コンベンションと統治技術(全体)

pikarrr2008-12-04

1 統治技術とコンベンション(なぜ人々を集めるところにコンベンション(黙契)は生まれるのか)
2 民主主義とコンベンション(なぜ自由と平等は病なのか)
3 資本主義経済とコンベンション(なぜ「ブランド」を求めるのか) 
4 情報社会とコンベンション(なぜネットは自由主義に充足するのか)
 

コンベンションは二つの点が重要である。想像的な関係と(社会、自然)環境訓練。簡単に言えば、人は自然および社会環境へ適応するために他者を真似ながら、体で覚えていく(訓練する)ことで社会秩序に埋め込まれていく。社会秩序は他者という引力において人を引きつけつつ、環境への適応を訓練して埋め込んでいく。人は全体を知るわけではないが、それぞれが信頼に基づいた習慣を行為することで、全体としての秩序が現れる。このようなコンベンションはどのような集団においても秩序の基盤となる。だから統治はコンベンションをめぐって行われる。




1 統治技術とコンベンション


1)コンベンション 贈与交換と「シニフィアンの規則性」

人々を集めるところに集団的秩序、コンベンション(黙契)が生まれる。それは環境圧が高いほど助け合いが必要であるからだ。助け合いは贈与交換として生まれる。困った人を助けること。そこに助けてもらったからその貸しを返さなければと負債感を与える。ここに負債(引け目)の連鎖がうまれる。ある貸し借りという交換が継続した絆、信頼関係として延滞されつづける。

貸し借りという交換であるということはそこにゼロがある。負債感の基準としての公平感である。これは時間的、量的に漠然とした質的なものである。階級社会であっても忠誠や尊敬によって公平感が十分維持される。

贈与交換の連鎖は反復されることで慣習化し、象徴秩序になる。このような反復は外部からの純粋略奪/贈与が反復性をもつからだ。農耕を中心にする場合には自然環境ももつ四季という反復性の中で生きることになる。作付け、収穫など人手が必要な時期では交代に助け合う。

象徴秩序ではそこに暗黙の掟(規範)がある。そして公平感が埋め込まれている。人々は秩序全体を内面化しているわけではないし、さらに暗黙の掟(規範)に従おうとしたり、公平感を満たそうとするわけでもないひとりひとりただ毎日行うこと、習慣を反復するだけである。

これは構造主義的な象徴秩序の特徴である。秩序はシニフィアンの規則性」に従うだけであって、シニフィエ(意味)は関係しない。ここでいうシニフィアンは言語であるかどうかではなく、意味(シニフィエ)なき法則性を表す。象徴秩序の掟はなぜそうであるのか、ではなく、規則性としてある。



2)主権者の登場 ゼロ記号と法権力

このようなコンベンショナルな象徴秩序はなぜそうするのかと突き詰めていくと一つの消失点に行き着く。そして逆に消失点は象徴秩序全体のつり上げ点となる。簡単にいえば、なぜ掟を守らなければならないのかと問い続ければ、最後に神をおかなければならない。神がなければ、象徴秩序は破綻する。

なぜ掟を守らなければならないのかという懐疑はそれぞれの人々の習慣の中では現れない。人々はただ行っているだけである。このような懐疑が持ち上がるのは、象徴秩序の境界においてである。習慣によって対処できないような非常事態において、問題になる。どのような社会においても例外状態は訪れる。象徴秩序への外部の侵入である。外部とは予測されない自然環境の変化であり、敵の来襲である。

構造主義的には消失点とはゼロ記号(超越論的シニフィアン)であり、神が現れる。そして例外状態において実際に神の代理として決定する者が求められる。ここにシュミットの「主権者とは例外状態において決定する者である」というテーゼが現れる。

贈与交換を基本とするコンベンションは、負債の交換という身近な者たちを中心にするために力のおよぶ範囲に限界がある。だから人口の増加は多数のコンベンションを生むことになる。このようなコンベンション間も慣習化によって象徴秩序として有効な関係を維持することが可能であるが、多くにおいてコンベンション間には戦争が生まれる。

