「加藤」はなぜ「電車男」になれなかったのか 思想地図シンポレポを読んで

pikarrr2008-06-18


思想地図シンポジウム「公共性とエリート主義」


思想地図シンポジウム「公共性とエリート主義」に関してのレポートがいくつか上がっている。読んで考えたことを書いてみる。ボクは参加していなので、あくまでレポートを読んで感想である。

トラカレ! 『思想地図』発刊記念シンポジウム「公共性とエリート主義」レポまとめ http://torakare.com/archives/920

特に参照した 思想地図シンポジウムレポート - the deconstruKction of right http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20080617/1213688976

宮台と東の考え方については、以下のようなエントリーでいままで言及してきた。東が考えるのは、「政治の環境管理化」、極端に言えば政治は環境管理システムによって行うことを目指せないか。宮台は流動性が高い今だからこそ、政治的な強いリーダーシップが必要になるから教育すべきというエリート主義。

エリートとは「環境管理的なシステムそのものに懐疑の目を差し向ける人たち。」「教養」を身につけて、たえず自分の立ち位置を相対化しつづけること、そしてそのような位置を戦略的に構築していくよう教育された人たち。

宮台のエリート主義と東の「政治の環境管理化」は、必ずしも単純な対立軸にはないだろうが、そもそも東は宮台のエリート主義への反論として、自らの論を展開しているところがあるので、今回のシンポでも東は宮台との差異を強調しているようだ。

「政治の本来の目的が共通資源のよりよい管理にあるのであれば、その過程が必ずしもそういう人間的で高級なコミュニケーションに結びつく必要はない。ポリシーなき政治、討議なき政治だってありうるはずだ。・・・つまり、無意識で工学的な意志決定の場所に。・・・物語なき政治。討議なき公共性。友も敵も作らない環境管理。政治を動物的なものに変えること。」(東)


なぜボクたちはノンポリなのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20080121#p1

宮台は良いアイロニズムと悪いアイロニズムがあり、それは強迫的か、非強迫的かの違いだ、といいます。強迫的とはアンチでありながら結局内部、つながりをめざさずにはおれない、ということでしょう。それに対して非強迫的は自由で軽く、いつでも「参入離脱」可能であると、いうことです。そのためには、「教養」を身につけて、たえず自分の立ち位置を相対化しつづけること、そしてそのような位置を戦略的に構築していく必要がある。すなわち教養主義的、戦略的アイロニズムが高級なアイロニズムである、ということです。


ヘタレ化するポストモダン http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051029#p1
「限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学 宮台真司北田暁大(2005) http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051027#p1




グローバル化にもかかわらず分厚さを保つ社会」


レポートを読んだ感じでは、宮台のエリート主義がうまく伝わっていないように感じる。東との差異から、東が「みんなで考えていこう」という民主主義に対して、宮台のエリート主義は一部のエリートが引っ張っていけばよいという考えに図式化されている感じがする。

グローバル化は避けることができない。主義主張ではなく生存の条件である。グローバル化にもかかわらず分厚さを保つ社会をどうするか。social heritage。アジア主義とか丸山を持ち出すのは、その日本のリソースを考えているから。卓越主義的リベラリズムと似ている。グローバル化でほっとくと社会はうすっぺらくなる。だから国が介入するしかない。その正当性の担保が何か、が、全体性。」(宮台)


思想地図シンポジウムレポート - the deconstruKction of right http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20080617/1213688976

宮台のエリート主義は、グローバル化、環境管理化など、流動化が向上し、創発的な秩序が重要視される社会に向かうことが前提の上でそれだけでは、耐えられないのではないか。その補完としてリーダーの育成が必要である、ということだろう。ネットウヨのような韓国人嫌いだからナショナリズム!みたいなレベルの低いナショナリズムではなく、日本の、アジアの、世界の歴史を学び、日本を知り、先を見極める人材育成を育成しようという実践的なプログラムである。

世界が流動化し、「帝国」化し、コントロールすることは不可能であることが基本にある。だからエリートによって日本の政治を牛耳るなんかできるわけがないことは当たり前。その上での危機感だといえる。だから東の「政治の環境管理化」の対立にあるのではなく、それだけでは不十分という立場にある。

