なぜ新自由主義は破綻したのか その2

pikarrr2008-11-20



−−−−規律訓練と言っているような個人レベルの消費者教育というか家計のやりくりの教育は悪くないとは思う。ただ、自由と無法地帯をどう捉えているかにもよるだろうけど…。それに下記のようなちょっとした点も疑問に思う。

確かに強者は強者と助け合うという面もあるが、今回の公的資金の投入は破綻の連鎖によって、多くの企業が破綻することを防ぐためではないだろうか?多くの企業が破綻すれば、多くの失業者を生み出し、大きな社会不安になる。むしろ、多数の弱者を救済するために、公的資金は投入されたのではないだろうか?もちろん、今まで中小企業の倒産のような少数の弱者には救いの手は差し延べられなかったわけだけど。


今回の公的資金の投入がなければ、景気が悪くなり、もっと格差が広がったでしょう。しかしこの裏で、何百億円の年収をもらう金融経営者がいることが問題になっています。ここが強者のずるがしこさです。これは政府そのものをかえなければ、かわらない。だからオバマは当選しこのような格差の構造をかえることが求められているのでしょう。



−−−−投資とは何か。資本家の富を死蔵するのではなく、新しい事業に投資することによって、新事業によって今まで無かった便利さが生み出され、それが社会にとって有益になり、価値・利益を生み出して、新事業で働く労働者に給与がもたらされ、資本家にも配当がもたらされる。

ただし、新事業だけに失敗するリスクもあるが、失敗した場合の被害は資本家の資本金に限られる。また、倒産は社会に不必要・不適合な事業であったからで、労働者は社会が必要とする事業に再就職することになる。投資における自由とは、リスクを含んだ新しいことへの挑戦・社会の進歩への貢献であり、そのリスクは資本家の資本金のみに回収されるという、リスクが社会に大きな破壊をもたらさないようにする仕組みだと思う。

今回の米国の金融危機は、米国に投資資金が集まったものの、利益を生み出せる事業が無かったことが問題だと思う。そこでサブプライムローンのようなリスクの高い金融商品を生み出さざるをえず、それが金融危機の原因のひとつになった。つまり、サブプライムローンだけの問題ではなくて、米国に投資資金が集まっても利益を生み出せないという構造に問題がある。米国の舵取りとしては、サブプライムローン以上に利益を生み出せる事業を開発するか、あるいは、投資資金を集めるのを止めるかだと思う。投資資金を集めるのを止めると、仕事が無くなり、生活水準を一挙に下げることになる。たぶん、今のところ後者しか現実的な選択肢はないのではないか。そうなれば、貧しい者はより貧しくなる。生きられないほどに。


基本的に貨幣は差異に価値を生みます。海のものを山で売り、山のものを海で売るという商人が基本です。これは資本主義で剰余価値と予防が同じです。そしてこの差異をまたぐことにリスクがともない、競争が生まれます。そしてこのリスクは誰にとっても平等でなければならない(リスクを平等であるとはいかなることかという議論はありますが。)でなければ自由な競争はなりたちません。

たとえば政治家の汚職はこのリスクに生まれるわけです。政治家はリスクの場に権力をもちます。有用な情報をもつ、あるいは国家権力によってリスクを操作できる。企業はリスクを有利なするために政治家に金を払う。

例外状態は大きなリスクの場です。だから例外状態には金が埋まっています。政治家はあからさまな賄賂目当てでなくても、政策的な信念であっても強者として振る舞い、まわりの者は贈与関係を求める。小さな個人と大企業が同じレベルでリスクに対峙することはありえない。

今回のアメリカの金融バブルはアメリカ政府の規制緩和政策に根をもちます。だからアメリカに金が集まり、さらにパワーを手に入れ、それをグローバルに行使した。金融商品のいい加減さがなりたったのも、後ろに政府がついている、最後は政府がなんとかするという強者たちの暗黙の了解があったと思います。彼らはいわばアメリカの政策とともにある先鋭というプライドさえあったかもしれません。

多くの国民は知らなくても、サブプライムローンなどの商品にリスクがあることは金融関係者は知っていた。しかし優遇されると信じていた。誰がリーマンブラザーズを政府が助けないと思ったでしょうか。政府と金融関係者の暗黙の贈与関係がくずれたとき、金融関係者はパニックになった。そして市場は破綻したのです。そこでも弱者はおいてきぼりです。



