったように錯覚されるのは行為そのものが「無自覚」で行われて「りんごをとった」という結果のみが自覚されるという、視覚系と聴覚−運動系の逆理による。

そしてこのようなスムーズな「試行錯誤」が可能であるのは「訓練・経験」のたまものである。人は「立ち上がる」「歩く」「掴む」などの行為することに関して十年以上の訓練・経験をつんだ超ベテラン選手なのだ。

「フレーム問題の寓話」の例を人が行う場合も同様に考えることができるだろう。ただ「バッテリー回収する」だけならば「りんごをとる」ように鼻歌まじりにできるだろう。しかしロボットを吹き飛ばすぐらいの「時限爆弾が仕掛けられている」と事前に知っているとそう簡単ではない。その行為はかなり慎重にならざるおえないだろう。状況を観察しては行為しまた観察し行為することが慎重に繰り返される。「バッテリーを回収する」までに「無時間な視覚像(フレーム)」は何度も何度も作り直されるだろう。

さらにいつ爆発するかわからないという「死への恐怖」から行為を継続することができなくなるかもしれない。まるで人工知能のように運動する前に様々な状況(フレーム)を考えすぎて「フレーム問題」に近い状況に陥るかもしれない。

これを乗り越えるために重要なことは、爆弾に対処する事前の「訓練・経験」である。「訓練・経験」はこのような状況でどのように振るまえば良いかを教えてくれる。さらには爆弾に対処するための道具・装備などの「物理的環境」の使い方を覚えることで、爆弾がある状況でも行為することを容易にするだろう。

さらに重要なことは、なぜ死をかけてまでこのような危険な作業をしなければならないのか、という「社会的なコンテクスト」である。そこにその人の社会的な背景(仕事、家族)という「ドラマ(劇)」をもとにした使命がなければ誰が引き受けるだろうか。




4 なぜ世界は言語記号のようにポイエーシス(制作)されるのか

なぜ「言語コミュニケーション」は可能なのか


たとえばある人から「バカ!」言われる。「バカ」のコンスタティブな意味は「頭が悪い」であるから、「なんだと!」と怒るべきだろうか。いや、「バカ」「親しみ」の意味で使われることもある。なにかへまをやってので「慰め」の意味かもしれない・・・

これは人工知能「フレーム問題」に近い状況であると言える。人工知能「正確な意味を獲得し、的確に返答する」ことを命ずれば、「バカ!」の前でフリーズしてしまうだろう。しかし人は「フレーム問題」に陥らず、当たり前に言語コミュニケーションをおこなえているのは、まさに先の「なぜ人は「フレーム問題」に陥らないのか」と同じ構図がある。先の説明文を「言語コミュニケーション」にそのまま使うことができる。

まずこの問題設定そのものが視覚系の思考である。先に無時間な視覚像として「結果」「意味が伝わる」が想定されてそこまでの「フレーム」の可能性が解釈されるという筋立てである。しかしこの筋立てでは無数のフレームの出現するのは必然でありフリーズする。ここには聴覚−運動系の思考が欠落している。

人が行為するとは、目的=「意味を理解しよう」、結果=「意味が理解した」「無時間な視覚像」が認知されたあと、事前に最適解が求められるのではなく、行為は「試行錯誤」として行われる。しかしそれが「試行錯誤」でなく、最適解をたどったように錯覚されるのは行為そのものが「無自覚」で行われて「りんごをとった」という結果のみが自覚されるという、視覚系と聴覚−運動系の逆理による。

そしてこのようなスムーズな「試行錯誤」が可能であるのは「訓練・経験」のたまものである。人は「言語コミュニケーション」などの行為することに関して十年以上の訓練・経験をつんだ超ベテラン選手なのだ。

「意味とはなにか」と考えれば、「そもそも意味は存在するのか」といえるだろう。そのはじめに意味があるということが、「視覚系による目的論」思考である。言語コミュニケーションは訓練・経験によるその都度の「試行錯誤」によって試みられているのであって、意味が伝わるのはあくまで事後的な確認でしかない。




「視覚−言語記号系」の無時間性


先のエントリーにおいて、すでにこのような言語認知の特徴を示していた。

行為において「自覚」されるのは「目的(意図)」「あのりんごを取ろう」と、「結果」「りんごがとれた」だけであり、その間の行為そのものは「どのように」行われているかわからない。「ただ行なっている」としかいえない。<目的論>と<無自覚>という特徴は、視覚系と聴覚−運動系の差異に関係するだろう。「目的(意図)」「あのりんごを取ろう」というときに、「結果」「りんごがとれた」という無時間な視覚像が予期されている。そして聴覚−運動系の連続性によって、その間の行為そのものは無自覚に「ただ行なわれる」


