なぜ産業資本主義は無限に利潤を生み出すのか フェルナン・ブローデル 「交換のはたらき」 その2 

pikarrr2009-02-20


1)ブローデルの資本主義史
2)資本主義の軽やかな移行
3)経済の階層構造(ヒエラルキー
4)ブローデルマルクス
5)資本は未開地(フロンティア)において権力をもつ
6)「巨大な機械群」と安全保障
7)資本主義と欲望
8)産業資本主義と利潤の無限化
9)技術が先か資本が先か




1)ブローデルの資本主義史


資本主義に関するフローデルの主張点は以下のようなものだろう。資本主義は産業革命後の「産業資本主義」として始まったのではない。その前段階として、商業資本主義、そして農業資本主義があった。

商業資本主義で需要であったのは、遠隔地交易であった。一部の大商人たちが大きな資本を獲得しえたのは、遠隔地交易における国家との密接な関係による独占と、植民地からの略奪に近い交易による。これらは為替手形で行われ、投機の発達が資本主義を可能にした。

農業は必ずしも有望な投資先とは言えないが、農地の囲い込みや、農民の職業化、分業体制による効率化によって、一つの産業として改革されることで資本主義化された。それは植民地のプランテーションを都市周辺部へ拡張した結果であった。

「産業」への資本投資は、農業よりももっと儲からないとして避けられた。産業が資本の投資先として有望でなかったのは、固定資本への投資効率が悪いためだ。産業革命前の生産機器は壊れやすく、「恒常的な保全(あるいは新しいものとの入れかえ)」を必要とした。そして「はるかにより長持ちがし完成度の高い資本となり、生産性を根本的に変化させること」で、有望な投資先として産業が浮上し、産業革命が起こった。

さらには商業資本主義の発達は、輸入品を含めて商品を多様にし、人々に多様な商品の喜びを浸透させていった。たとえば遠隔地交易で確実に利益を上げることができる商品が香辛料であったことにも現れている。このように商業資本主義によってすでに消費社会が芽生えていたことで、産業資本主義による大量生産を受け入れる土壌となった。




2)資本主義の軽やかな移行


商業資本主義、農業資本主義、産業資本主義と、資本主義は軽やかに移行するが、この順序そのものが近代化という流れではなく、資本は利潤があるだろうところへ移行するということが資本主義の本質である。そしてブローデルはそこに巨大な資本を独占する一部の資本家階級のヘゲモニーを見る。

つねに高利潤の星の下にある経済活動の特定の部門が存在したこと、そして、これらの部門は変動するということである。経済活動そのもののインパクトの下に、このような地滑り的移行の一つが起こるたびに、足どり軽やかな資本は、それに追いつき、そこに住みつき、そこで栄える。一般的原則として、資本がそれらの移行を作り出したのでない、ということに注意してもらいたい。利潤のこの差異地理学が資本主義の状況による変動を理解する鍵なのである。この変動は、レヴァント地方、アメリカ大陸、マレー諸島、中国、黒人奴隷貿易等を揺れ動く、−あるいは、商業、銀行、産業、あるいはさらに土地の間を。というのは、資本家の一グループが(たとえば十六世紀におけるヴェネツィア)、すぐれて商業的位置を去って、産業(ここでは羊毛)、さらに土地と牧畜にさえ賭けるようなことが起こりうるのである。

資本主義の総合的な歴史にとって基本的な、その特質を強調しておこう。すべての試練に耐えるその柔軟性、その変形と適応の能力である。私が考えるように、十三世紀のイタリアから今日の西洋まで、資本主義がある一体性を持っているとすれば、まず第一に、資本主義を位置づけ、それを観察すべきなのは、この特質のあらわれにおいてである。いくらか表現を柔らげる必要はあろうが、今日のアメリカの一経済学者が、彼自身の国についていったつぎの言葉を、そのままそっくりヨーロッパ資本主義の歴史に適用できないであるか。「前世紀の歴史は」と彼は言う、「資本家階級が、自らのヘゲモニーを保持するために、変化を方向づけ制御することができたことを証明している。」全体的な経済の規模において、資本主義が成長するについて、商品から金融へ、そして産業へと資本主義が順次移行した−成熟した段階、産業の段階のみが「真の」資本主義に対応する−というような単純な見方はつつしまなければならない。商業的と言われる段階においても、産業的と言われる段階においても資本主義はその基本的特質として、重大な危機あるいは利潤率の目立った減少の際には、ほとんど瞬時に一つの形態から他の形態へ、一つの部門から他の部門へと移行する能力を持っていたのである。P179-180


