なぜ人間の尊厳の根源は仕事にあるのか プロフェッショナル(職業)=ナショナリズム

pikarrr2008-07-02


日本は「世界で一番冷たい」格差社会


たとえばある人に親切にされたとします。そこには贈与と負債の関係が生まれます。このような贈与関係は以前は必然でした。きびしい自然を生きるためには助け合いがなければやっていけません。そこに公共性があらわれます。

しかし現代はお金がそれにかわります。日常的な助け合いの関係がなくても、お金があれば助けを買うことができます。お金の便利なところは与えられた労力に対して対価を支払えば一瞬で精算されるところです。あとあとあのときは助けたから今度は助けてほしい、とうように再燃されることがありません。このような貨幣等価交換社会の中で人は他者に煩わされることなく、きままにいきていけます。だから公共性は最小限にしたい。それが消極的な自由であり、他社回避(動物化)です。

しかしこのような貨幣だのみの社会は危うい綱渡りです。なぜならばお金かなければ行き詰まってしまいます。これが現状の格差社会の問題です。単に貧しいだけでなく、貨幣依存社会において貨幣がないことが絶望的な状況を生み出す。

雇用環境も福祉機能も欧米以下!日本は「世界で一番冷たい」格差社会 http://diamond.jp/series/worldvoice/10012/?page=2


日本の格差問題も英米に比べればまだまし――。そう考える人は多いことだろう。しかし、ハーバード大学マルガリータエステベス・アベ教授は、福祉機能で米国に劣り、雇用環境で欧州以下の日本こそが、先進国で一番冷たい格差社会であると警鐘を鳴らす。

日本で格差問題が悪化したのはアメリカ型の市場原理を導入したからではないか、との批判が高まっているが、これにはいくつかの誤解がある。アメリカは確かに国家の福祉機能が小さく、利潤追求と競争の市場原理を重視しているが、それがすべてというわけではない。市場原理にまったく従わない民間非営利セクターが大きな力をもち、福祉機能、すなわち社会を維持する役割を担っている。貧困者や市場で失敗した人たちの救済活動はその分かりやすい例だろう。

日本はアメリカと似て国家の福祉機能が小さく、また、「自助努力が大切だ」と考える人が多い。しかし、企業や社会にはじき出された人を守るシステムが弱く、家族に頼らなければならない。経済的に余裕のある家庭ならばよいが、問題は家庭内で解決できない時にどうするかである。

日本企業ではインサイダー(内輪の人間、つまり正規社員)の雇用保護が強い>ので、アウトサイダー非正規社員が不利益を被ることになる。皮肉なことだが、日本が本当に市場原理を導入していればこのようなことは起こらないはずだ。本来は労働組合が何とかすべき問題だが、企業内組合なのでアウトサイダーのために本気で闘おうとはしない。




ネイションの解体と国家依存


日本が「冷たい格差社会になっているのは、どこか日本人だからという漠然としてナショナリズムを信じているためではないでしょうか。アメリカのようにそもそも多民族国家で、個人の自立が重視される社会では、貨幣依存社会からこぼれ落ちた人々を補助するシステムが意識的に組み込まれていますが、日本ではこぼれ落ちた人々は誰かが助けてくれるものだという漠然とした信頼がある。たしかにかつては近接した人々の助けあいがあったのでしょう。しかし日本にこれだけ貨幣依存社会が浸透した今になって気がつくと、近接した人々の助けあいは解体されていた。

では、いかに日本に貧困を救済する装置を組み込むのか。一番は国家による福祉制度の充実ということになります。だから最近のネオリベラル化による貨幣依存社会は一方で、国家依存社会にもなっています。オチこぼれた人々は国家に何とかしてもらおうと、殺到しています。しかし本来、国家は一元的な対応しかできず、きめ細かな対応ができるような所ではありません。

柄谷は資本主義社会を、「資本−国家−ネイション」の相補的な関係で成立しているといいます。そして資本(貨幣経済)によって解体され、そして国家によって十分に救済さえれない共同体を回復する役割をネイションが担っていると言います。

ネイションは、商品交換の経済によって解体されていった共同体を「想像的」に回復する。ネイションは、資本主義経済がもたらす格差、自由と平等の欠如が、想像的に補充され解消される互酬(贈与)的な共同体である。


「世界共和国へ」 柄谷行人 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070903#p1

先にも言ったように、格差社会そのものが問題と言うよりも、「想像的」な回復=助けあいの欠如が、貧困を絶望的なものにしています。だから本質的には助け合いの関係を回復しなければ乗り切れません。しかし「想像的」共同体の回復はそう簡単なことではありません。助けあいの関係とは信頼関係です。誰かを助けたからといって自分も助けてもらえる保証はありません。助けあいの関係は長期的な信頼関係の構築によって回復されるものです。だからなおさら、国家の即時的な対応への依存を深めいているのです。




