なぜ新自由主義は破綻したのか

pikarrr2008-11-19


自由は無法地帯ではない


当然なことですが、自由主義的な自由は無法地帯ではありません。何でもあり=無法地帯ではなく、「秩序ある自由」です。では秩序とはなにかといえば、自由主義は経済活動(資本主義)と深く関係していますすなわち経済活動の自由であり、そして自由な経済活動が経済発展を促進することを基本とした「秩序ある自由」です。

このような自由のための秩序は、市場という均衡を基本とするマクロな秩序を調整するような政策が進められます。これは計画経済によって市場を強く誘導するのではなく、市場で各人が「秩序ある自由」を実現できるような「環境」整備です。

様々な法整備あるいは政策が進められます。しかしより重要であるのはミクロレベルで人々を経済的な主体へと規律訓練することです。家庭での幼児教育から、学校、様々な社会生活の場において規律訓練が進められます。




自由のための規律訓練


たとえば中国では急激に市場経済への移行が進んだために、経済的な主体としての規律訓練が不十分な面があります。中国にデパートが出店したとき、商品が無造作に山積みにされていることから、多くの人々がお金を払わずに商品を持ち帰ってしまったという話があります。

これは簡単には万引きですがある意味で万引き以前です。そこに商品が持ち帰ることができる環境があるということでそれほどの悪意なく持ち帰る。いまでは中国のデパートでは商品購入の際には、レジに商品引換券をもっていき商品を渡されるような方法がとられています。

このようなことは中国におけるコピー製品の氾濫にもいえるでしょう。最近でも国営の遊園地で明らかにミッキーマウスドラえもんなどを模倣したキャラクターがいる、という問題がありました。彼らはどれほどそれが違法であることに自覚的でしょうか。

著作権は決して自然に身につくものではなく、教育する必要があります。著作権だけではなく、法律の執行の裏には必ずそれを支える社会的な規律訓練が必要です。法律による合法/違法という基準が当たり前とされるような教育が必要とされます。

このように経済的な主体とは、規律訓練によってつくられるものです。このような生権力は「強制」という形では現れません。このようなミクロな規律訓練権力はマクロな市場秩序と連動します。制約が少なく自由あるというように、環境の「調整」という間接的な影響によって伝播されます。




例外状態の決断者としての国家・政治家


カール・シュミット「主権者とは例外状態の決断者である」といいました。現代の例外状態とは国民の生存に関わるような非定常な緊急事態です。そして現代は例外状態への決断は、間接民主制による国民の権力が譲渡された国民の代表として国家が行うでしょう。しかし民主主義的な民意をまとめる時間はなく瞬時に英断しなければならない、あるいは詳細な運転技術によって、国家という自律的な意志によって決定は行われていきます。

不確実性とはマニュアルがなく、判断が必要で、その判断にリスクがともなう状況です。不確実性そのものは誰の日常にもあります。そして各自の規範的な調整・判断であり、あるいは法治国家としての裁判などで処理されますが、ある程度の大きさの不確実性には国家・政治家の領域になるでしょう。それはどのような法案を通すのか、あるいは税金をどのように使うかというようなレベルでも国民に関わる大きな不確実性への対応です。このような意味で、政治家とは、日々、大きな不確実性を対処し続ける人々だといえます。




新自由主義のパラドクス


最近、新自由主義「小さな政府」と言っていますが、これは国家の否定ではありません。新自由主義では、国家は保護主義のように経済活動そのものに深く干渉せず、経済活動が自由に行えるように社会環境を整備すること=社会本意政策を推進します。だから必ずしも国家の機能を弱めるということではありません。

しかしここに新自由主義のパラドクスがあるように思います。新自由主義が目標とする経済活動が自由に行えるように社会環境を整備するためには「秩序ある自由」が必要です。新自由主義的な「純粋競争」という崇高な理念を実現するには、今まで以上に高い環境管理が必要とされるでしょう。それに対して新自由主義は、あまりに自由を自然主義的に自由放任すれば自然に自由が生まれると、甘くもくろみすぎたのではないでしょうか。

現に新自由主義化を進むほどに政府への要望が強くなっているように思います。これは新自由主義格差社会を生みだし、下流の人々が政府へ泣きついているという以上に、自由そのものがとても高度は秩序の上でしか成り立たないために逆説的に「秩序ある自由」を支える社会的な環境整備への要求が増している、ということではないでしょうか。

ここにあるのは小さな政府の新自由主義の理念を実現するためには、それを支える大きな政府が必要になるというパラドクスです。そしてより高度な管理が求められているのに対して、自由放任してしまうことで、「秩序ある自由」ではなく無法地帯化してしまった。このために市場にリスキーな金融商品が無秩序にばらまかれ、その結果金融破綻のような形で現れているといえるのではないでしょうか。




無法地帯と贈与関係


さらに無法地帯での特性として、無法地帯のような不確実性が高い社会では、新自由主義的な純粋競争という崇高な理念はあまりにリスキーなものになります。それよりも人々が求めるのは「贈与交換」です。貨幣交換が交換相手と関係なく貨幣価値によってのみ交換が行われるのに対して、贈与交換とは貨幣価値以上に相手が何者か、味方か/敵かという信頼によって支えられた保守的な関係を重視します。

再度、シュミットの「主権者とは例外状態の決断者である」に戻れば、例外状態には決断する者へ主権という権力の集中が起こりやすいと、読むことができます。そして権力の回りには多くの贈与関係が生まれ、さらに権力集中が起こる。力のある者と信頼関係=贈与関係に結ぼうとする。その場で行われる貨幣交換ではなく、将来的な関係性を構築する贈与交換を重視する。

このように無法地帯では強者は強者と助けあい生き抜こうとします。そして弱者は排除されます。強者とは誰か。優位な立場にいる者、すでに金を持っている者、さらには実質的な例外状態の決断者として国家・政治家です。



自由の繊細さと力の政策(パワーポリティクス)


アメリカでの金融商品の拡販は政府の規制緩和が主導しました。ここに政府関係者と金融関連企業との共犯関係があったのではないでしょうか。これは彼らにあからさまな癒着関係があったということではなくとも、一つの強者たちの共犯集団として暗黙の繋がりがあったのではないでしょうか。

アメリカの市場政策と軍事政策は同じような力の政策(パワーポリティクス)があるということです。自由化・豊かさの名のもとに市場を無法地帯化し、力がものをいう場とした。民主化・治安の名のもとにイラクを無法地帯化し、力がものをいう場にした。確かにこのような強引な力の行使により、世界各地の社会的に抑圧されていた人々を自由、豊かにした面があることは否めないでしょうが。

そしてこのような力の政策では、優位な者達から排除された大量の弱者がいて極端な格差社会が生まれる。金融市場が破綻したあとでも、大量の公的資金の投入によって、弱者の犠牲の上に強者は助けられようとしている現実があります。

自由と平等、資本主義的にいえば純粋な貨幣交換、新自由主義では「純粋な競争」は、とても繊細です。「秩序ある自由」を実現するためには時間をかけた緻密な法令制度、規律訓練などの環境整備が必要です。新自由主義はあまりに性急に、強引にそして理念的に自由を求めすぎたのではないでしょうか。
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