「物質文明・経済・資本主義―15-18世紀 交換のはたらき2」 フェルナン・ブローデル (ISBN:4622020548




3)経済の階層構造(ヒエラルキー


資本主義の能動的な特性は、経済の階層構造(ヒエラルキー)に支えられている。下位は、職業の専門化、分業によって、合理化が進められる。そこに経済(マーケット)の自然発生的な成長が生まれる。そして上位は、逆に専門化せず、分散しない。支配的な固定点(アンチマーケット)を独占し維持する。上位は下位の活発な経済活動に対して支えられつつ、また経済の変化を方向づけ制御する。

上位がこのような位置を独占することが可能であるのは、まさに金(資本)を持っていることによる。金を持っていることが尊敬、保証、特権、黙許、庇護、信用を獲得し、富(その機会)の独占につながる。

商業活動が近代化を遂げつつあるところではどこでも、それは強い分業の傾向を示す。分業それ自体が力であるではない。アダム・スミスが診断を下したように、市場の規模・交換の量の拡大が、商業活動に弾みをつけ、そして商業活動に固有の次元を与える。結局のところ、動因となるのは、経済活動の飛躍的発展そのものであって、それは、ある者には進歩のもっとも活発な部分を割り当て、他の者たちには下位の任務を残すことによって、商業活動にいちじるしい不平等を作り出すことになる。

このように言うのは、おそらくいかなる時代においても、商人たちがまったく同一の平面に位置し、たがいに平等であり、いわば互換性があるといった国はただの一つもなかったからである。・・・ヨーロッパでは十一世紀の経済復興の兆しの後、不平等はますます顕著になる。イタリアの諸都市・・・に、やがて都市貴族の間で支配的位置につくことになる大商人という一階級が出現するのを見る。そしてこの階層化(ヒエラルヒーは、それにつづく数世紀の繁栄とともに、はっきり確立される。金融がこの進化の頂点ではないだろうか。P104

商業社会のピラミッド、この特殊な社会は、西洋全域を通して、あらゆる時代に、つねに似たような形で見出されるであろう。専門化、分業は通常そこでは下から上へと行われる。もし職務の区分と仕事の分割を近代化あるいは合理化というならば、この近代化はまず経済の基部に現われたのである。

・・・十九世紀に資本主義が新しい巨大な産業の分野に目ざましい進出を示すとき、資本主義は専門化するかに見え、通史は産業を到達点として提示する傾向がある。・・・それは、それほど確実なことであろうか。私には、むしろ最初の機械使用のブームのあと、資本主義の頂点の部分は折衷主義、あたかもこれらの支配的な点に位置することに特有の利点が、・・・一種の不分割性に立ちもどったように思えるのである。並み外れて適応性に富み、したがって専門化しないことに。

・・・結局、商業社会の絶えざる再構造化のなかで、長い間一般人の手がとどかなった地位があり、そしてそれは、下の層で分業や細分化が進行するにつれて、その難攻不落性のうちにおいて、より地位を高くし、より評価を高めることをやめなかった。それが多方面活動を行う大商人の地位である。

・・・十八世紀は、かくして、ヨーロッパ全域において大商人の絶頂期を迎えるであろう。ただ、大商人が成長するのは、底辺における経済生活の自然発生的な成長のおかげであるという事実を強調しておこう。彼らはその上に乗っているのだ。P109-112

