なぜ現代の最大のイデオロギーは「商品」なのか

pikarrr2008-12-19

お風呂に入ると行為への意識が飛ぶ


ボクはお風呂に入ると行為への意識が飛ぶことがある。お風呂は暖かくて血の巡りが良い、密室で集中できるなどあるからだろう。頭がよくまわる。いろいろ考えごとをしていて気がつくとお風呂から出ている。体を洗ったことは覚えているが、あれ隅々まで洗ったかな?と考える。考えとは別に行為が進められる。体の洗い方は毎日反復しているので自然と体が動くので、いちいち意識する必要がないのだ。

このようなことはそれほど珍しいことではない。たとえばいまPCのキーボードを叩いているが、いまS、次Aと意識などしていない。言葉にそって勝手に指が動いている。ボクはローマ字シフトであるが、これがひらがなシフトでの入力となると、キーボードを睨んで、「さ、さ、さ・・・あった!」と羽目になるだろう。意識はキー探しするためにフル活動で他のことには回らないだろう。

人が様々に行為するためにはいちいち意識せずに体が動かなければならない。歩く動作に意識が必要ならば、考えごとして歩けないし、人混みで人をよけることもできなくなるだろう。




意識は限られた貴重な資源


行為全体において、意識は限られた貴重な資源なのである。だからどこに意識を配置するか。それは注意である。もっとも注意すべきところに意識を配置し、残りは日頃訓練された身体行為に任せる。

たとえば野球選手がボールを打つとき、ボールを打つという行為全体の中でも、ボールそのものへ意識を集中する。このためにはとにかく、バットを打つ反復練習をひたすら繰り返し、体にたたき込む。

高速の行為において意識の役割は本当に小さいだろう。行為は考える前に行われている。意識するや考えるという脳を使うことは、負荷が大きくなおかつ情報処理が遅いであるからだ。




主は体、従は意識


意識、あるいは言語による思考というのは行為全体においては決して主役ではない。しかし人はなかなかこのことがわからない。それは当然である。意識しないことは意識しないからだ。意識には意識していることがほぼすべてである。だから行為のすべての手柄は意識に与えられる。

ここから廊下のむこうまで歩く。この行為は意識の手柄と思われる。しかし意識はどのように二本足で立ち、足を運んだのかなど知らない。意識はそこでおこなわれたほとんどのことをしらない。

それでも意識、思考が命令したから体が動いたと意識が主で体が従と錯覚する。これは先程のキーボードの例でもわかるように、いちいち命令を待って行為していては間に合わない。体は意識による命令の前にすでに動いている。多くにおいて意識は体をコントロールしているつもりでもあくまでガイドであり従なのだ。そして多くにおいて事後的にしか行われたことを知らない。




社会は「道具ゲーム」


このようなことか可能なのは身体行為が道具環境と密接に関係しているからだ。さきのお風呂の例でいえば体を洗うのはいつも定位置で、浴槽も洗い道具もいつもの位置に配置され、それに合わせて動作もきまっている。廊下を歩くなら廊下の床、壁、ドアなどの道具環境はどこも同じようなもので慣れたものである。

とくに現代ならとくに道具は規格化され、似たようなものである。これはコストにもかかわる。特別なものをつくるのはコストがかかるのです。すなわちこのような道具環境はひとつの社会性であり、日常の行為はいわば「道具ゲーム」である。社会的なルールのゲームをするように道具をつかう。ボクたちはこのようなゲームプレーヤーとして生まれたときから訓練されてきたのだ。

多少、場所がかわっても一から行為を訓練する必要はない。社会は似たようなものだ。外国にいけばはじめは戸惑うだろうが環境ベースはかわらないのですぐ慣れるだろう。




現代のイデオロギー「商品」に忍び込む


だから真の権力は意識に訴えるよりも、身体とその道具環境に働く。それがフーコーの言う生政治である。意識が主であると錯覚しているうちに道具環境まわりにイデオロギーを忍び込ませる。そして子供の頃から規律訓練させ慣れさせる。

現代の最大の道具環境イデオロギー「商品」だろう。「ものはすべて商品である」ということ。現代でこれを疑う人はそうそういない。そして社会は商品という環境をめぐって構造化される。社会は商品の経済活動を円滑に行うために、生産現場、流通網を発達させる。人は商品を買うためのお金を稼ぐために就職し労働行為をおこなう。そして人々は商品で生活を埋め尽くし、消耗すればまた買い換える。

たとえば商品は資本主義イデオロギーであるだから拒否ことはできるだろうか。確かにほんの少し前々まで多くの人は商品交換に頼らず自給自足していた。しかしいまから戻ることは不可能だろう。なぜなら自給自足は地域的なコミュニティの互酬性(贈与と返礼)の助け合いとしてなりたっていた。それもまた一つの社会的な「道具ゲーム」である。

しかしもはや「商品ゲーム」=貨幣交換は社会そして行為の隅々までしみ込んでいる。その中で独自のゲームを行うことは困難である。

資本主義社会では主体は解放され、自分たちは中世的な宗教的迷信から解放されていると信じており、おのれの利己的な関心にのみ導かれた合理的な功利主義者として他者と関係する。しかし、マルクスの分析の眼目は、主体ではなく、物(商品)それ自体がおのれの場所を信じている、という点である。つまり、信仰や迷信や形而上学による神秘化は、合理的で功利的な人格によって克服されたかのように見えるが、じつはすべて「物どうしの社会的関係」の中に具現化されているのである。人びとはもはや信仰をもっていないが、物それ自体が人間のために祈っているのだ。

これは同時に、ラカンの基本的な前提の一つでもあるように思われる。信仰(信念)は内的なものであり、認識は(外的な手続きによって確証しうるという意味で)外的なものだ、というのが一般的な定式であるが、むしろ、信仰こそ根本的に外的なものであり、人間の実用的・現実的な活動の中に具現化されているのだ。P55


イデオロギーの崇高な対象」 スラヴォイジジェク (ISBN:4309242332


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