宮台の「理性信仰的設計主義」であると開き直れるのは、巨大な「帝国」化に対してどこまで対抗策になるかという懐疑がある。だから東が「エリートはいらない。環境管理システムで十分である。」というときに、「そのシステムは誰がつくり、管理するのか?」と問う。




楽観主義な情報革命


ボクもいままで、宮台よりも東に近い考えを支持していたように思うが、どうも最近、風向きが変わってきたように感じ始めている。環境管理にしろ、草の根のナショナリズムにしろ政治的な創発性への期待は、経済的な創発性(グローバル化ネオリベラリズム)への対抗策とはならずに、むしろ共犯してしまうのではないか。すなわち格差社会を強化してしまうのではないか、という感じがしている。

東がいう「討議なき公共性。友も敵も作らない環境管理。政治を動物的なものに変えること。」は突き詰めると、梅田望夫ウェブ進化論で語った「群衆の知」「Web2.0」のようなみんなの創発性への期待という楽観主義に行き着くのではないだろうか。

著者(梅田望夫)によると、「インターネットの可能性の本質」は、「無限大に限りなく近い対象から、ゼロに限りなく近いコストで集積できたら何が起こるのか。」というところにある、ということです。そして「いま多くの人々のカネと時間を飲み込んでその混沌が巨大化していく。そしてこの混沌という玉石混交から「玉」を見出す試みがおこなわれている。」すなわちこの巨大な混沌から秩序を生み出されていく可能性、そしてそれを触発する技術が今後10年の「情報そのものに関する革命的変化」になるだろう、ということです。


Googleはなぜ「世界征服」をめざすのか ウェブ進化論 梅田望夫 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060213#p1

確かにインターネットが発展してきたここ20年あまりは、このような創発性への強い期待があった。2ちゃんねるでの「名無し」の発言が、社会へ影響を与えることができることへの高揚感があった。またオタク文化も、マニアックな世界がグローバルに認められ、日本文化の象徴の一つとして語れるまでになり、活性化されつづけている。その神話が電車男である。オタクとネットの融合が新たな創発的なコミュニティ=「おまえいら」を生み出し人々幸福へ導く。

格差社会と言われたはじめたとき、「最近の若者はなぜ悪い労働条件に対して怒らないのか」という指摘があったが、その一つの解答として「かつてのようにお金のために働くのではなく、フリーターで貧しくても、好きなことをしたい」というものであった。

あるいはネグリのいう「帝国」に対するマルチチュードとは誰だというときには、ネット住人やオタクが上げられた。サヨ的な直接の運動ではなくとも、彼らの創発的な非経済的な助けあいの活動が資本主義(帝国)への対抗になりえるのではないか、という意見があった。




ネット上の共同体幻想の解体


今考えると、結局これら一連の高揚感は、「従来の社会」との差異として生まれていたように思う。たとえば従来の建前による「世論」に対しての本音としての2ちゃんねらー。従来の世論の代表がマスメディアであり、マスメディアが「ネットは便所の落書き、低俗な集団などを批判するごとに、ネット住人はその影響力を感じ、高揚する。その影響力は増していき、ネット上で騒いで炎上させ、企業をも震え上がらせる。

たとえばWeb2.0の成功した例の一つのWikipediaも、従来の知識人が監修しマスメディアによる発行される辞典よりも、ただで詳しい、ということに優位性が求められた。あるいは電車男の神話も、「従来の社会」において疎外された非モテオタクが、ネット、オタクという新たなコミュニティの力によって、エルメスという従来の社会の姫を奪取することで、一泡吹かせる。このように一連の高揚感は「従来の社会」とのカウンターとして生まれていた。

しかしいまや「従来の社会」とネットやオタクとの差異は解体されている。もはやマスメディアとネット住人は共犯関係にあり、次々と弱者をバッシングする。あるいは秋葉原「オタクの聖地」という名のエンターテイメント化してしまった。ネット住人であるとか、オタクであるとかでは、もはや高揚感も団結も生まれない。

ネット規制、ロリ規制が検討される中、以前ののまネコ問題ほどに盛り上がらないのは、ネット住人にもはやかつての高揚感よりも閉塞感があるためではないだろうか。だれもがネット上の秩序のなさとそれが生み出す弊害、それは低年齢化し小中学生まで蔓延し、不気味さと閉塞感を感じ始めている。

