「環境-調和図式」と構造主義(全体)

pikarrr2008-08-14


[試論]身体の政治的な「環境-調和図式」 その1 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20080811のコメント欄より、脂(あぶらすまし)さん*1との議論。




■脂(あぶらすまし)

勝手に思いついたことが自分で「面白いな」と思えたのでコメントしてみます。その図表、ここ(http://www.geocities.jp/captifamoureux/mishima.htm)にうpされている図表と関連させてみると面白いかもですね。




参照:「三島、その可能性の中心」 志紀島啓 http://www.geocities.jp/captifamoureux/mishima.htm

「調和−不調和」軸が「構造内−構造外」軸に、「人間重視−環境重視」軸が「神聖化−世俗化」軸に、なったりするのかな。右方向に90度回転させるわけか。となると、リンク先の筆者は、その図表において、1をスキゾフレニックな様態、4を幼児的様態って述べてますが、1を物象化、4を原初的様態として述べているあなたの論にも合ってきそうです。




■pikarrr

浅田−志紀島図式との違いがわかりやすいのは、<訓練>だと思います。歩くことさえ数年の訓練が必要です。訓練は習得するのに時間を要する。この時間は経験論的なものです。強制はいくら時間をかけても調和しない。管理は訓練の時間を短縮する。感染は訓練の時間を限りなくゼロにする。構造主義的な共時的ではなく、経験論的な通時性を基本に<環境-調和図式>を考えました。

このように経験論を重視すれば、ご指摘と逆に「調和−不調和」「構造外−構造内」に対応します。「構造」「不調和」であるのはおかしいと思うかもしれません。経験論的な調和とは訓練によって環境と人が調和する状態です。究極には進化論的な自然淘汰であり、アフォーダンスな状態です。

構造主義は経験論と対立する合理主義的な立場です。合理論は世界を合理的に記述しようとしますが、そのしわ寄せとして超越論的な点が必要になります。カントが見出した物自体であり、浅田−志紀島図式では2)に対応します。経験論的には無理矢理の調和であり、不調和です。ラカンでいえば、この不調和は終わりがない欲望が生まれる図式です。

浅田−志紀島図式は2)の構造主義の構造を基本に展開しているという点で、すべて合理論の領域です。ボクは<環境-調和図式>によって、合理論と経験論を一つの地平に乗せたいということで考えています。




■脂(あぶらすまし)

「調和−不調和」軸の反転は、それもありかなあと思っていました。しかし、それを調和と表現する自体が、すでに環境主義なような気もします。言語というものが元々人間主義的なものなので(少なくとも環境は象徴界ではない)、「構造」「調和」が連鎖する方が正しいと思います。「女は存在しない」と同じレトリックですね。となると言語なんて、って話になりがちですが、あなたの仰る経験論を表現してきたのは、むしろ文芸である気もします。

あなたのやっていることは、一つの地平に乗せるというより、理に則りながら理の外側を表現するようなことに思えます(批判ではなく、ただの感想です)。一つの地平に乗せるということ自体が、共時的視点の要請、あるいは合理論が経験論を飲み込むことであるように思います。構造主義とはそういうものであるような気がします。

わかりやすくいうと、あなたの思考様式は、ひどく構造主義的に見える、という感想です。




■pikarrr

「女は存在しない」、別に言えば「性関係は存在しない」。これは人間と「環境」との調和の不可能性とともに、構造が「不調和」であることを示しています。ラカンには言語外の経験、訓練は排除されているので、重要な指摘はむしろ構造が「不調和」であるという方にあると思います。

精神分析はそもそも「感染」領域を研究するというとても特殊な学問です。各分野を研究する人間に関する学問の例は大まかになりますが、以下のようになります。これで漠然と<環境-調和図式>の目ざすところがわかっていただけるのでないでしょうか。

強制(疎外)・・・政治学
訓練(規律訓練権力)・・・技術、工学、医学
管理(生権力)・・・科学理論、経済学、心理学
感染(物象化)・・・現代思想構造主義)、精神分析社会学






■脂(あぶらすまし)

ラカンには言語外の経験、訓練は排除されているので、重要な指摘はむしろ構造が「不調和」であるという方にあると思います。


同意します。象徴界は二次元的であり、穴が開いている。「重要な指摘は〜」の部分は、わたしはブログでこう表現しています。ラカン論では、二次元でしかないから「こそ」という話になる。この「こそ」がポモの真髄。」