戦争の反復によって勝者は敗者を取り込み集団は大きくなるが、大きな集団はコンベンションによってのみで秩序をもたらすことは困難になる。その他の装置が必要になる。戦争は例外状態であり、主権者を求める。そしてコンベンション間の戦争の反復は必然的に決定者としての主権者を強化する。



3)規律訓練権力と貨幣交換

強力な主権者が大きな集団を統治する方法は、主権者が執行する法権力であり、それを遂行するための暴力である。しかし大きな集団においても、法権力や暴力はあくまでも補助的なものでしかない。人々は日常を法や暴力を意識して生きるわけではない。身近な贈与交換を基本とするコンベンションによる地域コミュニティを中心に生活をする。すなわち秩序の中心はコンベンションであることにはかわりがない。

ただコンベンションもまた変容する。象徴秩序としてのシニフィアンの規則性」は村社会の中で生まれながらに自然に身につくだけではなく、大きな集団に適用した形へと変容する。
権力も日常レベルでシニフィアンの規則性」へと組み入れられて習慣として人々へ浸透していく。そして大きな集団におけるあらたなシニフィアンの規則性」はより積極的に規律訓練権力として教育されていく。

その中で重要であるのが貨幣交換である。生活の中で食料・日用品を手に入れることは生存に直結する差し迫った問題である。大きな集団においてもコンベンションが維持されていれば贈与交換は有効であるが、都市のように物理的に様々なコンベンションに帰属する人々が流動的に集まり生活する場ではあらたな交換様式が求められる。

それが貨幣交換である。貨幣交換の大きな特徴は贈与交換のように相手を選ばないということである。貨幣を持っていれば、はじめてあった人でも商品と交換する。そのかわりに知らない人と交換することは略奪の危険がつきまとう。それは人を騙そうという貨幣交換を理解した上での略奪だけではない。贈与交換社会に生きる人々は私的所有の感覚さえ希薄であり、ある商品がどのぐらいの貨幣価値と等価であるのかを短期間で交渉する等価交換は慣れない高度な行為である。

貨幣交換が主に都市の市場(いちば)のように、大きな集団の統治下で行われたのはそのためだろう。貨幣交換が社会に広く浸透するのは、国家が生まれて、社会全体の都市化が進んでからのことである。

現代人には当たり前である貨幣交換システムであるが、貨幣交換もまた規律訓練によって身につけるものである。そして貨幣交換は新たなシニフィアンの規則性」の規律訓練化として行われている。自由主義的にいえば、人々はただシニフィアンの規則性」として貨幣交換を行うことで、市場は均衡という秩序を生み出すのだ。この市場の全体性は人々の外部性としてしかないのだ。



4)国家権力 習慣秩序から教育秩序へ

再度言えば、大きな集団でも集団の秩序(治安)は人々がシニフィアンの規則性」による習慣的秩序を基本とする。しかし村社会と異なり、コンベンション間の戦争の可能性から、シニフィアンの規則性」は規律訓練が重視される。すなわち法権力、市場制度という主権者の意図を組み込んだ教育が行われる。それでも治安の不安定である場合には、主権者による暴力的な行使が行われる。

絶対主義時代に、地域的な領主が国家への統一された背景で重要なことは、火気による強力な武器の発明と、市場の巨大化(貿易の活発化)があげられている。領主のまとめ役でしかなかった国王は、巨大化する暴力と経済力が取り込むことで、地域領主の権力を抑えて、絶対主義的な国家統治を可能にした。

そこでも重要であるのが規律訓練である。地域の民族的なコンベンションは弾圧されて、国民として教育される。それは知識として以上にシニフィアンの規則性」による習慣へと介入する。

国家は自国内統治すること、「内政」のみが重要であるわけではない。国家はそのはじめから国家間の均衡として発達した。暴力と経済力の均衡のために国家間の競争関係であり、貿易や武力協定など互いに均衡しながら力を増加させていく。そこにはじめて「欧州」という地域は生まれた。これからの均衡する力の向上ために、国民はあるときは基本的に労働者として経済力を高め、また時に軍隊として働く。そして国民は規律訓練によって均質化することで分業としてより巨大な力を生み出す。



