生存様式としての資本主義

pikarrr2009-02-10


その1 資本主義は神を殺害した
その2 資本主義の魅力
その3 資本主義の権力構造
その4 生存の様式としての資本主義



その1 資本主義は神を殺害した


偶然性と予測可能性


いつも世界は偶然に満ちている。それは「時間が流れる」ということと同じ意味である。時間は流れ、次に何が起こるか決して予測することはできない。それが「偶然性」である。そして人はいつも偶然性という自然環境の気まぐれに生存をゆだねてきた。

偶然性を生き延びるために発達させたのが、助け合いと技術である。助け合うことで一人ではできないことを成し遂げる。そして技術によって身体以上の力を発揮する。これらは本質的には、偶然性に対して、予測可能性を高める行為である。助け合いと道具(技術)による知恵と力によって、偶然との間に予測可能性の防御壁を構築する。

たとえば自然の天候、気温がどのように急に変化しようと、住居を持つことで安定した生存状態が保証される。農耕を行うことで安定した食料確保が保証される。道をつくることで躓くことなく目的地へ高速に移動することが保証される。



神と贈与関係と技術


人々は目の前に偶然性という暗闇が広がっていることに耐えられない。だからこの世界は偶然などではなく、「誰か」が支配しており、環境変化には意味がある「誰か」からのメッセージであると考える。そこに「誰か」がいるならば、対話し(祈り)によって願いを叶えてもらえる可能性が生まれる。

これも一つの予測可能性であり、単なる妄想であるわけではない。たとえば贈与関係は神を中心に組織される。呪術的な供養は、神を自分たちの贈与関係に引き入れて仲間とするためにある。そして神からの贈与(自然の恵み)を分配する形で、助け合い(贈与関係)は掟をもって秩序を形成する。

また様々な技術は神と切り離して考えられない。星の運行は神との関係としてある。そして贈与関係を基本とした土着のコンベンションは神話によって世代を超えて伝承される。

たとえば封建的な階級制が発達しても、王は暴力によって人々を従えたわけではなく、神を中心とした贈与関係を継承しつつ、自らをもっとも神に近い者に位置づけ、人々からの贈与を集める。そしてその代わりに社会整備や外部からの攻撃を排除するなど、予測可能性を高めることで返礼を行った。



「膨大な商品集積」という予測可能性の防御壁


このような贈与関係による生存から、新たな予測可能性のあり方を示したが、資本主義である。

貨幣は貯蓄され、融資され、また投資されることで、時間、空間を越えて、そして増幅される。それによって人々は商品を購入し、生活を囲む。そして規格化され合理的に積み上げられた商品集積によって世界は一気にフォーマットされる。商品蓄積は予測可能性の防御壁となり、土着の贈与関係から離脱しても生活を保障する。

贈与関係が金融交換に代替されることで、贈与関係と技術と神の蜜月関係は破られる。神は死に、そして技術は金融の支援を受けて科学技術として発展する。



豊かさとは商品に囲まれつつ夢をもつこと


人々が金融交換へ魅了されたのは、新たな安心(予測可能性)が構築されただけではない。偶然性が「リスク」として現前化されつつ、さらには「チャンス」へとかわった。金融交換は、ただ貨幣等価交換するだけではなく、リスク(チャンス)によって、豊かさを増幅する可能性を与える。

豊かさとはまず偶然性を排除し、予測可能性を向上することであるが、資本主義ではさらにチャンス(成功可能性)として偶然性を呼び戻すことである。ただ物質的に豊かであるだけでなく夢をもつこと、それが資本主義の豊かさである。

贈与関係は、リスクを信頼関係で埋めることでチャンスを潰すのであり、いくら安定を実現したとしても、資本主義的には豊かではない。贈与関係は偶然性を押さえ込み、社会を永遠の神的サイクルに閉じこめようとするが、資本主義は偶然性を押さえ込みつつ、リスク(チャンス)として偶然性を呼び込み、社会に「時間を与える」


その2 資本主義の魅力


無時間な貨幣交換と長期信頼の贈与関係


一般的に交換には貨幣交換と贈与交換がある。貨幣交換は商品を見合ったお金と等価交換する。その場、その時に負債を残さない無時間な交換である。

それに対して、贈与交換は貸したものが時間をおいて返ってくる。それは等価交換ではなく借りたものよりも多めに返すのが儀礼と言われる。またいつ返礼するかも決まっていない。
そのような継続した関係が互いに信用を育み続ける。贈与交換は贈与可能な信頼関係の上に成り立ち、また贈与交換が継続することで長期的な信頼関係が継続させる。