しかし、「存在しない」というレトリックを考えれば、構造に構造外との連絡路としての穴がある、という意味になります。これは、構造内に不調和が残存することからは逃れられないという指摘であり、構造外が調和であることを示しているとは思えません。たとえば「無意識は言語のように構造化されている」という言葉にも同じことが言えます。

構造外が調和であるとしたならば、それこそドゥルーズ=ガタリのような「(構造外としての)無意識とは牧歌的なものである」という主張に陥りはしませんか? わたしはそれには強く反対します。自然淘汰についてもそうです。自然淘汰を調和的なものと思ってしまうのは、それこそ合理論的な志向が強く働いているように思えます。

わたしはラカンの、構造内−構造外の断絶をあえて「理屈では」飛び越えなかったところを評価しているので、こういう言い方になります。症状として解釈すると飛び越えたいと言っているようなものですが。晩年は特に。「断絶の魅惑に屈しつつある」みたいな表現をブログではしています。

彼は、言語や理の限界を知っていたのだと思います。この限界は、(既読でしょうが)こちらの論文(http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/saito/voice0104.html)の十川氏によれば、「精神分析が真に生産的足りうるのは、あくまでも臨床場面において不可能なものの抵抗に出会い、そこにおいて経験的次元と超越論的次元の「絡み合い」が生ずることによる。」の「抵抗」に当てはまるでしょう。

あなたの論は、ラカンがせっかく構造内に持ち込んだ不調和を、調和という構造で飲み込もうとしているように見えます。喩えて言うなら、その理論を心理学化しようとしている。こういった態度は、先の論文にもあるように、ジジェクにも感じられることです。わたしはどちらかというと去勢の否認推奨派なので、それを「否認」と表現する斎藤の言葉について「うんうんそれで?」となります)。

あなたは経験論と仰りますが、先の論文の十川氏の立場を取るなら、それは少なくとも「不可能なものの抵抗と出会」「臨床」ではないと言えるのではないでしょうか。現実界は牧歌的なものではなく、しかめっ面をしているのです。あるいは、それこそ暗黒大陸なのです。

要するに、「構造内」「不調和」は理解できましたが、「構造外」「調和」がわたしには納得できない、ということです。あるいは、それはあくまでも浅田図式と対比した場合の話であり、「構造外」「調和」していると言っているわけではない、と言うなら、あなたの仰る「調和」とはなんなのでしょう? という疑問が残ります。




■脂(あぶらすまし)

>これで漠然と<環境-調和図式>の目ざすところがわかっていただけるのでないでしょうか。


漠然とですが、感染のところにそれを持ってくることで、言わんとしていることは見えた気がします。十川氏が述べている精神分析と芸術の親近性のような感じのことかな、と。ただし、わたしは個人的に社会学に対しては疑問を持っています。社会工学的なイメージが強いのかな? なので管理だろ、とは思います。強制のところの政治学もよくわかりません。
そもそも学問は学問である限り、体系的である限り、訓練か管理になるように思います(精神分析が学問の中で異色なのはご存知でしょう)。

取り急ぎ、疑問に思ったところだけ。浅田図式の志紀島氏の読み解きもわからないところがあり、それと相関させての感想なので、誤読が多いとは思いますが。あ、あと何か構造主義に批判的な文章になっている感じが自分でしたので言い訳しておくと、わたしは結構構造主義者です。




■pikarrr

ボクもラカン好きの一人として、脂(あぶらすまし)さんの指摘はよくわかります。<環境調和図式>はまさに脂(あぶらすまし)さんが指摘したこと=ラカンを乗り越えたいがために考案したのです。

脂(あぶらすまし)さんがラカンをもとに指摘したことはそのまま同意します。その上で話を続けます。わかりやすい例で行けば、ボクが言っているのは「無意識」暗黙知の関係です。ここでいう「無意識」とはラカン「言語のように構造化されている」です。