「陶酔する人工知能たち」 その3  http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20080529

<目的論>とは、聴覚−運動系の運動が無自覚で行われ、「あのりんごを取ろう」「りんごがとれた」という「視覚系」のみが自覚化されることで成立している。このような視覚系の特徴として上げられる無時間性は、視覚において特徴的であっても、その本質は言語記号と使用した認知と深く関係している。

すなわち無時間性とは、「言語のように見る」「言語のように聞く」「言語のように味わう」ことで、その間の行為は無自覚化され、<言語記号>=<概念(意味)>として一気に、あたえられることによる。これは聴覚−運動系に対比して、「視覚−言語記号系」と呼べるだろう。




ウィトゲンシュタイン言語ゲームという行為論


このような行為論はウィトゲンシュタイン言語ゲームと呼んだものに繋がるだろう。言語コミュニケーションにおいて、「解釈をいくら連ねても意味は決定しない」。人はただ「規則に従う」ことで、コミュニケーションを成立させている。「規則に従う」とは規則を解釈することではなく、訓練によって習得された慣習の実践である。

ウィトゲンシュタインは、解釈は意味を決定しないことから、「規則に従う」という行為を抽出する。しかしそれがどのような原理によるものであるか、までは言及していないが、先の人がもつ「視覚−言語記号系」による目的論指向の特徴を指摘といえる。

そしてウィトゲンシュタイン「規則に従うと言う事・・・は慣習([恒常的]使用、制度)である。」ということで、言語ゲームの成立を救うが、「慣習([恒常的]使用、制度)」とはなんだろうか。

言語コミュニケーションにおいて<解釈行為>に躓き、どのように解釈するのかと懐疑してしまえば、とたんのコミュニケーションが不可能になってしまう。「バカ!」と親密の表現として行ったつもりが、相手が悪意にとり、怒り出すようなことは絶えず起こっている。言語ゲームが絶えず失敗の可能性にさらされている。

如何にして規則は私に、私はここに於いて何を為すべきかを、教える事ができるのか。・・・如何なる解釈も、それが解釈するものの支えの役は、果たし得ないのである;解釈だけでは、[それをいくら連ねても]それらが解釈するものの意味は決定しないのである。

私が「規則に従う」と呼ぶものは、ただ一人の人がその人生に於いてただ1回だけでも行う事が出来る何かであり得るだろうか?[答えは否である。]・・・規則に従うと言う事・・・は慣習([恒常的]使用、制度)である。

規則の表現−たとえば、道しるべ−は、私の行為と如何に関わっているのか、両者の間には如何なる結合が存在するのか?・・・私はこの記号に対して一定の反応をするように訓練されている、そして、私は今そのように反応するのである。(198)

規則の或る把握があるが、それは、規則の解釈ではなく、規則のその都度の適用において我々が「規則に従う」と言い「規則反する」と言う事の中に現れるものである。(201)

したがって「規則に従う」という事は、解釈ではなく実践である。そして、規則に従うと信じる事は、規則に従う事ではない。・・・或る規則に従う、という事は、或る命令に従う、という事に似ている。人は命令に従うように、訓練され、その結果命令に或る一定の仕方で反応するようになるのである。(202)

「如何にして私は規則に従う事ができるのか?」−もしこの問いが、原因についての問いではないならば、この問いは、私が規則に従ってそのような行為する事についての、[事前の]正当化への問いである。もし私が[事前の]正当化をし尽くしてしまえば、そのとき私は、硬い岩盤に到達したのである。そしてそのとき、私の鋤は反り返っている。そのとき私は、こう言いたい:「私は当にそのように行為するのである」(217)


『哲学的探求』読解 ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン (ISBN:4782801076




「視覚−言語記号系」形而上学


人における「視覚−言語記号系」による目的論指向は、行為が訓練による「試行錯誤」であることを忘れさせて、先に「規則」があり、「意味」があるという錯覚を生み出す。それは、<言語記号>=<概念(意味)>として一気に、あたえられる。

たとえばハイデガーイデア論からデカルト、そしてヘーゲルの近代的な形而上学にいたるまで、西洋哲学の端緒から、視覚が真実の在処であったことを指摘する。「意味」とは突き詰めれば「光の開けの中の」イデアに行き着くと言うことだ。それは、「表ー象=前に-置くこと」という表象主義である。

