なぜ格差問題はグローバルな「政治ゲーム」によるのか 思想地図シンポレポを読んで その2

pikarrr2008-06-20


経済的なリバタリアンと精神的エリートプログラム


思想地図シンポジウム「公共性とエリート主義」での議論のつづき。*1

彼らが共有する現状認識は、世界が「帝国」と呼ばれる状況にあることだ。それはグローバル化であり、ネオリベラル、フラット化と呼ばれる。あるいは動物化と環境管理社会と言ってもよい。このような状況のなにが問題であるか。格差社会と環境問題、あるいはマネー中心による人間関係(つながり)の希薄化などがあげられる。これに対して東の立場は「経済的なリバタリアンになるだろう。簡単にいえば「帝国」が不十分だからこのような問題がおこる。もっと徹底すれば格差も環境もつながりも対処できるということだ。経済学的、工学的な立場といえる。

それに対して宮台は、「帝国」の経済的な発展の利点はみとめ、この流れはとまらないと考えつつも、「帝国」が徹底されても格差、環境問題は解消しない。これらの問題は「帝国」ネオリベラル)では必然的に生まれてしまう。だからグローバル化にもかかわらず分厚さを保つ社会」を設計する必要がある、と考える。特に宗教をもたない日本人の「つながり」を補完するなにかが必要だ。それをナショナリズムに求める。

現にネットウヨのような精神性への回帰が起こっている。オタクもある意味でコミュニティを求める現象といえるだろう。しかしこれらは短絡的でうすっぺらで逆に混乱を招いている。だから精神的なエリートを育て、「帝国」への抵抗とする実践的プログラムを進める。宮台のエリート主義は確かにわかりにくいが、イデオロギーというよりエリートプログラムという一つの実践例と考えるべきだろう。




「帝国」「機械論の欲望」の回帰


ボクはそもそも、「帝国」に懐疑的である。現代における(経済学的)機械論の回帰ではないか。たとえばグーグルによる「世界的な知の管理がおこなわれる」というような幻想と同じでしかない。特に近代以降、人は完全なシステムによって管理されることで、管理不可能な偶然性を排除したいという欲望をもってきた。これをボクは「機械論の欲望」と読んだ。

はじめは「時計」というメタファーであり、「オートメーションシステム」「コンピューター」であり、最近は「ネットワークシステム」「グーグル」である。その時代の「機械」をメタファーに機械論は語られ続けた。「オタクが動物化する」という表現もその一つのパターンである。そして最大の機械論が共産主義革命」だろう。そして再び「帝国」として回帰してきた。

知識人は多くにおいて、「想像的なもの」でなく、「象徴的なもの」を語りたがる。「想像的なもの」のような愛憎、情、信頼などは実際の人間関係に関わり言葉で語ることが難しい。知識人は世界を説明する(言葉で征服する)ことを使命にする「機械論の欲望」の先導者であるからだ。




「思想」という理念と「政治ゲーム」という実践


ネオリベだろうが世界はいまも政治的な駆け引きの場である。いかに仲間を増やし、敵をだまくらかし、優位に進めるか。ここにはルールはない。自由競争は「思想」上の一つの理念であるが、いまも力あるものが断然優位な「政治ゲーム」である。

ゲーム理論囚人のジレンマという疑似問題がある。ゲーム理論や経済学において、個々の最適な選択が全体として最適な選択とはならない状況の例としてよく挙げられる問題。」とされる。*2しかしなぜ「囚人」なんだろう。「囚人」ということで示しているのは、他とは隔離された閉じた系のメタファーである。

仮に「囚人」ではなく、「社会で生活している人」だったらどうか。友達に相談するし、状況をしるために情報収集するし、何らかの策を弄するだろう。囚人ゲームなら外にいるはずの警官もゲームの一部である。賄賂によって味方につければ、ゲームは俄然優位になる。開放系のなにが起こるかわからないルール無用のゲームとなる。

開放系という意味では、ウィトゲンシュタイン言語ゲームに近い。そこでは規則(ルール)に閉じない「劇」が繰り広げられる。「劇」とはプレイヤーがなに者であり、どのような社会状況にいるかなどの開かれた背景をもつ。このための言語ゲームは、解が決められておらず、訓練と実践によって身につけていくしかない。




