「ネットユーザーはルサンチマンだからちょっと刺激的なタイトルですぐ炎上するよね」

pikarrr2008-07-09


ネットユーザーは馬鹿だから、ちょっと刺激的なタイトルですぐ騙されるよね | Web担当者Forum http://web-tan.forum.impressrd.jp/e/2008/07/08/3508


IT系の出版社の編集者があつまる飲み会というものがあり、ネット系のメディアが中心になってからもたまに参加している。だいぶ前になるが、その集まりで、こんな発言があった。

「ネットユーザーは馬鹿ばっかりだから、ちょっと刺激的なタイトルをつけたら、すぐ騙されてクリックしちゃうんだよね。」

大手ニュースサイトであっても、記事タイトルの付け方1つでアクセス数は倍どころでなく変わるというのは、よく言われることだ。ユーザーを惹き付ける“良い”タイトルを付ければ、トップページでもクリックされやすくなるし、はてなブックマークなどのソーシャルサイトで取りあげられた場合にも加速度がつきやすくなる。

しかし、良いタイトルでアクセスが増えるのは、ユーザーが愚かだからではなく、ネットではユーザーが「クリックするコスト」が極端に低いからだということを理解しておくべきだろう。




ネットコミュニケーションは思いの外、労力がいるメディアである


歩いている人、店で食事をしている人などにいきなり話しかければ不審者である。それに対して、ネットコミュニケーションは誰でも簡単につながれるメディアである。しかしコミュニケーションの容易さ(コストが低い)にもかかわらず、ネットコミュニケーションには思いの外、負荷がかかる。流動する多量の情報の中で自らの存在を示すには継続が必要であるからだ。

たとえばよく言われるのはミィクシィである。人物の特定性が高いために、「つながり」つづけるのに多大なメンテナンスか必要で、その負荷から疲れるとよく言われる。ブログなども同様であり、継続的にアクセスを期待するためには、マメな更新が欠かせない。ほっておくとアクセスは他へ流れていってしまう。

匿名性の高い掲示板でも実は継続性が重要である。掲示板には掲示板の文脈があり、流れをつかまなければ実のあるコミュニケーションはむずかしい。あるきっかけで話がはずんでも少しアクセスできなければ話についていけなくなる。




暇な人に優位なメディア


ネットにはなぜか民主主義的な錯覚がある。発言量が多い→多くの人が投票(同意)した→その意見は「正しい」という漠然として了解がある。炎上などは意図的にこのような効果を狙っている。一人の人が多量に投稿することで、あたかも多くの人が「投票」しているように見せかけようと懸命になる。

ネットコミュニケーションはそれによってお金が稼げるわけでもなく、必ずしも生産的な行為とはいえない。それでもネットコミュニケーションに時間をさける人、簡単に言えば「暇な人」に断然優位なのだ。では実際にそれだけの負荷をかけられる人は誰かといえば、学生であったり、ニートであったり、さらには社会的なコミュニケーションが苦手な人であったりする。

だからネットは人々の代表的な意見、あるいは本音を代表するということはなく、むしろ暇な人の意見を反映しやすい。





炎上による公共性の獲得


と言う以上に、ルサンチマンな意見があらわれやすい場となりやすい。なぜなら、炎上などの大量の意見が「正しい」発言へと短絡され、社会に影響を与えるという愉快さがあるからだ。

一つにはこのような大量の発言の正しさを評価する方法がないということだ。たとえばその発言がクレームであった場合、いままではわざわざ電話をかけてクレームいう場合には「コスト」が高く件数は限られていたが、ネットではクレームをいう「コスト」が低いために、クレーム件数はいままでの基準で評価すれば、驚くほどの多量の件数が殺到する。それでもいままでのクレーム件数評価として扱うしかなく、過剰に反応してしまう。

さらには、重要であるのはマスメディアに取り上げられるということだ。それによって「公共性」を勝ちえたという指標になる。最近ではネット炎上を容易に取りあげて、購買につなげようとするマスメディアも登場して、このような傾向が加速している。




ネットのルサンチマン的限界


そこに、社会に埋もれた下層の声が響く場所、というような政治的意味があれば有用であるかもしれないが、そのような成熟もない。本当の下層の人はそのような暇も、ネット環境もないのかもしれない。そして大量のアクセス数を背景にしたネット上の「正しい」意見は、ストレスのはけ口のような挙げ足とりや弱いものいじめに収束しつつある。

当初は人類初の直接民主主義の実現のような期待もあったが結果的にこのあたりにおちついてきたようだ。これが現在のネットコミュニケーションのルサンチマン的な限界といえるだろう。
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