なぜ権力はシンメトリー(対称性)なのか

pikarrr2009-03-03

人工物とシンメトリー(対称性)


沖縄の海底に謎の巨石文明があると、テレビで取り上げられている。その遺跡は海の底に大きな石が整えられ、溝が掘られたりしている。しかしピラミッドのように明らかに人工物とわかるというよりも、少しいびつで、自然物じゃないの?と疑いたくなるような微妙な感じである。

この人工物と自然物の差異はどこからくるのだろうか、と考えると、ポイントはシンメトリー(対称性)にあるのではないだろうか。ある石の断面をみて、四角形などのシンメトリーが見いだせることは、自然物でもあるだろう。しかしそのシンメトリーが長手方向に保たれ連続している、あるいはシンメトリーが複雑に組み合わさった構造であると、そこに自然(偶然)にできた以上の意図を見いだし、人工物と考える。

シンメトリーはバランスがいいという美意識に関係するものではなく、そこには経済性がある。たとえばいびつな丸よりも、真円に近い方が情報量が少ない。真円では直径のみの情報があれば、伝達・再現することができる。いびつな円になるととたんに情報量は膨大になり、伝達・再現が困難になる。さらにそれを制作する場合には強度が関係するだろう。真円、長方形などは構造力学的に構造として強度をもつ。


与那国の海底遺跡*1




シンメトリーの神性


このように古くから人はシンメトリーに物を制作してきた。そしてピラミッドなどの巨石文明は、石のような加工が困難な素材をシンメトリーに加工し、さらにシンメトリーに巨大に組み上げることで権力の象徴となる。そこにはそれだけの労働力と知力を集結する権力があるということを誇示する。

しかしシンメトリーはただ権力の誇示だけではない。たとえば富士山の裾野であるとか、水平線、月、そしてもっとも複雑なものは生物の形態など、シンメトリーは自然の中にもある。これらは当然、人工物ではないだろう。しかし自然のきまぐれとしてはあまりにできすぎている。誰かが作った人工物に違いない。それは神しかいない。シンメトリーが美しいのはそれが神の行為であるからだ。そして巨大なシンメトリーを操る権力者は神に近い者として、その権力の正当性を示すのだ。




産業革命とシンメトリー社会


近代化の中で大きく状況は変わる。特に激変したのが、産業革命以後に鉄鋼材が大量生産されて普及しだしたことである。

産業革命とはなんだったのか。これは歴史家を悩ませる問題である。教科書で語られるほどに、産業革命前後に断絶はない。産業化への変革は長い時間をかけて行われてきた。むしろ産業革命とは一つのイメージに支えられているのではないだろうか。

それは木材社会から鉄鋼社会への変容である。それまで建材の主流は木材であった。建物、乗り物、生活用品などが主に木材で作られていた。木材でもシンメトリーが基本であっただろうが、手作りで均一化には限界があった。また強度が弱く長期的に形態を維持することが困難であった。

それに対して、鉄鋼は、強固であり、精確にシンメトリーを形成し、さらに長期にわたり形態を維持する。鉄鋼の普及は構造物を一変し、そして生活空間の様相を激変させた。この鉄鋼の革命性は外装、骨組みなどの構造物としてだけではなく、工具として普及したことも大きい。たとえば現代では、鉄鋼は重いのでアルミや、プラスティック、あるいは木材もまだ使われているが、これらがシンメトリーをもって製造されるのは、金型や加工工具として鉄鋼が使われているからだ。

そしてこのような鉄鋼材の影響は、巨大にそして微細にシンメトリーを配置することで、剥き出しの自然を一枚の外装で覆いつくした。さらに変化は空間だけではなく、時間にも当てはまる。精確なシンメトリーが組み合わせられた機械の動作は、正確に反復活動することで、時間さえもシンメトリーにする。労働時間の管理、分業、すなわちプロレタリアートを生み出した。




鉄鋼社会と流動性


鉄鋼社会はただ静的で無機質な世界を作り出したわけではない。むしろ逆である。強固で、精確な形態の維持は、製品の細分化された規格化を進めた。それが社会の流動性を高める仕組みとなった。簡単に言えば、世界は「レゴ」のように規格化され、組み立てられる。そしてある部分を変えたければ、その部分を取り外し、新たに組み替えればよい。