踊る大捜査線の職業倫理


数年前から職業ドラマがブームになっています。「救命病棟24時」などの医者もの、「ごくせん」など先生もの、あるいは最近なら「SP」など。そして職業ドラマの最大のヒットが踊る大捜査線です。

これら職業ものが人気を集める理由の一つは、そこに共感できる形で明確に倫理が表されているためです。価値多様で、倫理破壊的なシニカルなドラマが作られる一方、ベタすぎるほどに倫理的であっても許され支持されえるのが職業ものなのです。

踊る大捜査線には基本的な構図があります。ひとつは封建的な警察官僚、もう一つは幼稚でオタクな犯罪者です。この間に現場の刑事たちがいます。そして物語が進む中でこれらの関係から職業倫理(プロフェッショナル)とは何かが浮き彫りにされていきます。組織に閉塞し私利私欲を求めるのではなく、社会に優越するほどの専門知識をもってもオタクのようにただ楽しむだけではない。現場という実働的な場で社会的な責任のもと現前の生活者と関わり続ける。

青島刑事が事件で刺され、車で病院へ運ばれる道すがら、警備でたつ警官たちが敬礼をしていくシーン。本来、敬礼は国家権力の象徴ですが、あの敬礼はプロとしての職業倫理をつらぬいたことへの尊敬であり、ベタなシーンにかかわらず観客は感動することができる。「なぜ命をかけてまでやるんだ」と問えば、青島はいうでしょう。「これが僕の仕事だからです。」





「職業倫理」による助け合いのネットワーク


人々が「職業倫理」ドラマに感動するのは、まだ現代に生き残って倫理だからです。貨幣依存社会においては、倫理は儀礼的無関心や消極的な自由など、「他者への不干渉」をベースにしています。助けあいの関係は過剰な干渉として嫌われ、あるいは「暴力」とさえ言われる可能性があります。

職業倫理は貨幣関係が基本にした仕事による社会的なつながりを基本にするとともに、貨幣等価交換に還元されないプロフェッショナルとしての責任があります。そしてプロフェッショナルはその分野において素人より「知っていると想定された主体」であり、素人からの尊敬されことで「他者への不干渉」を飛び越えることが許されます。

また「助けあいの関係」とは異なり、職業倫理からの与えられた贈与に対して、消費者は返礼をする必要はありません。だからといってそれは単なるサービスではありません。プロフェッショナルとしての社会的な貢献です。だから返礼はみずからもまたプロフェッショナルという立場から社会に返礼するのです。

すなわち「職業倫理」「他者への不干渉」という弱い倫理と「助けあいの関係」という強い倫理の中間に位置します。そして貨幣交換ネットワークを利用した「社会的な貢献」という贈与関係のネットワークを形成することで、資本主義社会に適応した倫理形態と言えます。




消費者のモンスター化


しかしこのような期待故に逆に最近、過剰に期待されてる面があります。それが、教育現場のモンスターペアレント、医療のモンスターペイシェント、あるいはクレーマーなど、消費者のモンスター化として問題になっています。それによって、多くのプロフェッショナルが疲弊しています。そして教育や医療さえも、貨幣重視のマクドナルド化するしかないのではないか、と議論されています。

感情労働」時代の過酷 (AERA:2007年06月04日号) 

看護の領域などで知られる、感情労働という言葉がある。「肉体労働」「頭脳労働」と並ぶ言葉で、人間を相手とするために高度な感情コントロールが必要とされる仕事をさすものだ。・・・平たく言えば、働き手が表情や声や態度でその場に適正な感情を演出することが職務として求められており、本来の感情を押し殺さなくてはやりぬけない仕事のことだ。・・・そしてここにきて、この感情労働があらゆる職種に広がり始めている。

・・・ひと相手の仕事は昔からあっただろうと、働く側の問題点を指摘する声もありますが、一概にそうではないと考えます。以前は、顧客が常連や顔なじみであることが多く、ある程度の親密さや信頼感がありましたが、今は気質も好みも分からない不特定多数の人を相手にしなければなりません。しかも瞬間芸的なスピードで、感情労働が求められています。


「なぜ感情労働マクドナルド化によって対処されるのか」 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070611#p1




人間の尊厳の根源は仕事にある


ボクは、現代の日本において、誰もがプライドをもった職業につくこと、そのような機会が与えられる社会を作ることが重要だと思います。人間の尊厳の根源は仕事にあると思うのです。とくに職業倫理(プロフェッショナル)を重視すべきです。