贈与関係と貨幣交換の共存社会


貨幣交換が無時間な関係であるならば、贈与関係の代替にはなりえないだろう。贈与関係が長期的に社会関係を支えるのに対して、貨幣交換ではその場でその時にもつ貨幣によってしか関係を構築できない。それだけで生活を継続することは困難である。

市場(いちば)など、古くから貨幣交換自体はあるが、だからといって贈与関係をなくすことはできない。贈与関係によって長期的な信頼関係を構築しつつ、貨幣交換で必要な商品を手に入れる。これが長い間の人間社会にあり方だった。



交換とはお互いにメリットがあること


貨幣交換では、売り手が買い手に物を売ることで大きな利益をえようとも、買い手はほしかったものが手にはいることでメリットがある。売り手にも買い手にもメリットがある。

贈与交換では、貸し手Aが借り手Bに物を与えることで貸し手Aにデメリットとなる。しかし逆に貸し手Aが困ったったときに、借り手Bより返礼されるだろうという信頼関係が継続することで、長期的にみれば貸し手Aにもメリットがある。

すなわち貨幣交換にしろ、贈与交換にしろ、交換の基本はお互いにメリットがあることだ。どちらかに負債を残す交換は、贈与関係の通路を通って、長期的に復讐のような形で負債は支払われることになるだろう。



貨幣交換に潜むリスクとチャンス


商人の基本は、海で魚を安く買い山で高く売る。その差異で利益をえることである。ここでは商人は商品を右から左へ流しているだけで何も生み出していないように思われる。このために古くから商人は悪徳というようなイメージで語られてきた。

しかし海で安く魚を買ってもそれが山で高く売れる保証はどこにもない。そこにはリスクが伴う。そしてそのリスクに対するメリットとして利益がある。

売値=買値−デメリット(リスク)+メリット(利益)

実は、このリスクとリターンの関係は、貨幣交換そのものに潜むものである。商品交換の原初的場面をマルクス「命がけの飛躍」と呼んだ。ある商品とある商品を交換する場合には、はじめに等価を決定する価値基準は存在しない。どのような割合で交換を行うかは最初の「飛躍」にかかっている。

「飛躍」では、希望よりも少ないものしかえられないリスクと、多くのものをえられるチャンスがある。海で安く魚を買っても、それが山で売れないかもしれないが、高値で売れて大もうけするかもしれない。



贈与関係はリスクを解消しチャンスを潰す


貨幣交換と贈与関係が共存する社会では、「命がけの飛躍」が贈与関係によって打ち消される。先に信頼関係があることで、多少のメリット、デメリットは長期的な関係のなかで相殺される。今回は私が譲歩するから、次回は君が譲歩してくれよ。

逆に言えば、ここに貨幣交換と贈与関係の対立点がある。贈与交換は貨幣交換のリスクを軽減するが、またそれはチャンスを潰すことを意味する。



「金融交換」は貨幣交換を時間へと拡張する


貨幣交換でも無時間性を長期へと補完する方法がある。それが貸借、証券、為替などの「金融交換」である。金融交換は、原理的に無時間である貨幣交換を、空間、時間を越えて可能にする。

貸し借りの関係において、借り手は借りることでメリットがあるが、貸し手は返ってくるかどうかわからないというリスクがある。その上で貸した額しかかえってこなければ、貸し手にはリスクというデメリットしかない。そこに利息というメリットがつくことで、貸し手にもメリットが生まれ、お互いにメリットがある交換関係が成立する。

返済額=融資額−デメリット(リスク)+メリット(利息)

だから無利息で貸すのは、貨幣交換ではなく、贈与関係に位置するだろう。無利息では貸し手に生まれるリスクというデメリットのみが残る。交換として成立するためには、身内など信頼がおける人のような、長期的な贈与(信頼)関係によってしか相殺されない。

貨幣交換が金融交換として成立するには、時間を越えるリスクに対するリターンを必要とする。これによって金融交換は贈与関係という長期的な信頼関係に代替する可能性をもつ。