5)民主制 平等・自由の不可能性

民主制において重視されるのが、自由、平等である。平等はコンベンションの贈与交換による公平感とは違う。公平感は主観的なものでしかない。地位の格差があってもコンベンションとして埋め込まれて、公平であると考えていれば公平なのであり、さらには贈与交換は時間的にはいつか返礼されるだろう延滞されることで、決して等価にはならないのである。等価になるだろうという信頼関係が公平感を支えている。

それに対して平等は客観的で短期な等しさを目指す契約である。平等が重要であるのはコンベンションの限界による。コンベンション群間の闘争を越えて、大きな集団において、上からの強制的な公平性として、平等は法権力として現れる。だから平等はそれぞれの個性や所有の差を排除するという暴力性をもつのである。

自由もまたコンベンションと対立する。コンベンションは個人を集団的な秩序へ埋め込む。しかし自由は自由勝手ではない。何らかの秩序の元での自由でしかない。自由が社会的に全面化するのは自由主義経済によってである。自由主義経済では活発な交換がめざされる。

貨幣交換にそれを支える秩序が必要とされるように、経済的な自由を支えるためには先に示したように国家による統治が不可欠である。しかしそれは無法地帯に陥らないためであるとともに、コンベンショナルな贈与交換を抑えるためである。

平等にしろ、自由にしろ実現するための障害は秩序なき無法地帯よりも、コンベンションとの対立である。コンベンションは集団の根源的な秩序である。コンベンションは平等も自由も目指さない。平等、自由はコンベンションを抑圧することでしか実現しない。



6)現代のコンベンションの透過

現代人は理念的には平等、自由の重要性はわかっているし、実行しているつもりであるが、実生活においてはコンベンショナルである。コンベンショナルとは身近なものを贔屓するだろうし、身近な習慣に埋め込まれることで、過剰な自由は歓迎しない。現代においても人々はコンベンションを社会秩序の基盤としているのだ。

コンベンションは雑草である。大災害が発生し、社会システムが機能不全に陥っても、コンベンションは作動する。そのときこそ人々は助け合うだろう。無法地帯では略奪が横行するだろうが、これはコンベンションと対立しない。略奪とはコンベンショナルな集団間の戦争である。ある略奪集団と治安維持集団との戦争である。

現代は法治国家である。しかし人々は法についてどれだけ知っているだろうか。窃盗罪、殺人罪。しかし人のものを盗んではいけない。人を殺してはいけない。は法である前に規範である。ボクたちは法をくわしくしらなくても社会の規範として守ることを訓練されている。それは社会環境であり、規律訓練として学び体で覚える。懸命に守ろうとしなくてもすでに守っている。

貨幣交換も同様である。現代では法権力、市場は規律訓練と環境設計としてコンベンションにつながるのだ。たとえば現代の贈与は貨幣交換を通して行われる。貨幣商品交換は原理的な等価交換などではない。現代で消費するとは、買ってくださいに対する、買ってあげること。擬似的なコンベンションへの帰属である。ボードリヤールが示した記号消費とはあるコンベンションへ帰属するためのチケットである。これはマルクスと物象化にもつながる。人の関係が商品の関係にかわる。

あるいはナショナリズム、さらには企業への忠誠心などとして働く。しかしこのような法、市場というとのコンベンションは弱まるとともに広域に浸透している。

だからコンベンションを無視して、平等・自由を重視しすぎることは、身近な人間関係を分断し危険でさえある。たとえば最近の新自由主義格差社会では、コンベンションを越えて自由を重視してしまったために悲惨な格差を生み出した。格差はいつも時代もあるが、新自由主義の格差が悲惨であるのは、人々が経済的な自由を重視することで、コンベンションが分断されて孤立してしまったことによる。いつも格差は贈与関係という貧しい者同士の助けあい、「貧しいながらも楽しい我が家」として緩和されてきた。