暗黙知はマイケル・ポランニーが示した「無意識的」なものですが、言語ではなく、身体知です。たとえば自転車にのるために繰り返しの訓練が必要です。そして訓練の末に一度自転車の乗り方を習得すると人は一生乗り方を忘れないと言われます。しかしどのように乗っているのかと聞かれても答えることができません。ただ乗っているとしかいえない。このような身体知はとても一般的なものです。歩くこと、走ること、投げること、スポーツは身体知の固まりです。だからスポーツ選手は訓練(練習)がすべてです。

このような身体知=暗黙知は言語のように構造化されているでしょうか。そうではないでしょう。ラカンの無意識を言語系の知とすれば、暗黙知は運動系の知です。

ここでわかることは、ラカン理論は「性関係は存在しない」というように強烈なほどに言語に忠実であるあまりに、多くが排除されているのです。言語外を現実界へとひとくくりにして、欠如として排除してしまっているのです。なぜならラカン構造主義者という一つの立場を選択しているからです。ドゥルーズであり、デリダであり、浅田−志紀島であり、ラカンに反論し動性を持ち込もうが、基本ベースが構造主義なので暗黙知は語れません。

ここにあるのは、大陸の合理論の流れと英米の経験主義の流れを見ることができます。構造主義(ポストを含む)は前者であり、ポランニーは後者です。後者には分析哲学プラグマティズムなどがありますが、身体知に近いのは行為論としてのウィトゲンシュタインです。ウィトゲンシュタインは言語を問題にしましたが、発話を実践、訓練によって習得するものとしました。無意識ではなく、暗黙知に近いものとして考えました。(説明すると長くなるので省略します。)

調和の話にもどると、自転車に乗れるということは自転車と身体が調和しているのです。歩くということは、重力、大地と身体が調和しているのです。

しかしこの調和をまた一つの疎外として考えることもできます。訓練によって身体が環境に合わされている。自転車がもっと人の体に合わせて設計されていれば、訓練などほとんど必要がないかもしれない。現に初期の自転車はとても乗りにくいものだったようです。このように考えると進化論の自然淘汰「疎外」と言えます。環境に身体形態まで強制されている。(このようなことを言う人はいないと思いますが)

さらに現代は自転車を訓練しなくても、電車に乗れば、訓練がなく、より速やかに移動できるように、移動手段は開発管理されています。すなわち少ない訓練で人と環境が調和される。これは図式上では<訓練>から<管理>を示します。

調和はいつも疎外ですが、<訓練>や<管理>は、人があたかも調和しているように感じることができるということです。これがフーコーが規律訓練や生権力で指摘した権力の形です。<強制>のような明らかな身体的な苦痛を与えず、環境に充足(調和)させる権力ということです。ボクが「調和」ということで意味するのはこのようなことです。




■pikarrr

社会学は多様ですから、社会学をどのように捕らえるかですが、社会工学的や社会心理学的なメージなら<管理>でしょう。

ボクは、政治学、経済学、社会学を、近代に分離して生まれ、それぞれが相補的にカバーする人間学としてとらえました。これは柄谷が社会形態の相補的な要素とした「資本−国家−ネーション」にも対応しています。

A 強制・・・国家=政治
B 訓練・・・ネーション=社会、文化
C 管理・・・資本=経済
D 感染・・・消費、芸術(ショックの経験)


「国家=政治、法」は、現代においても市民のためということではありません。独自の論理を持ちます。これは<強制>(暴力)をもって行使されます。

「資本=経済」は、最近のグローバルなネオリベラルのように<管理>された効率性をめざします。

「ネーション=社会、文化」は基本的には<訓練>だと思います。共同体の道徳、規律は教育、訓練によって伝達されます。そして共同体の成員になります。しかし現代の大きな物語の凋落」が言われるように、道徳、規律が解体しつつある中で、ネットウヨなど、その場その場の盛上がり、<感染>が重視されつつあります。ボクは、文化を研究するという意味では社会学は<訓練>領域の学問といえますが、現代の社会学が社会の流動性を研究する傾向が強いというイメージから<感染>領域の学問に位置づけました。

再度言えば、(共同体の)文化は基本的に<訓練>の領域ですが、経済=消費型の文化は<感染>の領域でしょう。精神分析と芸術の親近性」もこのような意味で理解されるのではないでしょうか。アガンベンの指摘のように近代化において、芸術は生活から乖離し、創造と破壊を求める、「ショックの経験」へと向かう。マーケティングはこのような「ショックの経験」を商品化する研究ではないでしょうか。