資本家の成功は金に依拠している−このように言う場合、あらゆる企業に欠くべからざる資本のことしか考えていなとすれば、それは明らかに言わずもがなのことである。しかし、金は、投資能力とまったく異なった何ものかである。金は社会的に尊敬されることであって、その結果、一連の保証、特権、黙許、庇護が得られることにある。それは眼の前にあらわれる取引や機会のなかから選択する可能性であり、−そして選択することは、一つの誘惑であると同時に特権でもある−・・・王侯の恩寵と好意さえも獲得する可能である。最後に金は、さらにより多くの金を持つ自由である。なぜなら、金持ちにしか人は金を貸さないものだからである。そして信用は、ますます大商人にとって不可欠な道具になってゆく。P112-115




4)ブローデルマルクス


このようなフローデルのすばらしい考察は、現代の資本主義にも当てはまることが多いのでないだろうか。現代でも、資本は情報産業、金融、エネルギーと「軽やか」に移行する。そして格差が生み出されるのは、新自由主義の特性というよりも、資本主義そのものの本質ではないだろうか。

ブローデルの言説は一見、マルクス主義的である。ここにはブルジョアジー/プロレタリアの対立構造がある。しかしマルクスは格差の源泉を資本主義というシステムの「正常性」に求める。この意味でマルクス主義はまさに経済学である。

これに対して、ブローデルが指摘するのは、その定常な経済学の外部(異常)にある「独占」の問題であり、さらには経済学では語られない「信用」の問題である。社会では人々は功利的に行為するのではなく、富を持つ者と持たざる者の信用の差異を使い分け、富む者への尊敬、特権、黙許、庇護を与える。そこにあるのは、誰もが勝ち馬に乗りたいという「贈与関係」の問題である。それはまた経済学には存在しないヘゲモニーという権力闘争である。




5)資本は未開地(フロンティア)において権力をもつ


現代では、自由・平等、情報交換公開、「独占」禁止などが制度化されている。だからフローデルがいうような独占は、初期資本主義の未熟さだろうか。フローデルが指摘するのは、上位は経済活動そのものを支配している訳ではなく、「戦略的なポジション」においてである。

商業資本主義において遠隔地交易が戦略的ポジションとあったのは、一つには資本が大きく増幅される場所、すなわち未開地(フロンティア)であったからだ。投資とは、すでに開拓された場所ではなく、これからさらに開拓されるだろう場所へ行うことで、利潤を生み出す。

しかし上位にとって未開地(フロンティア)が重要である本質は、まだ秩序・制度が十分制定されていない「例外状態」であったということにある。シュミットのテーゼ、「主権者とは例外状態において決定を下す者である。」に従えば、未開地(フロンティ)においてこそ、「資本家階級が、自らのヘゲモニーを保持するために、変化を方向づけ制御することができた」。資本が真に権力として行使され、そして富の独占が行えるのである。商業資本主義ではそれが、最高度に戦略的なポジションとしての遠隔地交易であった。

われわれが問題にしている諸世紀について、われわれは大商人が、少数でありながら、最高度に戦略的なポジションである遠隔地交易の鍵を握っていたこと、彼らがニュースの伝搬が緩慢できわめて高価な時代においては比類のない武器である情報の特権を、自分たちのために持っていたこと、一般に彼らが、国家と社会の暗黙の支持を得ており、その結果、彼らがつねにまったく自然に、良心のとがめを感じることなく、市場経済のルールをねじまげることができたことを示す必要があろう。他の者にとって義務であったことが、彼らには必ずしもそうではなかった。P137

市を避けて通り、法律上もしくは事実上の独占によって競合を消滅させ、供給と需要の間に大きな距離をおいて、長い連鎖の両端にある市場の様子にただ一人通じている仲介者によってのみ交易条件が左右されるような状況を作り出したいと望む者に、遠隔地交易がどのような便宜を与え、どのように罰を免れさせるかを。これらの利潤の大きな回路に進入するための必要不可欠の条件、それは十分な資本、市場における信用、よい情報網と人間関係を持つこと、最後に行程の戦略的な地点において事業の秘密を分かちもつ協力者を有していることである。P157-158