しかしコンベンションを無視する言説の本当の危険性は、むしろ勝ち組は助けあい(コンベンション)によって、弱者を排除することで、富を独占してきていることによる。国家社会主義においても、コンベンションを越えて平等を重視したが、そこで起こったことは、勝者のたすけあい(コンベンション)による権力の独占である。

社会主義にしろ、新自由主義しろ、これは原理的な間違いではない。うまくシステムが作動しなかっただけである。平等が徹底されれば、自由が徹底されれば、きっとうまくいく、というのがいいわけであるが、ここで忘れられているのが、集団秩序におけるコンベンションの根源性である。



2 民主主義とコンベンション


1)コンベンション(慣習)から言語世界へ

近代化とはなにか。歴史学の大きな謎の一つであるが、教科書的には人文主義という人間への自覚に始まると言われる。これを説明するのに社会の都市化がある。都市は様々なコンベンションが交差する地点である。そこに村社会のコンベンション(慣習)への埋め込まれからの「気付き」だろう。

身体が埋め込まれた環境から言語世界への移住である。身体に刻まれたコンベンション(慣習)は簡単にかわらない。それに対して言葉はいくらでも好きに語れる。身体は嘘をつけないが言葉は簡単に嘘をける。都市という流動性の高い環境では言葉のもつ操作の容易さが重要になる。

近代化とは都市化であり、そしてなによりも言葉の時代である。主権者はいままで以上に法を語り、商品という言語記号が飛びかう。土地、労働は商品(言語)化される。

そしてデカルトのコギトは都市に生まれる。デカルトの懐疑とは言葉の世界ではじめて可能になる。言葉は嘘をいう。だから言葉を疑う。最後に残るのが「疑う私(コギト)」である。すぐに嘘をつき、操作される言葉世界においての基点である。その後、コギトを中心に言語世界は設計されることになる。



2)自由・平等という「気づき」

近代において人は地域的なコンベンションの「囚われ」から救い出された。その力が自由と平等である。これが一般的な歴史学であるが、しかしまた逆にも考えられるだろう。地域的なコンベンションから人々をひっぱがすために自由と平等が語られた。

コンベンションは贈与交換的な質的な公平感を基本にする。外から見て、上下、格差の関係であっても、当事者がその環境に充足していればそれは公平は状態である。しかしこれもまた正しい表現ではない。充足は、当事者という主体の自立でも、二者間の関係でもなく、社会および自然環境への身体の埋め込みという慣習的なものである。そこでは自らの「気づき」が不十分であり、懐疑が生まれにくい。

だから「公平感」と呼ぶのは正しくない。それは言葉であり、主体的であるからだ。それに対して、自由と平等は目覚めであり、「気付き」であり、言葉である。主観的な公平感から客観的な自由と平等の前に「気付き」という言語世界へ移動が必要になる。



3)流動性を生きるコギト

様々なコンベンションが集う都市には新たな統治が必要になるが、コンベンション群のコミュニケーションは、言語世界においてコギトという主体たちを公平に配置するか、ということだろう。ホッブズにしろ近代の社会設計は、主体的な理性を基本として、自由というイデオロギー(言葉設計)によって統治するか、平等というイデオロギー(言葉設計)によって統治するのか、である。

しかし人々の生活はコンベンションとして形成されている。親族であり、地域コミュニティであり、職業集団であり、そこにはコンベンション(慣習)がある。そして言葉と慣習(身体)の時間差が問題になる。コンベンションを操作するために規律訓練という時間をかけた環境設計とそれに適応する人材教育が必要である。その間にも法は容易に変更されていき、さらには市場(商品交換)の変化は急激である。そこに多くの歪みが生じるだろう。、

そこで必要であるが治安としての暴力である。しかしより重要であるのがコギトだろう。言葉の世界に自らの担保しておくこと。都市化し社会環境の流動性が増すなかで、基点としてのコギトをおくこと。理性的な主体であること。