ボードレールは、新しい産業文明における伝統的権威の解体に直面せざるをえなかった詩人である。それゆえ、彼は新しい権威を発見しなければならない状況にあった。つまり、彼は、文化の伝承不可能性そのものを新しい価値に転化し、芸術作品自体のただなかでショックを経験させることによって、この課題を成し遂げたのである。ショックとは、ある特定の文化秩序のなかで事物がもっていた伝承可能性や理解可能性が喪失するときに、事物が帯びることになる軋轢の力である。もし芸術が伝統の崩壊を生き延びようとするならば、芸術家はショックの経験の根底にある伝承可能性の破壊そのものを作品の中に複製しようとつとめなければならない。・・・異化価値を生み出すこと、それは現代の芸術家に特有の課題となったのである。P157-158

芸術は、みずからの保証を失うことよってしか保証されないものを保証する必要に迫られるようになる。職人の謙虚な活動はかつて、人間に仕事=作品の空間を開示し、そうすることで、伝統がみずからの過去と現在を絶えず結びつける場所や対象が構築されてきた。しかしいまやそれが、天才の創作活動にとって代わられ、美を生産せよという命令が重く圧しかかることになる。この意味で、美を芸術作品の直接の目的と考えるキッチュは、美学特有の産物といえるのであって、同様に別の面では、キッチュによって芸術作品に喚起される美の亡霊こそ、美学が基盤を見出している文化の伝承可能性の破壊にほかならないのである。P163-164


「中身のない人間」 ジョルジョ・アガンベン (ISBN:4409030698


■pikarrr

ついでなので、今ボクが考えている、暗黙知と無意識の関係を突き詰めてみます。

暗黙知−行為論を突き詰めると、ラカンの無意識への不信感が生まれます。身体知を排除して、構造主義という合理的な世界が組み立てられるのか、すなわちラカンの無意識はそもそも存在するのか。

人は歩くとき、どのように足をうごかし、どの場所を踏み、歩くなど考えません。ただ「自然に」歩きます。たとえば「止まれ!その当たりに地雷が埋まっているぞ!」と言われると、人は立ち止まり、歩けなくなります。しかしそれでも歩かなければならないとき、地面をよく見て、不自然な場所がないか、それを避けて、足をそろりと運びます。通常、疑いもしない地面への不信感が生まれることで、ただ「自然に」とはほど遠い状態が生まれます。

このような状態は、神経症に似ています。通常、多くの人が「ただ自然に」行っていることが、「世界」への不信感から「自然に」行えなくなる。この食堂の食器はちゃんと洗えているのだろうか、誰かが影で私を笑っているのではないか、誰かが私を見張っているのではないか。

簡単にいえば、神経症とは「考えすぎ」のことです。通常、暗黙知(身体知)で行う「自然な」行為について、頭で考えすぎる、言語によって理解しようとしすぎる。そのような状態になるのはなんらかのきっかけで、世界への不信感が芽生えてしまう。あるいは神経質な性格、内向的で言語過多な性格によって考えすぎて、「世界」への不信感を広がる。

すなわちラカンいう「言語のように構造化された」無意識というのは、暗黙知(身体知)がフリーズした病んだ状態に現れる「静的な構造体」といえます。精神分析のいう無意識とは神経症な無意識としてのみ存在するものです。「健全な」身体では言語知は身体知と一体となり、動的に作動するために「静的な構造」を持ちません。

といいたいのですが、精神分析で言われるように、人はみな多かれ少なかれ神経症であるといえます。たとえば思春期や恋をしたときなど、人は「考えすぎて」自然なふるまいができなくなります。あるいは誰もが悩みをもっていますから、悩んだときにも、自然なふるまいができなくなります。

その意味で、「性関係は存在しない」というテーゼで、人間に「自然な」状態はないといったラカンは正しいといえます。しかししかしそれでもやはり言い過ぎであるとも思えます。自然な性関係はなくても、限りなく自然な歩行はあるのです。それは、無意識ではなく、訓練によって獲得した暗黙知によってなにも考えずに歩いている時です。人の行為のほとんどはこのように考えずに反射的に行われます。

