なぜ資本主義は「創造」を強迫するのか 再考

pikarrr2008-07-01


「なぜ資本主義は「創造」を強迫するのか」 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20080629#p1について、いくつかご意見をいただきました。書いた本人が言うのなんですが、この謎めいた?エントリーはなにを意味するのか。少し考えてみたいと思います。




「美を生産せよ」


近代化の中で「科学的なもの」とそうでないものの境界が引かれ、「科学的なもの」が探究され、生産に接合されて大量生産大量消費という資本主義社会が生まれた。そして非「科学的なもの」は、排除されてきたというストーリーは、デカルト心身二元論から現代のネグリ「帝国」まで語られ続けています。実際に「科学的なもの」の還元作用はヒステリックです。還元されていない未知な領域を見出すと、ウィルスのように徹底的に解体し尽くします。

アガンベン「中身のない人間」の面白いところは、非「科学的なもの」である芸術の側から語られるところです。「科学的なもの」は単に「科学的なもの」によって排除・抑圧されたのではない。あらたに作り直されたというものです。その役割は創造的であること、すなわち既成概念を破ること。

ボードレールは、新しい産業文明における伝統的権威の解体に直面せざるをえなかった詩人である。それゆえ、彼は新しい権威を発見しなければならない状況にあった。つまり、彼は、文化の伝承不可能性そのものを新しい価値に転化し、芸術作品自体のただなかでショックを経験させることによって、この課題を成し遂げたのである。ショックとは、ある特定の文化秩序のなかで事物がもっていた伝承可能性や理解可能性が喪失するときに、事物が帯びることになる軋轢の力である。もし芸術が伝統の崩壊を生き延びようとするならば、芸術家はショックの経験の根底にある伝承可能性の破壊そのものを作品の中に複製しようとつとめなければならない。・・・異化価値を生み出すこと、それは現代の芸術家に特有の課題となったのである。P157-158

芸術は、みずからの保証を失うことよってしか保証されないものを保証する必要に迫られるようになる。職人の謙虚な活動はかつて、人間に仕事=作品の空間を開示し、そうすることで、伝統がみずからの過去と現在を絶えず結びつける場所や対象が構築されてきた。しかしいまやそれが、天才の創作活動にとって代わられ、美を生産せよという命令が重し圧しかかることになる。この意味で、美を芸術作品の直接の目的と考えるキッチュは、美学特有の産物といえるのであって、同様に別の面では、キッチュによって芸術作品に喚起される美の亡霊こそ、美学が基盤を見出している文化の伝承可能性の破壊にほかならないのである。P163-164


「中身のない人間」 ジョルジョ・アガンベン (ISBN:4409030698




生産現場の透明化と創造の現前化


このような「ショックの経験」「美を生産性せよという命令」は天才にのみ与えらえた強迫性でしょうか。考えると当たり前なのですが、「科学的なもの」の接合によって大量生産するだけではすぐに市場に商品が溢れてしまいます。だからそれに負けないだけ消費つづけなければならない。

その原理を明らかにしたのはヘーゲルです。動物はお腹が減ると食べ物を「欲求」します。そして満腹になって満足します。しかし人間の「欲望」はおわることかない。なぜなら欲望とは承認欲求だからです。自己承認は満たされることがない。だから人間は満腹になるためではなく、食事自体を楽しむことで消費に終わりがありません。資本主義社会は「科学的なもの」と非「科学的なもの」、あるいは生産と消費、労働と創造の両輪を回すことで終わりない運動を可能にしているのです。

現代において、労働と創造、生産と消費の境界はあいまいになっているということですが、その最初は境界などなかった。資本主義はそこに境界を作り出す。しかしそれはいつも曖昧です。そもそも分裂などできない。だから分裂は継続した運動です。

商品が多様化したとしてもそのベースに「科学的なもの」による大量生産がなければ安価で製品は提供されません。生産現場は多様性を生み出せるように少し高度になっただけです。そして自動機械化され、また海外の安価な労働力に頼るによって、ボクたちの現前から見えなくなっているだけです。

そのかわり、ボクたちにはこの生産性に対応するだけの「創造」が求められています。それは創造的な消費であり、創造的な労働です。創造の強迫性だけが現前化している。現代においては、誰がも「天才になれ」と強迫されているのです。

しかしここまで考えると、怖くなるのですね。もはやどこにも外部がないことに。ニーチェの弟子たるデリダの懸命な出口探しに関わらず、それさえも、いやそれこそが活性化する。