資本主義は等価交換の第三者が進める

pikarrr2009-03-01

等価交換の第三者


商品等価交換は二者では成立しない。等価交換は第三者の介入によって可能になる。等価交換という行為はデリケートすぎる。質の異なるものにいかに等価を決定するのか。交換者はより多くをもらおうと思うだろう。ここに暴力が介入しない方が不思議である。だから調停者としての第三者を必要とするのだ。

商人は新地で商売を始めるにあたり、まずその地域の権力者と有効な関係を結ぶ。それはヤクザの所場代から、中世の都市で行われた市(市では国家へ配当を払いその管理下で行われた)。また現代もかわらないだろう。税金は徴収されて、国家治安のもとで交換は行われている。

税金とヤクザの所場代を同じレベルで語るのは無理があるだろうか。第三者の機能と言う意味では、ヤクザよりも国家は交換により深く関わっている。警察による治安、様々な商業的なルールの取り決め、関税など国家間の調整、さらに教育機関による人材の育成まで、市場が国民国家規模で行われる現代において等価交換を成立させるために、国家は第三者として基盤として介入している。




交換の第三者は調停者であり権力者である


三者は調停者であり、そして権力者である。途上国へ商品を売り込む場合には、その国の官僚への賄賂は筆数だろう。これが途上国が先進国から搾取され続ける大きな理由である。先進国は途上国の官僚を抱え込み、途上国の民衆から搾取する。途上国の官僚はその富をもとにより国家権力を掌握しつづける。

そもそも資本主義は遠隔地交易から生まれたといわれる。遠隔地における植民地政策としての略奪と搾取によって、国家と大商人は協約して巨大な富を手に入れたのだ。その富が自国の市場に投入されて資本となった。

未秩序な遠隔地でこそ、等価交換の安全は脅かされる。だから第三者の力は求められる。これは逆に言えば、三者の権力は「遠隔地」でこそ、効率的に行使されることを意味する。そして第三者は調停者であるとともに、交換のルールそのものを決める権力者となる。




競争者は「遠隔地」を目指す


自由主義経済学は第三者を認めない。経済学において、第三者にかわるのが自生的な秩序(神の見えざる手)である。質の異なるものにいかに等価を決定するのかという等価交換がもつデリケートな問題は、市場の自生的秩序によって乗り越えられる。それとともに公平な競争は経済活動が活性化し、社会の富は最大化する。そして第三者の介入は活発な経済活動を停滞させるものでしかない。だから国家の介入さえも、より小さいものであることが望まれる。

しかし競争者にとって、公平な競争の領域は終わった市場である。多くの競争相手と等しい情報という完全競争では商品の価値は下がり、大きな利益を期待することはできない。だから競争者は、公平な競争の領域からいかにズレれるかを戦略とする。企業が新市場開拓や新製品開発へ投資するのはこのためである。

「終わった市場」からズレた領域を見出して、早く上陸し、ルールを作り、他の競争相手が殺到する前に利益を独占する。すなわちズレた領域とは、資本主義創生期でいえば、「遠隔地」に相当する。

そして遠隔地では、自生的な秩序(神の見えざる手)のようなデリケートな秩序は期待できない。自生的な秩序が生まれる公平な競争は、現代国家のように第三者による調停がもはや働いていないように感じるほどに透明で安定した場で可能になる。




資本主義の原動力は独占


資本主義と市場経済と混同すると、経済学の自生的な秩序論に陥ってしまう。資本とは力であり、さらなる力の増殖を求める力である。そしてもっとも力が増殖する場とは「遠隔地」である。遠隔地で第三者と協約、あるいは自らが第三者になるときに、もっとも資本の力は増殖する。

これは自由主義経済学でいえば独占、そして強者たちが組みあう「贈与」の世界である。そしてグローバル化を動かしてきたのは、自生的秩序の拡散ではなく、遠隔地を目指す強者たちの資本の力である。資本が増殖する遠隔地がなければ、強大な資本はうまれないし、経済の成長はない。そしてそこで第三者の存在こそが重要になる。自生的な秩序は資本の後からおこぼれにあずかろうと広まってくるのだ。
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