さらにいえば、フロイト以来、精神分析がなぜ性関係にこだわるのか。それは性関係が訓練から離れているからです。性関係は社会的に抑圧され、安易に訓練することが許されません。だから暗黙知による性関係というものがありません。すなわち性関係は限りなく言語的であり、精神分析的なのです。

再度、環境-調和図式にもどると、以下のようになります。

A 強制・・・疎外により不快な状態
B 訓練・・・暗黙知によって限りなく自然な状態=(マルクスのいう)類的存在的な充足
C 管理・・・暗黙知+環境管理によって限りなく自然な状態=動物的な充足
D 感染・・・ラカン的無意識による神経症な状態=スノビズム的な充足





■脂(あぶらすまし)

その身体知。とても重要な概念だとわたしも思います。わたしなどは、たとえば統合失調症は(認知を含めた)運動機能障害だという論があり、結構巷ではスルーされている説なのですが、それが連想されます。ここにも関係してきそうな話です。

しかし、身体知と言語的知の関係も、見逃されてはならないと思うのです。身体知も「統合」です。一つ一つの筋肉の伸縮をどう統合するか。これは言語的知に当てはめるなら、「統辞」になると思います。

たとえば、あなたがよく引用するベイトソンの学習理論についてならば、斎藤環自閉症者の障害を、学習2の段階の不具合に見て取っています。だからアスペルガー症候群者は「文脈が読めない」「空気が読めない」となるわけです。

統合失調症者や自閉症者の障害は、言語的知の統辞機能に問題があるのか、はたまた身体知の統合機能に問題があるのか。それらは別々の不具合と考えるべきなのか。かといってバロン=コーエンのように「中枢性統合の不具合」として一括していいものか。

ラカンに影響されてなければ、これらの問いはスルーされるでしょう。精神分析言語学の視点から捉え直しているわけですから、言語的知に関する要素が特徴的に思えるだけである、と。それもわかるのですが……。

こうやって身体知を考えていると、わたしは「ある程度シニフィアン化された想像界という妙なものを連想してしまいます。むしろ、純粋に混沌とした、あるいは純粋に無時間な、想像界など存在しないのではないか。あくまで想像界は混沌「的」、無時間「的」である、みたいな。同時に、純粋にシニフィアンだけで構成された象徴界も、存在しないのではないか。むしろ、純粋な想像界、純粋な象徴界こそが、現実界あるいは現実界の対極にあるものではないか……。

あ、なんか最後トンデモ入った。独り言になってきたのでやめます。



>それは性関係が訓練から離れているからです。


現代社会は性関係すら訓練管理されているように思えます。むしろそれにより、性関係すら精神分析的に、神経症の症状に、一般化されている、と言う言い方をしますね。わたしなら。要するに、性が(象徴界的に)オープンになることにより、存在しなかったはずの性関係すら、去勢され始めている、と。

あ、ここは雑談のようなものとして捉えてください。享楽主義者の言い分です。政治学社会学についての件。わたしはどうもそちらは疎いので、じっくり勉強させていただきます。


ちなみに歩行について。個人的な症状の話で申し訳ないのですが、わたしは歩き方を忘れてしまうことがあります。マンガなどで興奮状態のキャラを表現する時、世界が歪んで見えるような描き方がありますが、あれに似た感じで、アスファルトの地面がぬかるんでいるようになったり、歩くと地面がトランポリンのようになっていたりします。いえ、ひどくストレスが溜まった時などほんの時々ですが。

果たしてこの場合、身体知が言語的知即ち「考えすぎ」で不調をきたしているのでしょうか?わたしはそのようには思えないのですね。

従って、現実界想像界象徴界という考え方ではなく、現実界想像界あるいは象徴界という立場で考えるガタリ論やクリステヴァ論に依拠する視点も取らざるを得なくなります。ガタリは大嫌いですが。


うーん。あなたの仰る文脈で身体知を考えていくと、どうしても「それこそ想像界じゃないの?」と思えてきます。これはあなたやわたしが(なんちゃって)ラカニアンだからでしょうか?

