2ちゃねらーはなぜ気持ちが悪いのか

pikarrr2008-10-17


ブログは前近代的合戦、2ちゃんねるは近代戦争


ちゃねらーはいいたい放題、不作法などネットの荒らくれものというイメージで語られる。しかし2ちゃねらーの気持ち悪さはむしろその逆のところにあるのではないだろうか。2ちゃんねるはコミュニケーションのるつぼである。人類史上これほど不特定多数の人びとでコミュニケーションが行われたことはなかっただろう。このような場はネット上で2ちゃんねるだけとはいわないが、2ちゃんねるがネット上でも特殊な場であることにはかわりがない。

ホームページ、ブログ、パーソナルな掲示板では、参加者は参加者としての連続性をもつことで、ここに自らが表現される。そこでの議論はいわば近代以前の「合戦」である。かつての合戦では、「我こそは〜だ」と戦う前に名を名乗りあい、自らを誇示するとともに、相手が何者であるかをしる。

それに比べると、2ちゃんねるは近代の「戦争」のようだ。無名の人々が相手を何ものかもしらずに戦いあう。それは単に2ちゃんねるには人が多いが集まるということではなく、パーソナルなコミュニケーション場での閉塞を打ち破るような技術が導入されたことによる。

連続性を持つ場合には合戦において、容易に逃げることができない。その場で逃げられても、逃げた者として汚名がついて回るだから安易に議論へ参加することができない。それに比べて、匿名性では何者であるかという拘束を受けない。このために気になる話題に参加し、仮に合戦になりめんどうになればささと降りればよい。すぐに参加し直しても、そこに連続性はない。




失われる相手への興味


このような乗り降りの容易さは、コミュニケーションを活発化するだけでなく、コミュニケーションの質までも変えたといえるだろう。2ちゃんねるの活発なコミュニケーションという混沌では、ほんとにいろいろな人に遭遇する。日常では会わないだろう人びと、様々な年代、考え方の違う人、あるいは明らかに精神を病んでいる人などもごろごろいるだろう。その中で失われていくのが、相手がなに者であるかという興味である。発言している相手が何者であるかというパフォーマティブな意味は匿名の混沌の中で希薄になり、なにをいっているかというコンスタティブな意味が重要になる。

これを補完するのが2ちゃんねるのもう一つの技術である、興味にあわせた板分類/スレッド分類という興味の細分化である。どんなに混沌として見えようと、2ちゃんねるは一つの地図であり、板−スレッドと階層的に降りていくことで、目的地に到着する。

コンスタティブな意味が重要といっても、空気が読めずに、字面でしか意味が読み取れない真面目さということではない。近代的な戦争において戦う相手が誰であるかは、それほど重要ではないように、相手のパフォーマティブな意味がわかっていても、興味がわかないのだ。




ちゃねらー 情報の物象化


このような相手への興味が希薄化した2ちゃねらーは、パーソナルなコミュニケーションの場にいる「普通」の人々にとってはかなり不気味なものに写るだろう。パーソナルな場での、互いの存在を確認しあう行為はひとつの社交性である。ブログというマイホームの中で自らの存在を表現し、ブログ界隈で村社会を形成する。

2ちゃんねらーはそのようなパーソナルな場に突然あらわれ、相手が何者であるかということを越えて、コンスタティブな内容に切り込んでくる。たとえば2ちゃねらーがネットイナゴとして批判されているのは、単に集団でおそってくるということではなく、そこには相手とのパフォーマティブな交流が排除され、ただコンスタティブな内容にめがけて、土足で迫りくるからである。ちゃねらーの気持ち悪さは、どんなにふざけていようが相手に興味がもてないという無表情さに迫りくる不気味さにある。

しかしこのような傾向は2ちゃんねるに限ったものではないのかもしれない。商品が氾濫し、興味の対象が細分化される中で、現代人の関心は人ではなく物(商品)にむかっている。たとえばオタクの興味の対象は女性そのものでも、他のオタクではなく、物(商品)である。このような現象は物象化と呼ばれるが、ちゃねらーにみられるのは、人と人との関係が情報と情報の関係に変わるという「情報の物象化」とでもいえる現象かもしれない。これがもっともわかりやすいのが炎上だろう。それは嵐のように物(情報)の混乱である。
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