なぜ牧羊犬はあんなに楽しそうなのか

pikarrr2008-10-14


牧羊犬と規律訓練


シープドック(牧羊犬)の「仕事」はほんとにあざやかですね。主人の命令に従いつつ機敏に走り回り、羊の群れを見事に誘導していく。さらによいのが犬が楽しそうです。いきいきと仕事をこなしている。もしこの牧羊犬を解雇したらノイローゼ?になってしまうのではないでしょうか。

このような技術を身につけさせる訓練は子犬のときからはじめなければなりません。まず羊を追うことを繰り返し覚えさせます。先天性な習性として羊を追いかけるのではないからです。そこから成犬になるまで繰り返し繰り返し訓練をおこない、より高度な技術を教え込む

動物の訓練は鞭による強制という古いイメージがありますが、そのようなものではなく、犬は群れをつくる動物なので縦関係を重視するなどの習性をしり、自然に技術が身につくような環境つくり、とにかくあせらず根気よく繰り返し訓練させることでしょ。ここにまさに規律訓練の本質があるのではないでしょうか。




もしも牧羊犬がしゃべったら・・・


犬を訓練するように人を訓練することはむずかしいでしょう。人は犬より高い知能をもつ。より具体的には言葉を扱うことができる。言葉を扱うとは環境を括弧入れにすることでメタ(言語)位置に立ちます。動物が環境にはめ込まれてしまうのに対して、人は自らがおかれている状況(コンテクスト)を俯瞰してみて、さらにコントクストを操作することができるということです。

「この牧場って規模として小さいほうなんだよな。あんまり儲かってないんだろう。主人はちゃんと家族養えてるのか。そういえば奥さんに愚痴られてたなあ。僕までやる気がないとこの人死んじゃうよ(笑)がんばってやるかな。」

ベイトソンの階層的学習論で示すと、動物が学習1のレベルまでしか学習できないのに、人は言葉を持つことで学習3まで学習することができます。 ここには動物/人間の二元論があります。

ゼロ学習・・・遺伝子、あるいは機械プログラム。インプットに対して同一反復にアウトプットを出力する。学習で習得するものではない。

学習1・・・条件反射のように、あるコンテクストの中で入力に対する出力が学習される。ただコンテクスト事態は学習されない。

学習2・・・コンテクストを学習することで、コンテクストの認識(状況判断)が可能になる。

学習3・・・コンテクストの差異を知り、コンテクストの操作を学習する。

ここで「僕」という自意識は先にあるのではなく、環境を括弧入れにして操作するという、学習?、?によって、全体を俯瞰するメタ位置としてあらわれるのです。このようなメタ位置にたつ自意識をもつ人間を動物と同じように規律訓練することはやっかいです。

「なんでオレが羊追うの?やりたきゃおまえがやれよ。お金のため?もっと楽な仕事があるよ。僕はなんのために生まれてきたんだ?こんなことちんけな牧場で薄汚れた羊を一生追い増すために生まれてきたんじゃないんだよ。」




なぜ精神分析は動物/人間二元論なのか


ラカンメタ言語は存在しない」といいます。だからベイトソンの階層論を認めないでしょう。しかしラカンメタ言語が存在しない」ということでいいたかったことをベイトソンの階層論に無理矢理あてはめれば、言語をもってしまった人間にはゼロ学習、学習1は不可能な領域であり、学習3しかないということです。すなわち人間には階層は存在しない、ということです。ここで、ラカンベイトソンは反発しながらも動物/人間二元論という共犯関係にあるのです。

そしてこの共犯関係は二人が人の精神の病にたずさわる者という共通の根からきていると考えることができます。精神の病は人間の病であり、そこには根底に動物/人間の二元論を持つのです。

人間学である精神の病に関する言説が、動物/人間に境界を打ちたてることは、論理を超えた倫理なのです。それが現代において、精神分析のみが倫理を語れるといわれる理由であり、科学の台頭の中で科学の監視に最後の存在意義を見いだす哲学が精神分析に近接する理由です。




自然科学としての規律訓練権力


逆に言えば、現代は自然主義の時代であることを示しています。自然主義、進化論は宗教、哲学がささえてきた動物/人間二元論という倫理を解体しました。自然科学が社会を席巻したのです。いまでは逆に「人は一動物である」ことの方が倫理になっているほどです。「おごるな人間、たかたか一動物のくせに環境をわがものに破壊し尽くすとはなにごとぞ。」

規律訓練はベイトソンの階層的学習論ではどこに位置付けられるでしょうか。当然、動物の領域である学習1になるでしょう。牧羊犬のようにいかなくとも、より高度な技術によって人の身体を規律訓練することは可能です。なぜなら簡単にいえば人もまた動物だからです。

それはフーコーが近代の代表的な権力、生政治として生権力と規律訓練権力を上げたことにつながります。規律訓練権力は近代の自然科学の台頭ときりはなせないのです。規律訓練権力は人を動物のように訓練する自然科学を活用した技術なのです。

再度いえば、動物のように訓練するとは強制ではありません。はじめの牧羊犬を訓練するように動物としての習性をにあわせて、環境をつくり、楽しく、繰り返し学習し体に覚えさせる。そのさきにあるのは意欲、自信をもった社会への貢献です。
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