コンベンション(自生的社会秩序)に関する13の考察

pikarrr2009-01-21

  1. 経済コンベンションがグローバル化を可能にした。
  2. 経済コンベンションは数字を共通語とする。
  3. 社会文化コンベンションはローカルでありグローバルには統一しえない。
  4. マルクス唯物史観は経済コンベンションについてである。
  5. 経済コンベンションのグローバル化には国家による整備が必要である。
  6. 保守主義の「コンベンション」とはすでに経済コンベンションである。
  7. 経済コンベンションは自由と平等に先行する。
  8. 政治はグローバルな経済的コンベンションとローカルな社会文化的コンベンションとを調整する。
  9. 政治思想の違いは経済コンベンションの基盤をどこに求めるのかの違いである。
  10. 自由を放任すれば権力の独占がおこる。
  11. コンベンション間の闘争はなくならない。
  12. 経済コンベンションは画一化、合理化による疎外を生み出す。
  13. 経済コンベンションの成功には貧困と環境破壊という外部が存在する。




1. 経済コンベンションがグローバル化を可能にした。


近代化とは「経済コンベンション」の拡散である。それ以前のコンベンションは、地域共同体に社会文化的、政治的、経済的に密着していたが、近代化において経済コンベンションが分離、浮上する。

大きくかわったのは、人口増加と強力な動力源の発明である。人口の増加はコンベンションを拡大するとともに、コンベンション間が交わる領域として都市を形成する。それとともに地域的に独自なコンベンション間の衝突が活発化する。このような闘争の中からコンベンションを統一するような主権者がうまれる。

このような統一において重要であるのは、社会文化的なコンベンションよりも、経済(環境)的なコンベンションである。文化という主観的なものを伝達し根付かせるよりも、環境という客観的、物理的なものを伝達し根付かせるほうが抵抗が少なく、容易であるからだ。さらに経済的な基盤の整備は中央への資金の集中を生み出し、絶対主義国家として統一していく。




2. 経済コンベンションは数字を共通語とする。


経済(環境)的なコンベンションにおける主な共通言語は数字である。数量情報は通常の言語情報に比べて、正確かつ高速な伝達を可能にする。これによって広域に共通の情報を拡散することに成功した。

近代に時間、長さなどの質的な価値を量化する数量化革命がおこる。これによって様々な事実は客観的な数量情報として伝達され、実験が帰納法的に反復され、科学技術を飛躍的に進歩させた。

あるいは様々なものは貨幣価値として換算されることで、商品となる。その中で重要なものが労働である。労働の数量化は分業を可能にして高い生産性を生み、産業革命へと繋がっていく。そしてまたたくまにグローバルな経済コンベンションを形成する。

近代化における、経済コンベンションの浮上は、新たな世界を生み出した。現代における民主的で物質的に豊かな世界を生み出した。




3. 社会文化コンベンションはローカルでありグローバルには統一しえない。


コンベンション(自生的社会秩序)の特徴として心理的な面と物理環境的な面がある。心理的な面とは贈与関係などのように相手が誰であるかに関係して働く内面的なものである。物理環境的な面とは社会環境によって歴史的に組み立てられ、ただそれに従うという外在的なものである。

心理的なものは他者との関係に人を引きつけコンベンションへ参入される力としてあり、外在的なものは一度コンベンションに参入するとただ従う習慣化した維持する力としてある。
ただしこれらは密接に結びつき、コンベンションは社会環境の中に埋め込まれることで物質性をもち維持される。

基本的にコンベンション(自生的秩序)はローカルなものであり、それぞれに地域に特有なコンベンショナルな文化を形成してきた。ローカルであった理由としては、相手が誰であるかという心理的なものには人の認知限界があり人員が増えすぎると引力を保つことが困難となる。また統一した社会環境を広範囲に作り替えるだけの労働力がない。

この中でもとく、社会文化的なコンベンションは地域の人々の内面に根ざしたものであり、無理に統一しようとするとことはアイデンティティを賭けた闘争にいたる。実際に文化社会コンベンションが衝突する宗教・民族・地域間の闘争はいまも繰り返されているが、統一することは不可能で、一時停戦による解決しかない。

それに対して経済コンベンションは数量化という客観的で、伝達されやすい価値基準をもち、イデオロギーとしてではなく、身体と含めた物理的な社会環境整備によって広まるために、近代化の中で地域の社会文化的なコンベンションとの衝突が少なく、グローバルに広まることが可能であった。




4. マルクス唯物史観は経済コンベンションについてである。


経済コンベンションの先行に、マルクス唯物史観を重ねることができるだろう。市場がグローバルに展開しえているのは、その思想が高度な言語思想ではなく、外在化しやすい貨幣などの数量を共通言語として経済コンベンションを基礎としているためである。