ここでボクがいう仕事は広義な意味を持ちます。趣味も労力を投入するという意味で「仕事」に近い。しかし仕事と趣味との違いは、それによって対価をえることと、社会的な貢献を前提とした倫理が伴うことです。社会へコミットし、充足(やりがい)をえる有用な方法であり、現代の唯一、共有可能な倫理だと思うのです。

仕事は疎外された行為ではないし、ネオリベラルな物質的な豊かさにしか繋がらない作業でもありません。仕事は社会へコミットすることであり、社会資源を有用に活用することで、一人ではできないような社会を変革させることです。たとえばネジを作る仕事でも、有用なネジは世界を変革させることができます。このような仕事による社会へのコミットこそが人に生きる意欲を与えるのではないでしょうか。




「ノンワーキング・リッチ」問題


たとえば若者が殺到するネットやオタク文化において、彼らはそれらにそのものに関わることを望んでいるのでしょうか。重要なポイントはそこに創造性を発揮できる場所があるか、だと思います。創造性を発揮できる場所とは自分たちが作り上げる場所ということです。

だから対象は必ずしもネットやオタク文化である必要はないでしょう。創造性が発揮できる場所が与えられれば、彼らは十分能力を発揮することができると思います。それは大金が儲かる、社会的な注目を浴びるということではなく、実働的な場として社会生活と関わり続けることができる場所です。これは、職業倫理(プロフェッショナル)を育てる上で決定的に重要なこととともに、若者にかかわらず人間が尊厳を持ち充実して生きることに重要です。

しかし現代はそのような場を作り出せていない。その理由の一つが職業上の既得権益の問題です。既得権益として中高年が年功序列固執するのは、日本社会ではリストラされると復活することが難しいという再チャレンジに不寛容であるためです。

このような閉塞は、若者の職業の機会を奪うとともに、中高年にとっても生きる充実を奪います。そして日本社会全般の経済力の低下に繋がっています。

問題はワーキング・プアではなく、その裏側にいる中高年のノンワーキング・リッチである。・・・日本経済の生産性を引き下げて労働需要を減退させ、若年労働者をcrowd outしているのは、こういう年代だ。彼らは世間的には、それなりの地位について高給を取っているが、本人は「生ける屍」である。年功序列などという愚かな雇用慣行がなければ、まだ現場で働けるのに、こうして座敷牢で50代を過ごす。

かつては優秀な人材が製造業に集まって世界進出を果たし、日本経済を牽引した。しかし産業の軸が製造業から外れたあとも、彼らは衰退する製造業に残り、それにぶら下がる非生産的な銀行や官僚機構でも、優秀な人材が大量に社内失業している。こんな状況は日本経済にとっても迷惑だし、彼らも幸せではない。


池田信夫 blog ノンワーキング・リッチ  http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/a987f0c09891c37d89e493a8895688a0

たとえばこのような(日本企業のもつ既存社員を保護するという傾向)傾向は、ニートや、フリーターの問題のも繋がると思います。日本企業は既得社員を止めさせるよりも、新たな人を雇用しないことで人件費の削減が行われます。それはすでに社員になっている人の方が仕事ができるという成果主義からでなく、既得社員を守るためです。

そして若者は定職に就かずとも、ニート、フリーターとして生きていけます。それは、親に依存するからです。そして親子という家族単位でいえば、親という既存社員の雇用を確保することで、親を通してニートの子へも金銭が分配される構造があるのです。極論ですが、子がニートになることで、家計は守られるのです。これが不況を乗り切るためにとった日本社会の保守的な構造です。(pikarrr)


「なぜ若手が会社を辞めるのか?」 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20061209#p1




プロフェッショナル=ナショナリズム


「プロフェッショナル(職業倫理)社会」が重要である他の理由は、今後のネオリベラリズムな流れは変わらなし、貨幣に依存しなければ生きていけない。そこではグローバルな国家間競争がより過酷になることにあります。

グローバリズムナショナリズムは同じことです。グローバリズムは国境が消失する経済的な競争ではなく、グローバルな国家間競争です。「資本−国家−ネイション」という構造は資本主義の始まりから代わりません。だから国力を維持しなければ、国が貧しくなり、より労働環境が悪化します。

社会が豊かになっている、機械化が進んでいるといってもグローバルで見れば、ほとんどが貧しい国々であり、国家間の競争は過酷です。今の日本の豊かさはみなが仕事をしてきたからある。少し気を抜くと転落してしまいます。現にいまの日本のワーキング・プアも、中国、インドなどの経済力の向上と無関係ではありません。

そのためにプロフェッショナル(職業倫理)=ナショナリズムを検討する。資本主義社会に適応した倫理形態としての「職業倫理」ネットワークをもとに、誰もがプライドをもった職業につくこと、そのような機会が与えられる社会をめざす。そして日本の豊かな国力を維持する。