グローバル化とは国家間の「政治ゲーム」


格差は、自由競争によって経済学的に生み出されるのではなく、このような「政治ゲーム」の中で生まれている。金持ちはなんとしても金持ちであり続けたいと考え、様々な策を弄するだろう。それは必ずしも法律に違反する非合法なものということではない。金持ちは金持ち同士で協力しあうなど、策はいくらでもある。さらにいえば、自らに優位な法律を作ることは勝ち組が勝ち続けるためのもっとも有用な方法だろう。このように「帝国」という自由と平等の裏で、「搾取」は進められている。

サヨはマルクスしかり(資本主義)システムから生まれる搾取の構造を考える。資本主義では合法であることが搾取を生み出している。それはネグリもかわらない。だからシステムを変えること、「革命」がめざされる。しかしボクがいっている搾取はもっと卑近なことだ。人はだまくらかす、嘘をつく、そんななんでもありが「政治ゲーム」である。

たとえば「帝国」すれば国家はいらないのではないか、というのは幻想である。しかしいまもかわらず国家が重要であるのは、国家が「政治ゲーム」のプレイヤーであるからだ。それが、グローバル化とは「帝国」ではなく、国家間の「政治ゲーム」という闘争の場であることを示している。

アメリカが世界正義の名のもとイラクを占領することが「政治ゲーム」である。これは様々な思想対立として語らえているが、実際どこまで「思想」が働いているか、疑問である。「思想」は閉鎖系の場を想定することで学問の対象とする。そして体系化することがめざされる。しかし「政治ゲーム」は体系化することがむずかしく、学ぶとすれば、帝王学のような実践をもとに伝授されるしかない。このためにイデオロギー論争の中ではこぼれ落ちていく。

「政治ゲーム」を闘争的に語ったが、いかに相手をだまくらかしうまくやるか、という単純なゲームではない。このゲームにおいては、むしろ闘争よりも、共生が重要だろう。そして共生とは利害の一致という単純なものではなく、もっと利害を超えた信頼関係を作ることが重要となる。なんでもありとはほんとうになんでもありであり、なにが正解かマニュアル化できない。あえていえば実践的な帝王学が必要とされる。このような意味で、宮台のいうようなエリートプラグラムは有用であるかもしれない。




「経済ナショナリズム」というグローバリズム


高度成長期からバブル前後において、日本は世界1の経済大国になった。それは必ずしも日本の努力だけではなく、アメリカ経済の低迷を背景にした世界的な経済の流れで生まれた一時的な「幸運」である。極端にいえば、世界史でみても世界1は次々に移り変わっており、日本にも回ってきたということだろう。

それによって、日本人はポストモダン的な浮かれて状況におかれた。物質的な豊かさの中で精神的な喪失感を満たすことを求めた。ここでは、日本の豊かさが世界の多くの貧しい国々からの搾取の上になりたっていることが忘れられている。そして忘れられていることの問題は貧しい人々を搾取していることに気づいていないことではなく、簡単に転倒する砂の城であることだ。気を抜けばすぐに立場は逆転する。

自国の大臣が「もはや日本は『経済は一流』と呼ばれる状況ではなくなった」と言われるような状況の中で、国民が総中流社会幻想を見続けることができないのは、当然だろう。格差問題はグローバル化という「政治ゲーム」の中の1つの現象であるととらえる必要がある。だから日本全体の経済力を向上させ、他国との「政治ゲーム」に勝ちつづけるしかない。このような考えは、「経済ナショナリズムに近いのかも知れないが、グローバリズムナショナリズムは同時に生まれた裏表である。




貧困のグローバルスタンダード化という黒船


戦いはさらに厳しいものになりそうだ。資源という限られたパイをめぐる争奪戦だからだ。資源の乏しい日本は苦戦を強いられるだろう。特に資源争奪はグローバルな大企業といえども苦戦する例外状態=「政治ゲーム」であり、国力がものをいう。日本は懸命に省エネ技術を売りにするが、環境問題こそ、まさに「政治ゲーム」であり、グローバルな戦略において欧州に差を開けられている。

そのために重要なことは日本人が労働への意欲を再び取り戻すことではないだろうか。「労働」はサヨがいうような疎外された行為ではないし、ネオリベラルな物質的な豊かさにしか繋がらない作業でもない。「労働」は社会へコミットすることであり、社会資源を有用に活用することで、一人ではできないような社会を変革させることである。たとえばネジを作る仕事でも、有用なネジは世界を変革させることができる。このような「労働」による社会へのコミットこそが人に生きる意欲を与える。

日本に貧困のグローバルスタンダード化という黒船が押し寄せている。残念ながらそれは世界標準の「格差のある健全な社会」ということになるのだろう。そしてまどろみからめざめ、「労働」の意味が回帰する。
*3