そしてコギトは現代においてこそ有用である。近代化が都市化であり、言葉の時代であるとすれば、より流動性が増したグローバルな現代はさらには言葉に溢れる。もはや理性的な主体ではありえない。デカルトから300年後、世界都市ウィーンでフロイトがコギトを(神経)病と呼んだ。現代は、言葉過剰、精神分析的主体の時代である。逆にいえば、それでもコギトは求められる。



4)自由と平等という病

自由の重視は資本主義にむかう。資本主義では合理性の追求(言語による世界の構築)はミクロレベルで働く。たとえばウェーバーよって自由であるはずが目的合理性によって生きる「意味の消失」が起こる問題が指摘された。しかし正確には意味が消失しのたではない。言語世界へ移住することそのものがそこに当然言語意味があるように見せるが、そのはじめから意味などないのである。そして意味を過剰に求めることがそこに「ないことである意味」否定神学的な消失点を生み出す。ここに資本主義の終わりない消費の過剰が継続される。

たとえば平等の過剰は全体主義国家社会主義にむかう。全体主義の全体的な合理性の追求(言語による世界の構築)は極点において、ユダヤ人(迫害)を生み出した。このような否定神学的な消失点がなければ、合理的な言葉の世界は成り立たない。



5)独裁と独占

しかし自由・平等の過剰の本質は言語の過剰だけではない。いかに言語設計をめざそうがコンベンションは排除されないということだ。自由・平等という理想をめざすほどにコンベンションに捕らえられる。国家社会主義において問題は権力の独裁化にあった。いかに平等な社会設計をめざそうが、権力の集中とともに強者のコンベンション、贈与の集中=独裁を生み出した。

あるいは経済的な自由放任とい競争社会は、自由主義的には自由で平等な競争ということになるが、富をもつ者が強者であり、強者のコンベンション、贈与の集中=独占を生み出す。そして弱者のコンベンションは物象化されることで自由の名のもとに孤立化する。



3 資本主義経済とコンベンション


1)「ブランド」というコンベンショナルな信頼関係

資本主義は経済学的な理念として完全競争をめざすことが求められるが、実際に企業が利益をえるためにはいかに完全競争を回避するか、いかに他社と差別化するかが重要になる。そのためには様々な方法が駆使される。技術、あるいはビジネスモデルを新規開発することに力を入れるのもそのためだろう。新たな有効性を開発すれば、他社がそこに追いつくまでの間、市場を独占することができる。

完全競争を回避するもっとも有効な方法は、買い手とコンベンショナルな継続した信頼関係を結ぶことである。それによってその買い手を独占できるからだ。それが「ブランド」戦略である。ここでいう「ブランド」戦略は俗に言う消費者にむけた商品ブランドのPRももちろんであるが、たとえば企業間の様々な取引も、一度限りの貨幣交換ではなく、継続したコンベンショナルな信頼関係へと継続することである。

ブランド名を批判する人たちは、ブランド名は消費者に本当は存在しない違いを認識させると主張する。多くの場合、一般品はブランド品とほとんど区別がつかない。ブランド名を批判する人たちは、消費者のブランド品への支払許容額が大きいのは、広告によって育成された非合理性の一形態であると主張する。・・・この議論から、ブランド名は経済にとってよくないものであると結論づけた。

より最近では、消費者に対して購入する財が高品質であることを保証する有益な方法として、経済学者はブランド名を支持してきた。これについて関連する議論が二つある。第1に、購入前には容易に品質を判断できないときに、ブランド名は消費者に品質についての情報を提供する。第2に、企業はブランド名の評判を維持することに金銭的な利害関係をもつので、ブランド名は企業に高品質を維持するインセンティブを与える。P511-512


「マンキュー経済学 ミクロ編」ISBN:4492313524) 第17章 独占的競争

経済学では、ブランド戦略は品質がよい商品をより安定して購入するための買い手にとって合理的な方法であるとして説明される。しかしこれでもブランドのコンベンショナルな関係を十分説明したとは言い難い。コンベンションな関係には、趣向、信頼、継続などの集団的な非合理性をもつ。