そしてまたレゴを次々延長していくことで、物、人、情報の移動を容易にした。産業革命のイメージの一つとして鉄道があげられるが、蒸気機関、車両、レールと鉄鋼材の固まりである。その後、舗装された道路網の発達と自動車の普及もまた鉄鋼と大きく関係するだろう。さらにそこに通信網が引かれることになる。

再度言えば、このような流動性を可能にするためには、強固で、巨大でそして微細なシンメトリーの配置が不可欠であり、それは鉄鋼材の普及ではじめて可能になったのだ。




人は「シンメトリーに従う」


現代人は古代の巨石文明のようにシンメトリーを信仰しているわけではない。しかし現代人はシンメトリーを深く信じている。現代人の無意識の信頼(=コンベンション)はシンメトリーによって支えられている。

流動化する社会を語る場合、多くにおいて寛容であること、儀礼的無関心、消極的自由などの社会の「常識」に対してメタ認識をもつことが重視される。だから従来のコンベンション(慣習)は保てない。

しかしコンベンションはある。現代のコンベンションはシンメトリーであるといえるだろう。人はすでにシンメトリーに従っている。たとえばオッカムの剃刀。近代以降に現れる還元主義への強い欲求は、「世界はシンメトリーな秩序によってできている」という信頼によって支えられている。それは強く意識するわけではないが、科学技術への情熱となっているだろう。




資本の巨大化とシンメトリー・コンベンション


ここで重要であることが、大規模(巨大、また微細)化するシンメトリーを形成するためには、大量の材料と労働力を調達する大きな資本が必要になるということだ。逆に言えば、資本がなければなにもかわらない。ここで資本を投入しシンメトリーを形成する者と、シンメトリーへ従う者という社会の二層構造が現れる。

たとえば産業化、グローバル化、科学進歩は建築物、インフラを大規模化し、それだけの巨大な資本が必要とされる。大きな資本を持つものが資本を投入して世界をシンメトリーに作り替え、そして労働者をそこに配置し、消費者を流動化させ、そして資本は回収され、また再投入される。すなわち現代の権力はシンメトリーに行使される。

現代のシンメトリーによる権力は、巨石文明のように信仰へ作用するのではなく、無意識の信頼(=コンベンション)として、それが権力と気付かないうちに作用している。美しく整備された街並み。それはそこに強力な権力が作動していることを示している。

商業社会のピラミッド、この特殊な社会は、西洋全域を通して、あらゆる時代に、つねに似たような形で見出されるであろう。専門化、分業は通常そこでは下から上へと行われる。もし職務の区分と仕事の分割を近代化あるいは合理化というならば、この近代化はまず経済の基部に現われたのである。

・・・十九世紀に資本主義が新しい巨大な産業の分野に目ざましい進出を示すとき、資本主義は専門化するかに見え、通史は産業を到達点として提示する傾向がある。・・・それは、それほど確実なことであろうか。私には、むしろ最初の機械使用のブームのあと、資本主義の頂点の部分は折衷主義、あたかもこれらの支配的な点に位置することに特有の利点が、・・・一種の不分割性に立ちもどったように思えるのである。並み外れて適応性に富み、したがって専門化しないことに。


「物質文明・経済・資本主義―15-18世紀 交換のはたらき2」 フェルナン・ブローデル (ISBN:4622020548

資本主義社会では主体は解放され、自分たちは中世的な宗教的迷信から解放されていると信じており、おのれの利己的な関心にのみ導かれた合理的な功利主義者として他者と関係する。しかし、マルクスの分析の眼目は、主体ではなく、物(商品)それ自体がおのれの場所を信じている、という点である。つまり、信仰や迷信や形而上学による神秘化は、合理的で功利的な人格によって克服されたかのように見えるが、じつはすべて「物どうしの社会的関係」の中に具現化されているのである。人びとはもはや信仰をもっていないが、物それ自体が人間のために祈っているのだ。

これは同時に、ラカンの基本的な前提の一つでもあるように思われる。信仰(信念)は内的なものであり、認識は(外的な手続きによって確証しうるという意味で)外的なものだ、というのが一般的な定式であるが、むしろ、信仰こそ根本的に外的なものであり、人間の実用的・現実的な活動の中に具現化されているのだ。P55


イデオロギーの崇高な対象」 スラヴォイジジェク (ISBN:4309242332


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