象徴界の穴の向こうには、想像界があることもあれば、「存在しない」現実界であったりすることもあるでしょう。そういう意味で、象徴界的な合理主義の限界を乗り越えるものとして、「経験論」「身体知」を見出したあなたの思考論理は、とても理に適っているとは思います。

しかし、想像界象徴界から排除されたものが、現実界なのではないでしょうか。想像界象徴界と比較して非構造的であるのは間違いないでしょう。よって想像界に穴が開いている」という表現はおかしいと自分で思いますが、そのようなことじゃないかと思います。

要するに、あなたの仰るような、行為の統合という意味での身体知からも(それこそ常に既に)漏れ落ちているのが、現実界ではないでしょうか、という指摘です。




■pikarrr

丁寧な返信ありがとうございます。脂(あぶらすまし)さんの指摘には触発されます。また長文になります。そして結構、「臨界」まで来ましたね。


行為論でいうと、すべては行為です。行為ではおなじ行為は存在しません。1度行為(体験)するとその前の身体とはすでに違う身体になっています。だから言語(シニフィアンシニフィエ)など存在せず、すべては発話する行為であって状況もかわり、意味も変わります。だからそもそも精神分析的な無意識のような静的な構造は一つの幻影でしかありません。

といっても、そもそも、行為、暗黙知とはなんでしょうか。暗黙知神秘主義的にとらえられるのかは、それが何であるか、まだ科学的に分析されていないからです。たとえば二足歩行のロボットが開発されたのも最近です。人がどのようにメカニズムで歩いているのかさえわかっていません。人はほとんどの行為を意識せずに行っていますが、それがどのようなものであるか、ほとんどわかっていません。

それに比べると、言語は、ソシュール以来、多くの研究がなされて、ラカンを経て人間とはどのようなものであるかを表現する方法論を構築してきました。だから「意識しないもの」を表現する場合に、いまだに精神分析的な方法論が有用です。


無意識と暗黙知は、「意識しないもの」心身二元論の関係にあります。これは先に言ったように合理論と経験論の対立にも見られます。脂(あぶらすまし)さんも言われるように、これらは対立構図にはなく、本来、相補的である以上に一つのものです。だから心身二元論的なとらえ方は人間分析の方法論(イデオロギー)の違いといってもいいでしょう。しかしさらに言えば、人は複雑なものをこのようにそれぞれの面で分解してしか思考することができないとも言えます。

だから心身二元論「境界(臨界)」では、矛盾した様々な言説が飛び交う。たとえば脂(あぶらすまし)さんがいう「ある程度シニフィアン化された想像界象徴界の穴の向こうの想像界などの言説も、そのような「臨界」に触れて混乱しています。

さらにボクは、精神分析的な無意識、特に現実界もこのような混乱した言説の一つだと思っています。先にも言ったこのような超越論的な点はカントの物自体にはじまります。カントが物自体を導入したのは、言語では避けられないアンチノミーを統合するために、形而上学上に求めた仮想点です。だからその始めから物自体の導入は思弁的すぎると批判があります。ラカン現実界も臨床とは別に、言語的に不可能性の点として考えられています。ようするにラカンの精神論はあまりに言語的、すなわち構造主義的すぎるのです。フロイト自身はもっと実証的で、決してここまで構造化して考えていません。

さらに、精神分析の方法論でラカンを乗り越えようとするドゥルーズ=ガタリデリダでも、懸命に「臨界」に挑むために言説としては過剰になります。ジジェクが指摘するように、それはすでに神経症的なのです。

しかし行為論もまた身体一元論的すぎます。身体側から臨界へ近づくとまた矛盾した言説に陥ります。たとえば有名なものが人工知能のフレーム問題です。フレーム問題を突き詰めると人はフリーズして行為することができなくなります。それを乗り越えるのが、暗黙知です。しかし先に言ったように、暗黙知とはなにかはまだよくわかっていない。すなわちここでは暗黙知が超越論的なシニフィアンとして使われている面があるのです。


再度言えば、身体知と関係しない純粋な無意識も、言語と関係しない純粋な暗黙知も存在しません。だからボクが示した<環境-調和図式>は、あえて、心身二元論の構図を持っています。何度も言うように経験論と合理論を同じ地平に示すというのは、現時点では融合することが難しい心身二元論を、あえて心身二元論として、同じ図式にのせるということです。