だからといって経済学的にブランド戦略は間違いであるということには意味はないコンベンションは決して排除できない社会基盤であるからだ。人々は合理的であるか、非合理的であるかとは関係なく、コンベンショナルな関係性にはめ込まれ、ただ毎日行うこと、習慣を反復する。なぜそのブランド品を買うのかと問われれば、その場では合理的な説明をするかもしれないが、実際は昨日も買ったから今日もまたそのブランド品を買うだろう。



2)「物象化されたコンベンション」

現代の貨幣交換に介入する贈与性を分析したものに、ボードリヤール「象徴交換と死」などがある。しかしこれはあまりに構造主義的である。すなわち死を強調する否定神学である。現代の消費のもつ欲望の過剰性をバタイユのいう消尽、フロイト死の欲動、すなわち純粋贈与へとつなげる。たしかに消費の過剰はこのような欲望論で語ることができるが、贈与交換はより日常の基盤、すなわちコンベンション(黙契)として当たり前にある。

マルクスは貨幣交換の非対称性を指摘した。古典経済学では貨幣−商品等価交換の場合、負債は一瞬で解消される。しかしマルクスが指摘したのは貨幣をもつ特別な位置である。貨幣は他の商品とは違い、なんとでも交換できるという特別な位置をしめている。

ここに「買ってあげる」という貨幣交換の贈与性がうまれる。消費者はいつも生産者に対して優位な位置をしめて「買ってあげる」のだ。広告は懸命に消費者へ媚びへつらう。そしてただ商品の優秀さを説明するよりも、「ブランド」を売り込む。そして消費の優越は過剰な消費を生む。

これはボードリヤールのいうような「死への欲動」ではなく、擬似的なコンベンショナルな信頼関係の継続をうむ。ある生産企業=「ブランド」を中心とする消費者たちのコンベンションであり、そのようなコンベンションへ帰属するためのチケットである。マルクスは、資本主義社会では人の関係が商品の関係にかわることを物象化と呼んだが、「物象化されたコンベンション」を形成する。



3)労働者と企業のコンベンション

労働についても同様な関係を見ることができる。労働者は企業に労働時間をうる。ここでは労働者は「買ってもらう」のであり、企業は労働時間を「買ってあげる」のである。だから労働市場は自由競争でなく、学歴、新卒中途、男女など、「ブランド」の格差関係にある。これは単に企業側の論理によるブルジョアジー/プロレタリアの対立によるものではなく、社会的な秩序(基準)としてある。労働者と企業は「物象化されたコンベンション」を形成している。

あるいは就職後も労働者が懸命に「自分の」企業のために働くのは、企業への労働時間を「買ってもらっている」という贈与的な負債であり、その継続からくる信頼関係としてのコンベンションがあるからだ。「企業(ブランド)文化」と言われるのはまさに「物象化されたコンベンション」だろう。



4 情報社会とコンベンション


1)ネット・コンベンション

近代以降の社会統治は、法権力、生権力(市場)を規律・訓練というコンベンショナルな通路を通して行使された。すなわち規範、貨幣交換を通して社会秩序は形成されてきた。

いま、それに対して新たなコンベンションが生まれている。情報網の発達による直接的なコミュニケーションの復活である。そしてこのような情報網の発達を爆発させたのがインターネットの登場である。オタク・ハッカーなどの文化的なコミュニティの形成として現れた。規範でも、貨幣交換でもなく、コミュニケーション(情報交換)によって自律的で創造な新たなコンベンション網による文化圏を形成している。



2)情報化による統治への影響

情報の発達はいままでの統治のあり方にも大きな影響を与えている。発信者の匿名性を広げ、法権力が行使されにくくしている。また情報の氾濫は法権力を伝達する規範のコンベンショナルな通路を混乱させる。

さらにこのようなコンベンショナルなコミュニティへの自覚は、社会への抗議活動として現れる。気に入らなければ炎上し、情報攻撃する。これはネット上だけの傾向ではなく、実際の政治へネット世論として影響を与え始めている。