−−−−企業の倒産に対してはセイフティネットはないが、個人の失業には失業保険などのセイフティネットはある。必ずしも、制度的には個人が守られていないわけではない。ただし、企業はパワーポリティクス的に生き残る手立ては尽くしているとは思うし、企業本体が生き残るために理不尽なリストラもあるだろう。ただ、企業に仕事がないのに人材を死蔵するのは、企業にとっても社員にとっても不合理ではある。

おそらく、グリーンスパンはいずれ金融危機があるだろうと知っていて黙っていたと思いますまた、少数精鋭的なヘッジファンドのような身軽な証券会社も予測していたと思います。彼らは利益が出るうちにさっさと店を畳んで、今は長期休暇を楽しんでいると思います。ただ、店を畳めない大手証券会社は逃げ場がないので大火傷してしまったと思います。


たとえば法権力を考えると、すでに制定された法の維持と、まだ法がない領域への法の制定があります。法維持ではその法が平等であるかと議論されます。そしてここではその法がいかなるものか公開されていますから、それについて議論すればよい。

問題は法制定です。法はまだ明かではないのだから、それが平等であるか議論できません。ここに政治家の領域としての例外状態が現れます。最近は民間人を入れた審議会などが開かれますが、それでも密室性が増します。審議会に誰を加えるのか。たとえばアメリカでは政治の場への民間人の参加は一般的です。大統領が政府をつくる場合にはブレーンとして研究者、企業人などが参画します。そしてどのような人が選ばれるかで、その政府の方針が大きく変わります。

そして選ばれた人、すなわち権力を持った人は背景を持ちます。その後ろには思想であり、支援団体があり、社会的な位置づけを持っています。すなわちこれらの関係性が強者群として働くのです。


ボクはだから政治家は汚いと言っているわけではないのです。贈与関係は決して排除することはできない。それが賄賂などにつながれば犯罪でしょうが、自らの信条によってひいきするのは当然の行為でしょう。

しかしこのような贈与関係が経済学では多くにおいて排除されます。その意味でマルクス主義新自由主義は同じです。これらはある種の経済的な機械論(の欲望)と言ってもいい。そこには形而上学的な「純粋な分配」「純粋な競争」が見出されるのです。このような贈与関係の排除が逆説的に強者の優位性を隠す。

ボクは経験主義者なのでこのような合理主義的な過剰な理念に危険を感じます。たとえばソ連などで実現した国家社会主義において起こったことも、例外状態における権力の集中と贈与関係による肥大した強者権力が腐敗し、凶行にいたったということでしょう。共産主義の失敗はマルクス主義そのものの失敗ではないかもないが、マルクス主義が贈与関係を排除した、安易な平等を信じるお人好しな思想である限り、中央権力の腐敗は避けられないのではないでしょうか。



−−−−政府が大きかろうが小さかろうが不正は起きるから大差ない、でいいの?その文脈だと「小さな政府」である必然性の欠片もチンカスもなさそうなんだが。


大きい、小さいという議論はあまり意味がないと思います。そして贈与関係が必然である以上、贈収賄は避けられない。むしろどの程度までが犯罪なのか、という問題といえます。たとえば企業から政党への献金はどこまでが正当で、どこからが不正なのか。そしてそれは誰が決めるのか。

贈与関係は避けられない。格差間の「闘争」も避けられない。これは競争ではなく闘争です。競争とはたとえば経済上の自由で平等な競い合いです。しかし闘争にはルールはありません。秩序が制定される前に例外状態における競い合い、すなわち経済ではなく、政治の領域です。そこでは贈与関係がとても重要です。このような状況を生きていることを認めることから始まるのではないでしょうか。

ボクは経済的な保守主義なので自由主義の経済的な「秩序ある自由」は指示します。だから小泉構造改革も必要です。今回の新自由主義の失敗がケインズ的な保護主義に戻ると言うことではないと思います。

ただ新自由主義のような性急ではなく、時間をかけて、社会的な整備を行いながら進める必要がある。やはりなるべく自由で平等な、すなわち「リベラルな闘争」を目指すべきでしょう。そしてやはり「秩序ある自由」を目指すほどに国家は重要になると思います。
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*1:本内容は2ちゃんねる哲学板「東浩紀スレッド212」http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1226946324/からの抜粋です。内容は一部修正しています。

*2:画像元 http://www.fxneet.com/news/1-14.php