ウェーバーなど様々に批判されているように、社会を変えるのは経済とは限らない。文化、思想などによっても社会は変化する。しかしマルクスが下部構造としての経済を指摘するときには、グローバルな視点にたっているのであって、グローバルにおいては経済コンベンションが共有の基盤として働いているのである。




5. 経済コンベンションのグローバル化には国家による整備が必要である。


経済的コンベンションはただ「自由」に放置すれば広まるものではない。近代化においては、国家を単位に様々な法、制度の構築、また地域コンベンションに埋め込まれた人々への規律訓練などの整備によって可能になった。たとえば人々を個人単位へと還元し、理性的な主体を目指す啓蒙主義もその一つといえる。

このように国家としての領土を「耕す」ことで経済的コンベンションは整備される。これは、強いイデオロギー教育と言うよりも、地域環境整備である。数量化により環境を整備することでそこで暮らす人々が経済的コンベンションを学び規範として行動するようになる。

地域の社会文化コンベンションを排除すると大きな抵抗にあう。このために地域コンベンションの経済様式へ働きかける。多くにおいて近代前の経済様式は贈与交換を基本としているので、それにかわって貨幣交換の環境を整える。すなわち市場の一部として取り込む。これによって結果的に社会文化コンベンションも変容していく。この方法は現代のグローバリズムは世界の未開地を開拓する方法である。




6. 保守主義「コンベンション」とはすでに経済コンベンションである。

 
古典自由主義は、ヒューム、アダム・スミスなどの保守主義として「コンベンション」が重視された。しかし保守主義「コンベンション」とはすでにグローバル化した国家間の経済競争のための「経済的コンベンション」が前提とされている。

すでにローカルな社会文化的コンベンションが国家によって整流されていることで、自由主義的な「神の見えざる手」=自生的経済秩序は作動する。このような古典自由(保守)主義は、グローバルな国家間の富国強兵競争として始まった。

ある程度の国家による経済コンベンションの整備が進むと、それは強制的なものとして認知されはじめる。




7. 経済コンベンションは自由と平等に先行する。


グローバルに経済コンベンションが広まる中で、地域文化コミュニティは、自由と平等を阻害する封建的、閉鎖的なものとして排除される。

社会文化的コンベンションが相手が誰であるかという近接の社会関係によって保たれるに対して、自由・平等は地域性を排除し、グローバルに共有される個人という還元化された価値を目指す。その意味で近代化における自由・平等は「経済コンベンション」という整備された環境が前提としてある。

経済コンベンションそのものは厳密な自由と平等を目指さない。厳密な自由・平等を目指す共産主義自由至上主義は、先行する経済コンベンションのあとに事後的に登場した理念である。だから経済コンベンションにおいて、自由・平等は宣言的ものである。




8. 政治はグローバルな経済的コンベンションとローカルな社会文化的コンベンションとを調整する。


自由と平等が重要であり続けるのは、文化的コンベンションと経済的コンベンションをつなぐキーワードであるからだろう。経済的コンベンションの先行は疎外を生み出し、格差を生み出す。そして文化コンベンションとの軋轢を生み出す。自由と平等の宣言はそれを緩和する。それが国家を中心とした政治の領域である。

文化でも思想でもそれはあくまでローカルなものである。だからローカルにおいて、経済コンベンションと社会文化コンベンションには絶えず軋轢がうまれる。そして政治はグローバルな経済的コンベンションとローカルな社会文化的コンベンションとの調整として絶えず必要とされる。

より正確には、経済コンベンションを作動させるために生まれる社会文化コンベンションからの抵抗を調整するために政治(多くにおいて国家)は必要とされる。




9. 政治思想の違いは経済コンベンションの基盤をどこに求めるのかの違いである。


自由主義に限らず、民主主義にしろ、近代の政治思想は「経済コンベンション」の先行が前提とされている。それぞれのイデオロギーの違いはそのコンベンション自生的社会秩序)の基盤をどこに求めるのか、ということだ。

古典自由主義は自生的な社会秩序(コンベンション)を重要視したが、それはすでに国家化されたものであった。だから古典自由主義はまた保守主義であった。これに対して、共産主義の理念は対極にある。国家単位ではなく世界人民を考え、また自生的であるよりも、計画・管理的によって、経済コンベンションが維持される。

あるいは新自由主義は、小さな政府として国家管理を弱め自生的な秩序を重視する。それに対して、保護主義化は国家による計画・管理を重視する。








10. 自由を放任すれば権力の独占がおこる。


たとえば現代の新自由主義においてコンベンションの基盤は、古典自由主義よりも国家機能を弱めた人民による自生的経済秩序にもとめる。ここで忘れられているのは、自由は高い環境整備の上で成り立っているということだ。より高度に自由を目指すほどに高度な社会環境整備が必要になる。