同様に情報化は大企業を中心とした貨幣交換のコンベンショナルな通路を分断する。特にネット上では貨幣交換ではなく、贈与交換が中心である。人々が無償で情報を提供しあうことでコンベンショナルなコミュニティを形成している。さらにはネットの嫌儲と言われるように貨幣等価交換を排除する傾向がある。これはまさに商人を蔑視したかつての村社会そのものである。



3)ネット・コンベンションの限界

しかしこれらをいまの資本主義的な統治との対立として見ることは単純すぎるだろう。情報化による統治には様々な限界がある。もっとも大きな特徴が交換するのは情報のみであるということだ。だからネット上の贈与交換によって有用な情報が手に入っても、貨幣交換社会へ帰属し労働することからは逃れられない。また政治的な発言としての炎上は一過性になりやすく、社会を変革するような継続した運動にはなりにくい。

レッシグはネット上のアーキテクチャな管理権力への注意を呼びかけている。レッシグアーキテクチャ管理を問題視するのは、ネット環境が人為的につくられるためだ。環境を自在に設計し、人々を環境に埋め込んでいく。Googleのような巨大なシステム設計による管理社会が危惧されている。

しかしレッシグアーキテクチャ論はあまりに環境(アーキテクチャ)が重視しすぎている。環境はたえず環境とそれに順応する身体との関係である。そしてそれがコンベンションである。そもそもアーキテクチャからネットの爆発的普及を誰が予想できただろうか。ケータイのこのような普及の仕方を誰が予想しえただろう。

従来のコンベンションでは、環境を改良する労力から、身体が環境へあわせる、すなわち規律訓練が行われてきたが、情報社会では環境の改良が容易になることで環境側が身体へあわせる方が進んでいる。最近ならばWeb2.0という考え方である。コンベンションをいかに発展させる環境(アーキテクチャ)をつくるか。



4)貨幣交換コンベンションからネットコンベンションへ

このような環境重視のコンベンションは新たな現象だろうか。資本主義の「貨幣交換・コンベンション」は商品を買うこと、労働力を売ることにはたえず、贈与性が隠されている。特にマーケティング戦略によって消費者の身体をコンベンションへ組み込もうと懸命である。

たとえばウェーバーによって資本主義社会において豊かで自由になる中で目的合理性によって「意味の消失」が起こる問題が指摘された。しかし正確には問題は意味が消失したではなく、意味を過剰に求めることにある。意味を過剰に求めることがそこに「ないことである意味」を生み出す。すなわち合理性が否定神学的な消失点を生み出す。

ここに資本主義の終わりない消費の過剰が継続される。ネット・コンベンションで行われていることも、この欲望をそのまま継承している。貨幣交換の代わりにコミュニケーション(情報・交換)によって贈与交換が行われているだけである。



5)ネットは平等よりも自由をめざす

いままで資本主義的な統治方法、法権力、生権力(市場)が規律・訓練というコンベンショナルな通路を通して行使される。すなわち規範、貨幣交換を通して社会秩序を維持することに対して、ネットは対立するよりも加速させているとように思う。

ここで経済格差の問題が現れる。下流は努力しているが上がれないのか。経済という価値にこだわらず充足をめざしているのか。すなわち格差問題が単に経済的な問題には還元できない。人々の貨幣交換=労働・消費への興味の低下を無視できない。

それでも実際の経済はいまも貨幣交換=市場が支えている。ネットコンベンションは実社会の労働へ参加せずには自立しえない。そしてネットコンベンションに対して自由主義にかわる新たに統治方法が必要ということはない。誹謗中傷、著作権などの問題はあるが、ネットコンベンションは放牧される。

ネットが普及し始めた当初は、ネットコンベンションは、直接民主主義のような新たな民主制や、世界共和国のような新たな共和制を生み出す可能性が期待された。しかし現状をみると、ネットは平等(主権)よりも自由(経済)が重視されている。

もしあらたな統治方法を求めるとすれば資源環境問題だろう。無限につくりだされる情報より、限りある資源環境の分配において、新たな統治が求められる。
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