現代社会は性関係すら訓練管理されているように思えます。むしろそれにより、性関係すら精神分析的に、神経症の症状に、一般化されている、と言う言い方をしますね。


だから「性関係が神経症の症状に一般化されている」ということを、ボクは<訓練>とは呼びません。ボクがいう<訓練>とは身体的なものだからです。性関係の訓練とは、性行為の訓練です。現代の性関係は、性行為の<訓練>がタブー視されている故に精神分析的な<感染>の対象となっている、という表現になります。・・・・と言い切るのもむずかしい。この言説も「臨界」に触れている故に矛盾し面が表れていますね。

ようするにこの心身二元論の乗り越えがボクの主要テーマであり、<環境-調和図式>もその試みの一つということです。ボクがこの<環境-調和図式>を気に入っているのは、心身二元論「環境」という共通基盤を導入している点です。これはフーコーの影響が大きいです。


>果たしてこの場合、身体知が言語的知即ち「考えすぎ」で不調をきたしているのでしょうか?


ボクは臨床には詳しくないので、なんとも言えませんが、ボクが神経症「考えすぎ」で、言いたかったことは、通常、身体知でこなしている行為に何らかの原因(精神分析的には幼少期の外傷の回帰でもよいのですが)で、言語知が過剰に表出してしまっている状態ではないか、ということです。さらに言えば、心身二元論を解体すれば、器質を排除した純粋な神経症というものもないのでしょうね。




■脂(あぶらすまし)

なるほど。大体お互いの立場が見えてきた気がします。

わたしはあなたの仰る「超越論的な点」について、一般の思想界で語られているそれに対し、常々思っている疑問があります。ここでは文脈に則って「物自体」現実界に関連させて話します。

「物自体」現実界を関連させるのは、なんちゃってラカニアンのわたしでも理解できることですし、巷でもよく見かけられる論です。でも、わたしはどうもそれに違和感があったのです。

というのは、カントの物自体は、あくまで到達点であり、そこからフィードバックされる影響に対し自閉しているような印象があります。一方、ラカン現実界は、その机上の空論的概念を設置することで、たとえば(象徴界の穴などといった)「欠如」「享楽」と読み替えられたりします。超越論的な点が、構造に影響を及ぼしているのですね。

カントの「物自体」という概念は、その文脈も含めて捉えると、そういった力がないように思います。もちろん時代の流れというのもあるでしょう。ぶっちゃけちゃえば、「飽きられた」

わたしは別に現実界を物自体的なものとして語るのは批判しません。それは理屈的に合っているからです。しかし、物自体という概念は、この現実界という概念が持っている(あるいは持っていた)構造への影響力、それこそ「感染」的な影響力を見逃してはいないか、と思っています。

このことの問題提起として、わたしは「物自体とは悪意である」などと言ったりします。もちろんこんなこと考えて言ったわけではありません。わたしの心的事実に則って考えていると、そう思えたから言っただけのことですが。こう要約するとただの現実界は命のしかめっ面である」のパクリですね(笑)。


>何度も言うように経験論と合理論を同じ地平に示すというのは、現時点では融合することが難しい心身二元論を、あえて心身二元論として、同じ図式にのせるということです。


把握しました。わたしはどうもその「現時点では融合することが難しい」ことを主張したかったようです。これはわたしの心的構造も関係していることでしょうけれど。わたしも混乱していますが、わたしはどうも構造主義的な言論を混乱させたがっているフシがあります。元々デリディアンですし。


>器質を排除した純粋な神経症というものもないのでしょうね。


仰る通りだと思います。でも逆に言えば、そこが器質因と言い切るとあれなので、内因性の精神障害と、心因性神経症ディスクールが、共有可能となるポイントはそこにあるとも思います。


あと、これはまあわたしの独り言みたいなものとして。

>さらに、精神分析の方法論でラカンを乗り越えようとするドゥルーズ=ガタリデリダでも、懸命に「臨界」に挑むために言説としては過剰になります。ジジェクが指摘するように、それはすでに神経症的なのです。


わたしは神経症「正常という狂気」「定型発達という精神障害という風に攻撃的に読み替えています。神経症という正常人たちの症状を、症状として読み解くならば、わたしはガタリはとても神経症的即ち定型発達的と診断します。

一方、デリダについては、特に晩年の混乱しているような、読者を混乱させるような「熱気」には、神経症領域の外のものを感じます。確かにジジェクが診断しているように、彼らは二人とも去勢済みの主体でしょう。去勢済みだからこそ、去勢の否認になる、と。

