なぜ最初はネタがベタになるのか 「秋葉原無差別殺傷事件」雑感

pikarrr2008-06-16


自らが「彼」になるのではないかという恐怖


秋葉原無差別殺傷事件の衝撃が続いている。あの事件の衝撃の大きさはなんといっても犯人があまりに「普通」であるということだろう。このような衝撃的な事件は社会的な不安を引き起こし、人々はその原因を求めようとする。それは非日常的で異常であるほど安心する。「自ら」とは関係がない別の異常な世界の出来事となるからだ。

親の過剰な期待、派遣での厳しい待遇、あるいはイジメ、そしてオタク、彼女ができないなどが上がっているが、どれも「彼」を異常な世界へと排除する決定力に欠ける。

そうすると隣にいる人が「彼」になりえる可能性がある。そして「彼」のような気持ちは「自ら」の中にもある。ただからほんの少しのことで「彼」になるのではないか、ということに恐怖する。誰もが彼が言った愚痴のような疎外を味わったことはあるだろう。その意味でのあまりに身近に感じてしまう。だからこそ怖いのだ。それがこの事件に対する多くのヒステリックな言葉を生み出している。




ネット上の自己暗示


特に「彼」がなに者であるかを伝えるのが彼が掲示板に残した言葉である。そこにこそ彼の本音があるとして、読解が試みられている。しかし掲示板に書かれることはそれほど本音だろうか。id:strangeさんがいうように、「自分の境遇をネット上にあふれるもののコピーに適用」しているように見える。

いやーこないだちょっと書いたけど、どっちかっていうとスタンドアローンコンプレックスが近いかなあっておもう。これがそのまんま犯行動機に結びつくかどうかは知らないけども、書いてることがもうネット上にあふれるもののコピーもいいところで。さらに赤木智弘あたりとそこから影響されたもののコピーも入ってるような感じ。

ネット上にある誰が書いたのかわからないものを自分の境遇にそのまま適用してコピーし、しかもそれを自らネット上に書くことでさらにその思考が強化されるという。そういう意味では他人事ではまったくないね。


strange 「アキバの事件」 http://d.hatena.ne.jp/strange/20080612#p1

そしてそれが書かれることで彼の中で本音になっていった。書くことで自らの言葉に自己暗示される。最初はネタがベタになる。




中流時代の残りもの


格差社会というのはいま格差がある社会ではなく、がんばっても乗り越えられない格差=階級がある社会ということだ。派遣は派遣、日雇いは日雇い、正社員とは「人間」が違う、ということが、いまの社会にはある。

少し前まで、日本には総中流という幻想があった。その前は普通に貧乏と金持ちの格差があった。今回の犯人にしても、親の世代はまだ総中流時代で、子供時代をそのように育ってきたのだろう。だからずっと同じできたのになぜおれだけがみんなと違うのかという思いがあったのではないだろうか。

世の中に格差があるということを受け入れられなかった総中流家庭の子供達は、社会で失敗すると家にこもって、家の中で中流であることを継続しようとする。家にも居場所がなかったのか、派遣にでて世の現実を味わって、疎外感を発酵させた。

日本経済が低迷することで保守的になり、正社員層が保身に走って、派遣社員を適当に使う。そしてこの格差構造に競争を持ち込まないようにしている。

世界経済でみれば、中国の安い労働力、発展する経済から、日本から金が逃げている。中国などの安い製品と競争するには、中国に工場を移転する。すると日本の正社員はいらなくなる。それが困るので、正社員の数を抑えて、派遣を導入して、うまいぐわいにつかう。必要なときは雇い、いらないときは切る。




切ったりはったりされる「労働する身体」


派遣社員には孤独がつきまとう。切ったりはったりされる「労働する身体」としてのみ扱われて、精神は徒労する。彼女がほしい、というのもそれに対するものだろう。どこかに支えがほしかった、ということ。それでも派遣社員のような不安定には彼女はできにくい。

女性の社会進出が進まず自立が難しい日本女性にとっては、収入の安定した男性と結婚することが、とても重要な意味をもつ。おのずと結婚に対して高いハードルをもつことになる。

日雇い、派遣というのも、正社員の年功序列的雇用を守るためだし、女性の社会進出を妨げるのも、同じ。日本型の会社システムの限界なんだろうが、それを崩したからどうなるものでもない。グローバルで考えれば、日本の経済競争力が低下している。




東浩紀がオタクの矢追になるとき


稲川淳二って、怖い話をするのうまいというだけだったのに、いつのまにか霊感があるとかいいだした。矢追純一って、UFO番組のディレクターというだけだったのに、いつもなにかUFOを呼べるとか言い出した。

彼らは単なる勘違い野郎だろうか。彼らは成功したとき、その裏には多くのマニアが存在しただろう。幽霊マニアにとって稲川淳二は普通の人々との間を繋ぐ媒介である。UFOマニアにとって矢追純一も媒介である。媒介にカリスマ性は宿る。

マルクスが共同体と共同体の間に貨幣が生まれると言った。媒介とはいつも神的な領域なのだ。ある共同体にとって向こうの共同体は未知であり、それを繋ぐ媒介は神秘的な領域である。そこに神体が生まれる。

媒介はなろうと思って出来るものではない。ただの紙切れが貨幣になれるのは、貨幣が媒介の位置をしめたという偶然性、それだけにかかっている。細木にしても江原にしても、最初は些細な成功によっただろう。そして偶然に媒介の位置をしめたことで、徐々に力を手に入れ、神として人々のまえに降臨した。

東浩紀って、オタクを評論していただけだったのに、いつもまにかオタクの教祖になっている。彼は媒介者になりえたのだろうか。そしてただのDQNに目的(テロス)を与える。それが神的な媒介者としての役目である。そして最初はネタがベタになる。

つまりは、いまや若者の多くが怒っており、その少なからぬ数がアキバ系の感性をもち、しかも秋葉原が彼らにとって象徴的な土地になっているという状況があった。したがって、その街を舞台に一種の自爆テロが試みられたという知らせは、筆者にはありうることだと感じられたのである。

容疑者は彼の苦しみを大人の言葉で語らなかったかもしれない。怒りの対象も曖昧(あいまい)だったかもしれない。彼が凶行の現場として秋葉原を選んだのは、おそらくはその曖昧さのためだ。もし彼が首相官邸経団連本部に突っ込んでいたら、だれもがそれをテロと見なし、怒りの実質に関心を向けただろう。彼はその点でいかにも幼稚だった。無辜(むこ)の通行人を殺してもなにも変わるわけがない。しかしその幼稚さは、怒りの本質にはかかわらない。だから、筆者はこの事件をあえてテロととらえたいと思うのだ。


絶望映す身勝手な「テロ」 秋葉原事件東浩紀氏寄稿  http://www.asahi.com/national/update/0612/TKY200806120251.html

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