なぜ現代の教育の規範は「夢をもて」なのか

pikarrr2008-10-13


なぜお経は意味不明なのか


たとえば仏教のお教はなぜあんなに意味不明なのか。お坊さんならいざしらず多くの信者はお教の意味がわかっているか。しかし必ずしも意味が重要であるわけではない。重要であるのは反復し唱えるときにつくりだされる環境である。

だからお教はむしろ意味不明であるほうがよい。目的はあくまで反復にあるからだ。意味がわかりやすいと、飽きてしまう。反復しやすいようにリズミカルで意味不明であることが重要なのだ。

宗教への傾倒は突然その宗教に感染するのではなく、少しずつ知りながら、あるいは「ミイラ取りがミイラになる」ように、宗教なんてくだらないと思いながら反復されるうちに気がつくと傾倒しているのだ。なにかを学ぶときは格好から入るということには意味がある。これはまさに規律訓練権力のありようを示している。




ネットワーク状に張り巡らされた規律訓練権力


多くの人がフーコーの規律訓練権力を勘違いしている。構造主義的、言語的に理解しすぎている。すなわち言葉(大文字の他者)を内面化することでその思想が「洗脳」されると。規律訓練は人間生成の基本である。その環境の中で経験により人は体をならしていくということ。規律訓練権力はそのような人間の特性としての規律訓練を権力として活用する。目的化された規範を体に覚えさせるために、管理された環境に人を「監禁」する方法である。

ここでいう「監禁」とは決して物理的な拘束のみを意味しない。学校はその配置、システム、学習方法、教師の振る舞いが生徒の身体を「監禁」している。そして学校は社会全体の配置、システムというネットワーク状に張り巡らされた規律訓練的な環境の一部である。整頓された道路、街並の配置もまたそのような環境として働いている。たとえば美しく配置された都会の街並ではみなが装い、道徳的、衛生的な振るまいをする。




なぜ規律訓練権力は強制的であると勘違いされたのか


規律訓練が強制的であると勘違いされた理由はまずそれが成人に導入されたからだ。生政治は生権力というグローバルな経済圏での自国の優位のために富国強兵という国策としてはたらいた。

そのために必要とされたのが、労働力となる農民などの成人の動員、そしてその労働力を分業体制に配置し効率化することである。しかし当然、彼らは分業に適した規範など身につけていない。たとえば農業での時間規範といえば日が上れば起き暮れれば寝る程度である。そもそも時間という概念さえ身につけていない。

新たな規範をみにつけることは難しい。「三つ子の魂百まで」ではないが、人は幼少に身につけた規範を変えることはほぼできないといってよい。だからこのような農民たちに分業的な労働に必要な規範を身につけさせるための規律訓練は、強制的、暴力的にならざる終えないだろう。

ウェーバーがいうように、資本主義はマルクス主義がいうような資本家の守銭奴根性、労働者への強制によって成功したのではない。カトリック信者よりプロテスタント信者が成功したのは、プロテスタンティズムの倫理、すなわち勤勉な規範が資本主義の生政治がもとめる規範と近かったためだ。彼らは強制ではなく、自らの規範に従い、「水を得た魚」のように資本主義の発展に貢献することができたのだ。




なぜ現代の教育の規範は「夢をもて」なのか


その後、生政治により社会全体の配置、システムは整備されてきた。特に重要であるのが規範を体に吸収しやすい幼少期の教育システムであった。幼いときから規律訓練され、生政治の規範を身につける。これにより以前のように大人になってから、強制的、暴力的な訓練は必要でなくなる。

産業革命から2百年、教育機関の発達は、幼少から規律訓練された子供が親となり、自らの子を訓練する時代に入っている。彼らはみずからの子供の教育にも熱心である。子づくりにおいて明るい家族計画により人数を抑え、一人当たりの教育の質を高めている。そして義務教育の前に自主的に教育をおこなう。これらは生政治の成功であり、規律訓練権力がいかに社会の深部へと入り込んでいるかしめしている。

再々度いおう。規律訓練権力を画一的なイメージでとらえてはいけない。親は決して従順で画一的に子供を教育しようとしているわけではない。彼らなりの身につけた規範により、社会的に、すなわち経済的に貢献するよう、成功するよう考えているのだ。

そして生政治はそのはじめから「神の見えざる手」を信じ、個人が自由に活動することを目指している。それが国力につながる。そしてみなが自由であるためには無法地帯ではいけない。みなが高度に規律訓練されている必要があるのだ。

たとえば高度な資本主義社会では人びとは必要以上に人に関わらないという、儀礼的無関心が一般化されている。これはものすごく高度な教育を受けた、高い規律性を持たなければできない秩序である。あるいは「空気を読む」という秩序も同様に高度な規律性があって可能になる。このような高度な規律性をもった社会であるから、みな好きなように自由でいられるのである。だから現代の教育の一番の規範は「誰にも可能性はある。自由に夢をもて」なのである。
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