6)「巨大な機械群」と安全保障


ブローデルに反して、「産業資本主義」を資本の移行先の多くの一つと位置づけるのはむずかしいと思う。商業資本主義→農業資本主義→産業資本主義には必然があり、そして産業資本主義には資本主義の本質があるのではないだろうか。

それに関してブローデルの考察で重要であると思うのは、産業資本主義の成功が、「固定資本の壊れにくさと完成度の高さによる生産性の向上」にある、という指摘だ。これは単に機械の効率化のみを意味するのではない。

資本主義、とくに産業革命以後に現れた社会とは、壊れない「強固な構造物」が社会を覆い尽くしていく歴史である。一つの機械ということではなく、次々に接合されていき、合理化を目指して都市が「巨大な機械群」のようにくみ上がり、成長していく。

そしてマルクスの疎外や物象化、ウェーバーがいう合理化などの弊害にかかわらず、人々が「巨大な機械群」へ順応することを望むのは、世界の予測可能性を高め、生存を保障するからだ。簡単にいえば原始人のような屋外で生活するより、頑強な住まいは外部の不測の変化から身をまもり、安全で安定した豊かな生活を将来にわたり保障する。特別お金持ちでなくても、分業や細分化による合理化に順応することで保障される。

資本、あるいは資本財(それらは同じものである)は二つの種類に分かれる。固定資本すなわち長期のあるいはかなり長期の物理的寿命を持ち、人間の労働を支えるものとして役立つ財、道路、橋、堤防、水道橋、船舶、道具、機械−と、生産過程の内に入りこみ、そこに埋没してしまう流動資本(かつては回転資本と呼ばれた)、播種用の小麦、原料、半加工品、およびさまざまな勘定(所得、利潤、地代、賃銀)の決済に用いられる金銭、特に賃銀、そして労働。

生産の過程は二サイクルのエンジンのようなものである。流動資本は即座に費消されるが、それは再生されさらには増大させられるためである。固定資本に関しては、それは損耗していく。速度に差はあるが、いずれにしろ損耗する。道路は状態が悪化し、橋は落ち、帆船あるいはガリー船はいつの日かヴェネツィアの一女子修道院のために薪を提供することになってしまう。機械の木製の歯車は使用不能になり、鍬の刃は折れる。こうした資財は修復されなければならない。固定資本の損耗は経済にとっての止むことのない悪性の病なのである。P304-304


「物質文明・経済・資本主義―15-18世紀 交換のはたらき1」 フェルナン・ブローデル (ISBN:462202053X

要するに、私はS・クズネッツがつぎのように書いたのは正しいと思う。「誇大に言う危険を覚悟すれば、一七五〇年以前の時代において、ほんとうのところ、『例外的な成功』を別にすると、何かに固定し永続する資本の形成があったか、そして、はじめの価値全体との比較においてひじょうに高い割合に上る費用を要する恒常的な保全(あるいは新しいものとの入れかえ)を必要としないで長い物理的寿命を持った資本財の何らかの大きな蓄積があったかに、疑いをはさむことができよう。設備のほとんどの部分が五、六年以上はもたず、大部分の土地改良が、肥沃度を維持するために、毎年およそその価値全体の五分の一にあたるものにつく恒常的な地味回復借置を必要とし、ほとんどの建造物が二五年から五〇年という期限内に、それらのほとんど完全な破壊を意味する程度に老朽化してくとすれば・・・・。固定資本という概念全体が、おそらく近代経済と近代技術の時代の特有の産物なのである。」多少誇張すれば、産業革命は何よりもまず、固定資本の変化であったと言うに等しいのである。それは、その時以後、より高くつくがはるかにより長持ちがし完成度の高い資本となり、生産性を根本的に変化させることになったのである。