しかしこの二人を比較した場合、(ブログで分析していることですが)ガタリの言説の方は、去勢の否認どまりです。それは彼の社会的活動に参画したがるアクティングアウトにも表れています。

要するに、デリダの方が、神経症者が非神経症に肉薄しているように見えるのです。それはそこに語られている理屈を見てではなく、クライアントのディスクールを分析するような視点、あるいはクリステヴァの(精神分析的な)テクスト分析によれば、という話ですが。

まあ早い話、ガタリは正常人の中二病デリダはボーダー臭い、ということですね。この定型発達という精神障害に顕著な症状は、妥協への固着にあると思います。ジジェクの過剰な(情念的な)言説を嫌う態度こそが、もっとも神経症臭い、とわたしは思っています。

正常人度で言えば、

ジジェク(大人という神経症)>ガタリ中二病)>デリダ(ボーダー)

という感じですね。だからジジェクも嫌いです。嫌いっていうか正直食指が動かない。

そんな感じです。仰るように確かに臨界臭いので、これ以上わたしの論をぶると、このブログの空気に合いそうにないので撤退します。わたしだってそれなりに空気は読めるのです。面白い議論でした。ありがとうですた。




■pikarrr

適切な例かわかりませんが、たとえば天文学「いかに惑星をさがすか」というのがあります。恒星はみずから輝くから「見る」ことで発見されますが、惑星は輝かないので「見て」も発見されません。惑星は、そこに惑星がないと恒星の軌道が説明がつかないという「欠如(ないことである)」として、発見されます。

それとともにこの「惑星」は逆に、物理法則そのものを支えます。なぜなら恒星の動きは、そこに惑星などなくただ従来の物理法則と異なる未知の法則が働いている可能性もあるからです。そうだとすると、従来の物理法則は崩壊します。そこに「惑星」があるだろうことで、物理法則という体系の正当性が保証されます。

カントの物自体は、人間には認識できないが、認識の向こう(超越)にある真実の世界として、存在論的に語られますが、カントのアンチノミー(二律背反)論では、この「惑星」のような「欠如」としての働きをします。

アンチノミー(二律背反)論では、物自体は「超越論的対象=X」と呼ばれ、言語体系上のテーゼとアンチテーゼの矛盾を、超越の領域で整合する点として置かれます。超越を人は認識できませんが、そこに物自体(超越論的対象=X)があることで、人間の認識する現象界(言語体系)そのものが支えられます。この場合に、物自体はまるで象徴界を支える現実界です。すなわちカントが見出したのは、合理的に世界を説明しようとするときに、しわ寄せとしての言語体系の不完全性をさえる超越論的な対象=Xが必要になるということです。

当然、カントは現象界を無意識に対応させませんし、欲望、欲動をかたりません。またラカンの欠如はカントよりもハイデガーの現存在の欠如に近いと言われますが。ラカンはこの欠如にフロイト「快感原則の彼岸」、すなわち欲動を重ねます。しかしこれは無理矢理のこじつけではないでしょう。

ボクが考えるのは、世界を合理的に説明しつくしたいという欲望が、破綻を乗り越えて作動することで超越論的な点はうまれる。合理論そのものが神経症的であり、精神分析は合理論の神経症性を身を持って暴露した。すなわちカントやその他の合理論全般に潜む欲望を暴露している、のではないか。



>把握しました。わたしはどうもその「現時点では融合することが難しい」ことを主張したかったようです。


心身二元論の境界(臨界)に興味があるのですが、それはデリダ的な存在論とは違うのです。心身の境界に存在論レベルで差延(差異と遅延)を持ち込むのではなく、もっと超越論(合理論)と実働(経験論)を対峙させられないか。ラカンにはすでにそのような面がりますね。ヘーゲルハイデガーの超越論とフロイトの臨床科学の対立or融合。あるいはフーコーは超越論−経験論の二重体として人間を考えます。

脂(あぶらすまし)さんの鋭い指摘に答える中で、ボク自身が自らの立ち位置、課題が明確になりました。ブログ周辺でここまで実りある議論はなかなかできないですね。おつきあいいただきありがとうございました。
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