このようなマスメディア主導の閉塞へのカウンターとして、ネットは期待された。上からの押しつけではなく、それを解体し、発散させ、横への広がりによって多様性を確保する。マスメディアが2ちゃんねるを叩くとき、そこには誹謗中傷などの様々な問題がありながらも、いままで独占してきたメディアの位置を脅かされる恐怖が確実にあった。

しかしマスメディアと2ちゃんねるの確信的な同期という共犯関係が成立してしまうと、そこに生まれるのは、終わりのない動物化の円環が加速化されるという絶望的な閉塞でしかない。「さて、次の獲物は誰かな。」とマスメディアと2ちゃんねる「炎上」先を求め、這い回っている。


なぜ亀田家バッシングは薄気味悪いのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20071018#p1



なぜ加藤は「おまいら」を殺戮したのか


そして秋葉原無差別殺傷事件はおこった。「彼」がネットで実況しながら、オタクの聖地アキバに突入したことは象徴的である。ネットとオタクはまさに現代の新たなコミュニティの象徴ではなかったか。これらの新たなコミュニティ幻想の中で、彼は自己承認されないことの孤独を発酵させていった。

秋葉原無差別殺傷事件において、派遣労働の問題は議論されるべき大きな課題だろうが、「加藤」の行為そのものは「テロ」というようなものではなく、家庭から、そして社会から見はなされ、そして最後に「まさか「おまいら」まで見はなすのか」というDQNな愛憎によるストーカー的凶行に近いのではないだろうか。もしかするともう数年早ければ、彼は電車男になれていたかもしれない。

それは、宮台が指摘したことが気持ち悪いように当たっているように感じてしまう。

「過剰流動的で万物が入れ替え可能な社会。したがって、そこにいるだけで自分の輪郭も位置もわからない社会。そういう社会に人は耐えられないのではないか。動物化しきれない人は「<世界>との接触を渇望するのではないか。動物化が生じた社会では、突発的に全体性への危険な志向が生じる可能性がある−ウルトラマンジャミラみたいに人間が怪物化して降臨する」(宮台)


ヘタレ化するポストモダン http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20051029#p1
「限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学 宮台真司 北田暁大  (ISBN:490246506X



グローバリズムを生き抜くための実践へ


ネット上の高揚感の中で、ネオリベラリズムグローバル化は確実に進み、いまや貧困もグローバル化されつつある。途上国の貧困と日本の貧困は質が違うと言われていたが、いまや日本のフリーターにやらせるか、中国の低賃金にやられるかという、比較され、同じように切ったりはったりされる「労働する身体」としてのみ扱われ始めている。

グローバリズムは決してフラットではなく、国家間の競争である。国連に実行力はなく国家の上位の組織はない以上、本質的に国家間とはいつも「例外状態」なのだ。どこかが富むときには、どこかの搾取の上に成り立っていることは否定できない。さらにいまや世界的な投資の対象はITから「資源」に向かっている。その背景には国家間の資源争奪が激化している。資源は限りがある以上、経済効果によってともに発展するというネオリベラル的な理想論は通用しない。国家間の競争はパイをめぐって激化するしかない。すでに生活用品の価格高騰として下流へ直撃しつつあり、この流れはしばらくやみそうもない。

だから東がいう「環境管理システム」を考える場合には、日本に閉じることはできない。アフリカの難民まで面倒をみる必要がある。なぜなら世界に格差がある限り国家間の競争、それは経済的な自由競争ではなく戦略的で暴力的な国家間競争がつづく。だからマルクスは革命は世界同時でなければ成立しない、といった。

必ずしも宮台のエリート主義を全面的に指示はしないが、ひとつの実践として進められ、楽観主義に停滞するよりも有用ではないだろうか。国家間競争において戦略と優秀なリーダーは必ず必要になる。それだけで良いということはなく、派遣に関して労働組合も活動をはじめたらしく、いまは楽観主義から実働的な政治議論へ移行期にあるのではないだろうか。「思想地図」などの新しい思想誌が注目を集めているのはそのためだろう。「思想地図」がその一翼を担われることを期待します。
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