そして「視覚−言語記号系」形而上学の特徴は、「見る」ことに真実(イデア)を求めることで、<観察者>の位置に立ち、対象とは切り放されて、全体を俯瞰する位置にたつという目的論とともに客観主義である。

このような客観主義的な形而上学は、現代の科学の基礎にもなっている。科学は自然環境に対して<観察者>の位置に立ち、現前にさらけ出し言語記号化することで絶対的な「真実(イデア)」を見いだす。科学技術の「真実」も一つの「試行錯誤」であることは隠される。

ギリシャ人は、認識することを一種の視覚と熟視として構想した。このことは、今日でも、<理論的なもの>という語の日常的な表現によって表されており、そこには眼差しと見ること(舞台−光景)が表明されている。・・・このことが十分な根拠をもち得るのは、ギリシャ人において規則となっている存在の解釈自体においてである。存在の現前と恒存性を意味するから、<視覚>つまり<見る>という事実は特に、現前と恒存性の把握を解明するのに適している。ハイデガー)」

ハイデガーが暗に主張したように、ここで、形而上学の歴史に関するその思想史的な要約に従うなら、存在が視覚との関係で考えられたのは、恐らく西洋哲学の端緒からであった。

自らを保つものは、安定し永続的な仕方で、光の開けの中に存在する。・・・この光の露呈 こそは、ハイデガーに従えば、またプラトンイデア論の中でも輝いている。・・・これとは別に、ハイデガーが付け加える所によると、プラトンイデアによって導入されるのは、人間の有する視覚へ存在の輝きを(そして眼差しの類似化と正確さと充全性としての真理へ、アレーテイアとしての非隠蔽としての真理を)徐々に転換する両義性である。

イデアが知覚と表象へと徐々に変容し、「環帰」し始めるのであるが、ハイデガーによれば、この変容や「環帰」デカルトコギトを性格つけているばかりか、一般的にはヘーゲルにおいて頂点に達する主体性の近代的な形而上学をも性格づけている、と考えられる。・・・コギタチオ(デカルトはまた知覚作用あるいはイデアと呼んでいる)とは、表象作用であり、もっと字義的には「眼前に−置く」ことである。ここから結果するのは、コギトの確信がデカルトに到来するのは、やはり再び、コギトの可視性からである、ということだ。P80-82


ラカンの思想」 M・ボルク=ヤコブセン (ISBN:4588006363

イデアとしての存在の規定は、逆説的にも、現前性としての存在の規定と一体になっている。表ー象=前に-置くことが、視線に対する近さとして現前性の一般的形式であるので、純粋なイデアとはつねに、正面に向かい合って、反復作用の前に現ー前しているイデア「対ー象」(面前にー投げられたもの)のイデア性だからというだけではない。それはまた、まるで時間性の源であるかのように、生き生きした現在をもとにして規定されるような時間性、「源ー点」としての今をもとにして規定されるような時間性だけが、イデア性の純粋さを、つまり同じものの無限の反復の開始を保証することができりからである。P120


「声と現象」 ジャック デリダ (ISBN:4480089225




水族館という「視覚−言語記号系のイデア装置」


たとえば水族館にいる色とりどりの魚をみていると、小さな水槽をもくもくと右から左、左から右と繰り返しまるでよくできたおもちゃのようで滑稽である。水族館は「視覚−言語記号系」の無時間な世界である。言葉をもつものが「〜として見る」ことでフレームをつくり、語らないものは像でしかない。水族館は語る(視る)者が見やすいように無時間化されたフレーム、すなわち言語化されたコンテクストをつくる「視覚−言語記号系のイデア装置」である。

魚は機械ではない。実際の海においては彼らの運動系の知覚は思う存分発揮され彼らの高等さが明らかになるが、水族館という無時間世界ではその運動系の知覚は無意味化される。それに対して人は海の中での運動系の知覚の低さは単なる「うすのろ」でしかない。広大で変化し続ける物理環境では「視覚−言語記号系」はたいしたやくにはたたないだろう。

そのために人は自然環境に能力を拡張する「機械」をもちこむ。カメラは「視覚−言語記号系」の拡張であり、未知の世界に言語記号世界の侵入を意味する。そしてその瞬間に、「設計図」がひかれ、設計図にそって運動系を拡張した動力機械が導入され、環境は制作される。それは自然環境をイデア的に無時間することを意味する。

