オタクは市民へと進化するのか

pikarrr2009-02-23

日本人の「大きなもの(国家・企業)」依存


結局、日本人に足りないのは市民としての自立性なのでしょう。市民としての自立性とは、社会秩序を自らの参加で作らなければならないという政治への参加意識。

日本人は社会秩序維持を大きな組織にゆだねてきた。国家であり、戦後では企業。多くにおいて人々のこのような大組織の一員であるという間接的な関係でしか政治にコミットしてこなかった。

これは、大きな組織への信頼に支えられている。国家は、企業は、そんな強引な、非情なことはしないだろう。だから僕たちは目の前の労働をこつこつやりさえすれば、良い方向にいくだろう。そしてみんな同じ「日本人」なんだから、最後は助けてくれるだろうという、漠然とした、ハイコンテクストな、ナショナリズムのようなもの」

このような日本流擬似社会主義が悪いと言うことではないが、父なる国家、大企業は、グローバル化のなかで、その威厳を保てなくなっている。人々を養うだけの経済力を保てなくなっている。




日本人は直接的な公共性へのコミットを敬遠する


日本人は国際的な評価でも道徳観をもち、公共意識が高いと言われている、にも関わらず、公共性への直接的なコミットを嫌うのは、一つは文化的な背景があるのだろう。

欧米ではこのような行為が文化として当たり前にあり、日本人が考えているような、高い正義感によってというようなことではなく、一つのコンベンションとして、ただ参加することが当たり前としてあるのだろう。

それに対して日本人にはボランティアや社会活動に参加することが恥ずかしいという気持ちがある。直接的な善意の表現をどのような顔をして行えばいいのか。だから災害などの緊急時でなければ、積極的な参加は敬遠される。




自己責任と市民


本来、市民の自立性は、個人と国家に間にあるはずのもので、個々人が自立することで、社会秩序の形成にみんなで参加すること。 

個人/市民/国家(企業)

自己責任とは、個人を孤立させることではなく、みんな国家依存から自立して、自己責任をもって、助け合って生きていこう、ということである。市民は自己責任によって成立し、そして個人を補佐する働きがある。

イラク人質事件あたりから盛り上がった自己責任論は、日本では湾曲されているように思う。自己責任を問われるのは、ナショナリズムのようなもの」の庇護から、切り離された人々という排他的な面が強く表れた。

しかしいま、国家、企業の弱体化によって、漠然としたナショナリズムのようなもの」は力を失い、自らが自己責任のもとに孤立化している。そして自らが庇護されないと、とたんに政府に何とかしろと、強い保障を求める。




緩衝材としてのオタク傾向


オタクやニート傾向が、非社会的、自己欲望的、退廃的な面をもっているのは、定の社会の豊かさをベースにしていることは否めない。その意味で、日本のポストモダニズムな文化の象徴であるといえる。

それとともに個人の孤立化と関係しているだろう。個人/市民/国家(企業)の構造と関係づけて考えれば、日本において市民という個人の自立的な文化がなく、その隙間に現れた個人の孤立(孤独)を和らげるナイーブな緩衝材として、オタク傾向がある。

個人/(オタク傾向)/国家(企業)

豊かで、恥ずかしがりやな日本人は、オタクなどのサブカルな文化集団という形態によって、ナイーブで、拘束的でないつながりを形成する。互いに自立して向き合わずに、モノへ強い興味というクッションを介しつつ、寄り集まる。

そこには市民のような強い社会的な協力関係はなく、あくまでもまだナショナリズムのようなもの」を漠然と信じている。




ポストモダン的な現象とグローバル化の対立


たとえばいま危機的にある派遣社員の雇用の問題も、少し前には、一つの新しいライフスタイルとして選び取られていた面があった。それは社会が豊かであったポストモダンな現象である。

ここには、成熟した近代としてのポストモダン的な現象と、グローバル化という新たな潮流の対立があるのではないだろうか。

ポストモダン的な現象は、先進国/途上国という格差の構造に支えられて、先進国の豊かさ、安全性が確保されることで、退屈の中から生きる意味を求めて、より趣味的な細部へと生き甲斐を求める消尽な現象といえる。

それに対して、グローバル化とは、ネオリベラリズムが開いたパンドラの箱である。市場経済の拡散は、先進国/途上国の境界を攪拌した。BRICsなどの新興国の登場によって、豊かさが拡散されるとともに、貧困も拡散した。先進国にも貧困が侵入するという、貧困のグローバル化が起こりつつある。もはやポストモダン的な豊かさに安住することは困難になっている。




オタクは市民へ進化するか


もはや国家、企業は社会秩序を支えきれない。過剰に国家に依存して、首相をバッシングして首をいくらかえても、あるいは政党をかえてもかわらないだろう。グローバルでおきている潮流を、国内問題で解決などできない。

漠然としたナショナリズムのようなもの」が期待できない中で、自己責任をもった市民的な協力関係が重要になる。今回の不況で、派遣社員を一つの新しいライフスタイルという人はいなくなり、サヨ的な方法論よって助けあいの活動も再開される兆しがある。

企業に依存して生きてきたある程度の年配の人々は、貯め込んだ大量の貯蓄を小出しにしつつ残りを生き延びようとするだろう。

では、個人の孤立(孤独)を和らげるオタク傾向の若者たちはいかに生き残るのか。グローバル化という環境変化の中、オタク傾向を市民への練習段階として、自立した個人として市民的な協力関係へと切り替えることはできるだろうか。

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