贈与関係から金融交換社会へ


しかし金融交換が貨幣交換を長期へと補完する機能があるということだけでは、贈与関係から貨幣交換社会へ移行したというのは困難だろう。長期的には土着の贈与関係に充足することの方が安心だろう。

全面的な移行の本質は貨幣交換がもつリスクとチャンスというギャンブル性にある。さらに決定的に重要であったのは、金融交換によってリスクとチャンスという「偶然性の裂け目」が巨大になったこと、それとともに偶然性がリスクとして取り出すことで金融技術として処理することが可能になったことだ。

13世紀以降の人口増加、都市化、技術進歩などの社会構造の変化の中で、金融交換のチャンスをいかしたブルジョアジーという新興者が生まれ、やがて国家をも動かす権力を手に入れたという事実が、人々を土着の贈与関係から離脱し、流動する金融交換社会へ向かわせた。

世界は一気に貨幣価値という数量化によって合理的にフォーマットされ、贈与関係による信頼は貨幣交換の関係に物象化された。そしてフォーマットの格子の間に開く「偶然性の裂け目」に人々は魅了され続ける。時にその裂け目は恐慌という牙をむきだし経済を破綻させるとしても。



その3 資本主義の権力構造


偶然性とリスク


偶然性とリスクは異なる。たとえば人類は絶えず宇宙からの隕石衝突による絶滅の「リスク」を持っている。いまのところ飛来する隕石をすべて監視することはできなし、仮に発見できても、対処する方法はどうするか、時間的に間に合うかという問題がある。

しかしあるとき、この宇宙が消えてしまう可能性については、考えているだろうか。そもそもそのような可能性があるのかさえ、わからない。リスクが予想された偶然性であるのに対して、偶然性とは、リスクの外のまだ予測されることのない偶然性を含む。100年たてば、宇宙が消えてしまうリスクが発見されるかもしれない。

偶然性は人の存在とは関係なく、いつもそこにあるが、リスクは人の予測技術と関係する。



リスクは誰にも平等にチャンスを与える


金融交換の基本は貨幣交換を空間的、時間的に延滞することにある。それによってそれまで社会を支えてきた贈与関係にかわった。

金融交換にはリスクというデメリットが生まれ、その対価であるリターンが生まれる。だから金融交換の基本は、以下になる。

返済額=融資・投資額−デメリット(リスク)+メリット(金利

ここにおいて重要な点は、リスクは誰にも平等に降りかかるということだ。すなわちチャンスは誰にも等しく訪れる。これこそが人々が資本主義に魅力させられる理由である。

太古から多くにおいて人々は偶然性を神的なものへと転倒させて回避してきた。それに対して、予想されたリスクは技術的にいかに管理するか、と対処される。

しかしそれでもリスクが神的な輝きとして転倒されることから逃れられないようだ。マルクスが貨幣の物神性(フェティシズム)というとき、それはまさにリスクの神的な転倒であり、そこに生まれるチャンスという夢(ファンタジー)に人々は魅了される。

確かに資本主義社会では、貨幣を資本化することで多くの人々が成功してきた。その事実が人々をさらに夢へ向かわせる。しかし人々が見ている夢は、お金を増幅させることではなく、「幸せ」になることである。大量のお金=幸せというこの短絡が資本主義が見せる夢そのものである。



元手が多い方がリスク管理は有利


リスクは本当に誰にも等しく訪れるのだろうか。まずリスク管理において、単純にそのように考えることは難しいだろう。リスクヘッジの基本は、同様な関係を並行して多くもつことで、いくつからの返済不履行のデメリットを、その他多くの回収のメリットで穴埋めし、トータルで利益を出すことである。あとは並行した契約をいかに組み合わせて全体のリスクを抑えるか、である。

このようなリスク管理技術の面から、資本は多い方が優位である。少ない元手では一度の失敗が立ち直れない大きな躓きになるが、元手が多ければ、リスクを分散できる。本質的にそのはじめから金利交換は資金に余裕がある金持ちが行うものである。

しかしこの場合にも、各単位に訪れるリスクは平等である。今回の恐慌のように市場全体が破綻すれば、リスクの分散は効果がない。そして元手が多い人ほど大きな負債を追うことになるだろう。