仮にただ自由放任し、社会環境整備を怠れば、社会秩序は弱まる。社会秩序の弱体はホッブズのような個人間の闘争状態ではなく、よりコンベンションが強まる方向、コンベンションのもう一つの面である贈与関係の引力が雑草のように解き放たれて、局所的なコンベンションが乱立する闘争状態に向かう。

たとえば貨幣交換は身近な人と知らない人を区別しない。お金の前ではだれもが平等である、ということが経済コンベンションの前提である。しかし贈与関係に絡め取られると、交換において身近な人を優遇する。ここに権力関係が絡んでくる。

たとえば経済コンベンションが十分に整備されていない発展途上国や、共産主義国家の末期に近い状態だろう。一部の権力が身近なものを優遇し、贈収賄によって利権を独占する。そして自由な競争、基本的な平等は閉塞する。




11. コンベンション間の闘争はなくならない。


どのような社会においてもコンベンショナルな贈与関係の引力を完全に排除することはできない。だから国家単位であり、地域単位であり、社会文化コンベンションは働き、コンベンション間の闘争と格差は継続する。これは経済学が考えるような完全な純粋な競争ではなく、私利私欲によって自由と平等が排除され世界である。そしてそのような社会にも多かれ少なかれもつ特性だろう。

たとえば国際紛争や環境問題などのように国際的な調停が必要な場合にも、国連は十分な機能を果たしていない。現在、実質的な国家の上位機関は存在せず、国家間の問題は闘争(駆け引き)による解決しかない。経済コンベンションというグローバルに共通の言語を持ち得ていようが、いまも国家のような社会文化コンベンションの闘争状態に終わりがない。

たとえば今回の金融破綻を、ネオリベラルという世界的な新自由主義思想の破綻、経済的なコンベンションの危機とみるのは正しくない。アメリカの金融開放政策は、軍事政策と同様に、アメリカという国家が世界においてより影響力を行使するための戦略であった。アメリカは金融工学を駆使した開放政策によって、強引に世界経済をリードしようとしたのだ。ここにアメリカ国家、あるいは原理主義、産業界などの闘争(駆け引き)が働いている。

だから国家の上位の世界共和国が必要というのは短絡すぎるだろう。世界共和国ができれば、巨大な権力集中が生まれ、そこにまた社会文化的なコンベンショナルが巣くうことは避けられない。近代化が選んだことは、経済コンベンションをグローバルの基礎として、社会文化コンベンションは分散化し、闘争(駆け引き)に任せるということである。




12. 経済コンベンションは画一化、合理化による疎外を生み出す。


経済コンベンションの問題の一つは、画一化、合理化によって、様々な地域的、社会文化的なコンベンションが抑圧されことである。これは国家権力によって行われたので、近代化の初期には国家権力への対抗というのが重要な政治問題であった。しかし国家による経済コンベンションが整備され、人々が豊かさを享受する現在では、単純に国家が戦う相手ではなくなっている。

経済コンベンションによる画一化、合理化への対処も、経済的コンベンションによって行われている。多様な商品が溢れることで消費が画一化から多様化する。自分なりの商品選定によって疎外を回避しようというのが、消費社会による画一化への対処方法であった。それとともに、社会文化コンベンションは、以前の地域コミュニティに根ざしていたものから、消費の趣向に根ざした趣味コミュニティに向かっている。

これはまた、人々は社会関係を商品関係に代替させているという「物象化」として問題視されている。あるいは現代人は神経症という慢性的な欲望の想起と欠如に陥るというポストモダンな症候として表れている。




13. 経済コンベンションの成功には貧困と環境破壊という外部が存在する。


永久機関は存在しない、というのが物理学の原則である。いままでも様々な永久機関が発表されたが、そこには必ずエネルギーの補給する「隠された外部」が存在した。

経済コンベンションの全面化によって、民主的で物質的に豊かな世界を生み出したが、そこには同様な「外部」が隠されている。それは、発展途上国の安い労働力の搾取であり、環境破壊である。これらは経済原則の外部として排除されている。経済コンベンションの活性化は、これらが今後も供給され続けることを前提にしている。近代化に始まる経済コンベンションの全面化はこのような「隠された外部」なしに自律しえるのだろうか。

ヘーゲル、コジェーブ、フクヤマは現代を「歴史の終わり」と呼んだが、そもそも「歴史の始まり」は近代化の始まりである。だから歴史とは「経済コンベンション」の拡散でしかなく、あるとすれば、次の「歴史」へのシフトである。




今後の課題

・コンベンションにおける贈与関係のミクロ的分析
・投機と自由と贈与の関係
世界宗教はいかに可能なのか
・なぜ近代戦争はおこったのか
ナチスとはなにか
・権力の分散化、地域分権の可能性

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