・・・どの部門がすべての他の部門にまさって、設備の脆弱さに苦しめられていたかが理解できるであろう。程度の差こそあて、「産業的」と呼ぶことのできる生産部門がそれなのである。この場合、高い所得と蓄積の可能性が、われわれが先ほど言ったように、五パーセントの特権者にもっぱら与えられるのは、単に社会の階級制度によるのではない。経済技術構造が、ある部門−とりわけ「産業」および農業生産−には、僅かな資本の形成をしか許さないのである。だとすれば、一昔前の資本主義が商業資本主義であったこと、それがその努力と投資の最上部分を「流通の領域」にもっぱら向けたことは驚く必要があるか。P308-310




7)資本主義と欲望


商業資本主義もまた「巨大な機械群」の流れに位置づけることができるのはないだろうか。
たとえば商業資本主義が遠隔地交易で成功したのは、造船や航海術の発達にあった。さらに植民地でのプランテーションでは不十分ながらも機械化が求められただろう。ここにはすでに、「強固な固定資本」を生み出す科学技術の進歩が見いだせる。まず強固な構造物の効果は、流通に現れたのではないか。

さらに商業資本主義が新大陸の発見に始まったのは偶然ではない。ただ遠距離へ交易するという物質的な地理の差異によって、未開地(フロンティ)が発見され、巨大な資本を生み出したのだ。

しかし遠距離交易の問題は、物質的である故に未開地として資源的に有限であるということだ。ここでは、物質的な資源開拓とともに並行して行われたもう一つの開拓の方が重要だろう。遠距離交易によってもたらされた商品が人々の消費欲を開拓したのだ。




8)産業資本主義と利潤の無限化


ここに、安全保障だけではない、資本主義が産業資本主義へ帰着するもう一つの必然がある。ブローデル「利潤のこの差異地理学が資本主義の状況による変動を理解する鍵なのである。」といったが、「差異地理学」とはほんとうの物質的な地理ではなく、他よりも利潤が高くなるだろう有望な領域を表すメタファーだろう。

遠距離交易という物理的な限界の先に、産業資本主義が登場するのは、そこに無限の未開地(フロンティア)を見出したからだ。新たな技術の開発と生産性の向上は、自動車、家電製品、情報機器、ネットというバーチャル空間などなど、無限に消費欲を開拓することができる。

これを消費型資本主義と呼ぶとすれば、資本主義とはそのはじめから消費型である。そして、消費をもっとも促進する、すなわち新たな未開地(フロンティア)を開拓するのが産業資本主義なのである。

それは単に一つの技術開発によって、ということではなく、「巨大な機械群」の成長の先端においてである。その例外状態に上位の人々は独占を目指して、投資しそして「変化を方向づけ制御する」のだ。そして資本は無限に利潤を生み続ける。




9)技術が先か資本が先か


ここには、技術が先か資本が先か、という問いが生まれるかもしれない。技術と資本が足並みをあわせれば、健全な実体経済活動と呼ばれ、資本が先行しすぎればバブル経済と呼ばれる。しかし資本主義おいては、資本はどこかへ地滑り的に移行しなければならない。そこには、ブローデルが強調する資本の能動性がある。未開地(フロンティア)は見つけ出されなければならない。それが、「環境対策」という消費を促進する、というパラドキシカルなものであってもだ。

世界の「富」、人口の2%が半分以上所有  http://www.nikkei.co.jp/news/main/20061205AT1C0500205122006.html


国連の研究機関が5日発表した調査で、世界の成人人口の2%が家計全体の「富」の半分以上を所有していることが分かった。地球規模で豊かさに偏りがある実態が浮き彫りになったが、日本は世界平均や米国などと比べて格差が小さかった。

調査は国連大学世界開発経済研究所(本部・ヘルシンキ)が国際機関や各国の統計(2000年)を使ってまとめた。預貯金や不動産などの資産から負債を引いたものを「富」と定義した。

調査によると世界の家計の富は計125兆ドルで、国内総生産(GDP)の合計の約3倍となった。家計レベルで世界の富の分配状況を示したのは今回が初めてという。

最も豊かな層に属し、成人人口の1%に相当する人々が所有する富は、世界の4割に相当。「上位1%」を居住している国別に分類すると、米国が最多の37%、日本は2番目に多い27%となった。日米だけで上位1%の3分の2近くを占めた。(2006.12.5)