強者コミュニティの権力


しかしより本質的な問題は、リスクそのものの外にある。たとえばこのゲームの中で、資本を多く持つ強者には、ヘッジファンドのようなリスク管理のプロに任せられる、あるいは多くの有用な情報がまわってくるなど、自然と優位な立場に立てる可能性が高い。

多くの人は資本を多く持つ強者に近づき、おこぼれに預かりたいと思う。そこには強者の私的談合なコミュニティが生まれる。さらに決定的であるのは、ゲームのルールにはいつもグレイゾーンがあり、変化し続けている。そして強者のコミュニティが発揮する権力はルールが生まれるその現場へ働く。

たとえば政治家が政治資金パーティーから政治資金を集めることは贈収賄ではない。そこには正/不正の境界があり、政治資金規正法は政治家によって作られた。



金融交換とメタゲーム


弱者はゲームのルールの中で等しいリスクのもとに自由「競争」する。しかし強者はゲームのルールそのものを優位にすることを目指す。すなわち強者は、弱者ゲームに対してメタゲームを行うという、決定的に優位な立場にいる。先の隕石衝突による絶滅の「リスク」の例でいえば、隕石の軌道を操作する神の位置である。

強者が行っているのは、競争ではなく、「闘争」である。ルールをまもる、やぶるのではなく、ルール自体を有利に解釈する、作り替える。「主権者とは例外状態を決定する者である」というシュミットのテーゼに従えば、「闘争」とは主権者を争う権力闘争である。

いまでこそ金融交換では、自由化、公開性、公平性が重視されているが、資本主義の初期において、教会や国家などの旧来権力と結びついた強者コミュニティがいかに優位に闘争を進めたか、想像することは容易である。しかしこの闘争の本質は、いくら自由化、公開性、公平性を高めても、勝ち組がルールそのものへ介入することである。

そして強力な権力に参加し維持するには、長期的な信頼関係が継続させる贈与関係は切り離せない、と言う以上にまさに最終的な勝敗は贈与関係にかかっているといってもよい。


その4 生存の様式としての資本主義


資本と強者


強者は、弱者と同じゲームをして勝つわけではなく、そのゲーム自体を支配するメタゲームを目指す。これは資本主義の強者だけのことではなく、強者の法則と言える。資本主義社会においては、資本を多く持つことが、強者たちの「メタゲーム」への参加を可能にする。資本主義という段階において強者になるためには、より多くの資本を持つことが重要であるということだ。

このような資本中心の社会構造がかわったのは、思想や革命によってではなく、中世の人口増加、技術革新によって、社会に資金が溢れ、一部の人々に物質的な成功者、ブルジョアジーの登場によるだろう。資金の力は、それまでの封建的権力者であった貴族たちも解体していく。



生存の様式としての資本主義


より大局において、資本主義を権力関係としてよりも、生存の様式として考えると、従来の生存の様式は、偶然性への対処のために神を取り込んだ助け合い(贈与関係)の秩序を形成した。偶然性を神へと「転倒」することで人々の秩序への忠誠を高めた。社会秩序の流動性は低く、固定されていた。上流の固定は秩序を腐敗されるが、適度に偶然性(自然環境、戦争など)が侵入することで流動性が生まれた。

それに対して資本主義は、偶然性を(金融交換の)リスクとして管理する。当然、管理できるようなものではないのだが、偶然性をチャンスへと「転倒」することで人々の欲望を駆り立て、そして結果的に社会全体の生産性が底上げし、物質的に豊かな社会を生み出した。資本主義においても上流と下流という社会の格差構造があることにはかわらないが、資金の流れによって入れ替えの流動性を高めた。



リスクヘッジと危機


現代人は豊かさによって偶然性の危険から逃れられたのだろうか。そんなことはまったくないだろう。確かに食料品は貯えられ、身の回りの環境は管理され、セイフティーネットとしての社会制度があり、人々の寿命は飛躍的にのび、余暇を楽しむ余裕ができた。しかしいまも人が懸命に労働しているのは生きるためである。働かなければ豊かさは続かず、偶然性に捉えられてしまうことにはかわりはない。

ただこの偶然性は自然環境という外部からのものであるとともに、チャンスを求めて人々がリスクを生み出し続けることによる。たとえばサブプライムローンのように、リスクをヘッジするための技術が、リスクを増幅させて、世界に危機に陥れた。それでもリスクを開口しつづけることが、生存様式としての資本主義である。
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