たとえば舗装される前の道は、でこぼこでつまずぐ、雑草が生えて荒れる。荒れた道を歩くとき、ただ無自覚に歩く(行為する)ことはできない。足下を気にして、いかに歩くかという行為を自覚化しなければならない。それを舗装することで、歩く行為に無自覚になり、考えごとをしながら、またお喋りをしながら通行することが可能になる。すなわち舗装された道は、道の意味=「通行する」という真実(イデア)を開示する。そしてあまりに真実でありすぎてもはや疑うことも忘れられるのだ。世界を無時間化することでイデアを開示するのである。




「真理を生産する」ポイエーシス空間


ここで、再度、「意味とはなにか」と考えれば、意味が「視覚−言語記号系」による形而上学的な「錯覚」であるとしても、現に意味は外部に開示されている。ギリシア人はこのような「真理(イデア)を生産すること」、それによって「人間の実在や行動への世界を開示する」をポイエーシス(制作)と呼んだ。

彼らギリシア人は、ポイエーシスとプラクシスを峻別していた。いずれわかるように、実践の中心にあるのが、行動においてじかに表明される意志という考え方であるのに対して、ポイエーシスの中心にある経験は、現存へと向かう生産、つまり、そこで何かが非存在から存在へ、隠された闇から作品が発する充実した光へと移行するという事象だった。

要するに、ポイエーシスの本質的な性格とは、その実践的で意志的な過程の局面においてではなく、むしろその存在において、ヴェールを剥ぎとるという意味での真理の様態だったのである。・・・一方、アリストテレスによれば、ラクシスは、生きた存在としての人間の条件それ自体に根ざしていた。いいかえるなら、生を特徴づける運動の原理にほかならなかった。ギリシア人がポイエーシスとプラクシスを区別することによって意味しようとしたものは、まさしく、ポイエーシスの本質は意志の表現とは無縁であるということだ。むしろポイエーシスの本質は、真理を生産すること、およびその結果として、人間の実在や行動への世界を開示することにある。


「中味のない人間」 ジョルジョ アガンベン (ISBN:4409030698

ポイエーシス空間の特徴は、真理すぎて無自覚化することにある。道路は道路以外なにものでもないわけだから、歩くことも無自覚化される。ただはじめに目的の場所を設定すればあとは身体が歩いてくれる。すなわちポイエーシス空間は「ハイウェイ空間」である。

椅子は疑えないほど椅子であり、手摺りは手摺りである。水族館において魚は魚であり、そして職場において身体は「労働する身体」である。そしてその先には「私(コギト)」は限りなく「私」でなければならない。

そして、「真理を生産する」ポイエーシス空間は、行為を無自覚行うようにアフォードする。椅子は椅子であって、座っても大丈夫か?というような懐疑は排除される。そして見方、聞き方、触り方、歩き方など、行為はそのようなポイエーシス空間との関係で<訓練・経験による習得>が行われる。行為はかつての自然環境で習得されたものかわっているだろう。




「物象化」された「商品の集積」世界


現代は「視覚−言語記号系装置」が全面化することでポイエーシスな空間が包囲している。たとえばアガンベンによるとかつては芸術作品は創造的な「プラクシス」であるとともに、「ポイエーシス」でもあった。しかし近代の資本主義社会において、ポイエーシスが「大量生産」されることで、芸術作品は創造的であること、すなわち真理を解体する創造という「プラクシス」に先鋭化された。

さらに現代のポイエーシス空間の特徴を指摘したのは、マルクスだろう。現代のポイエーシス空間とは、「物象化」された「商品の集積」世界である。すなわち商品の世界とはイデオロギーが外部へと具現化された世界であり、その中で人は行為の訓練を重ねることで「実用的・現実的な活動」を行っているのだ。

資本主義社会では主体は解放され、自分たちは中世的な宗教的迷信から解放されていると信じており、おのれの利己的な関心にのみ導かれた合理的な功利主義者として他者と関係する。しかし、マルクスの分析の眼目は、主体ではなく、物(商品)それ自体がおのれの場所を信じている、という点である。つまり、信仰や迷信や形而上学による神秘化は、合理的で功利的な人格によって克服されたかのように見えるが、じつはすべて「物どうしの社会的関係」の中に具現化されているのである。人びとはもはや信仰をもっていないが、物それ自体が人間のために祈っているのだ。これは同時に、ラカンの基本的な前提の一つでもあるように思われる。信仰(信念)は内的なものであり、認識は(外的な手続きによって確証しうるという意味で)外的なものだ、というのが一般的な定式であるが、むしろ、信仰こそ根本的に外的なものであり、人間の実用的・現実的な活動の中に具現化されているのだ。P55


イデオロギーの崇高な対象」 スラヴォイ ジジェク (ISBN:4309242332

(未完)