なぜ日本経済を活性化するために「社会活動」参加への意識改革が必要なのか

pikarrr2009-04-02

「考える名無しさん」 
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1235732743/633-634


息詰まるような濃密なゲマインシャフトを用意せよ、なんて私は言っているのではありません。適度な地域共同体、もしくは精神的なバッファーになるような何らかのコミュニティがあればいいと言っているのです。

親しき中にも礼儀ありで、私は家族間同士でもそれなりの節度をもって関わるべきだと思っており、どこかの歯科医師一家での殺人事件のように浪人でノイローゼになっているような人間に「夢がないんだね」などとしつこく愚弄するような調子で言うと、自分の持っていた女優になるという夢が一瞬でバラバラになってしまったように。これは人間関係の教訓として、私達もこの事件から学ぶべきでしょう。それは相手の心を想像してあげるという、単純なこと。

それで派遣を中途で切られてすぐにホームレスになるという最近までの出来事は、そうしたゲマインシャフトが壊滅しているから起こる現象でしょう?企業の横暴だけで片付く問題ではないと思う。そういう人達の家族関係は一体どうなっているのでしょうか?助けてくれる家族や親族、友人や知人は誰もいないのでしょうか?

まるで異邦人が他国で一人で生きているような有様ではないでしょうか。それと、この間亡くなった飯島愛が何か悩み事を夜中?に交番に持ちかけたり、貧血で救急車を呼ぶ元アイドルとか、精神系のメディシン服用で逆におかしくなっている人達とか、とにかくここにきて地域的な共同体、もしくは家族、親族関係さえ希薄な人間の持つ不安定な状況というのがよく現れている訳ですよね。


だから景気回復でバラマキ財政をやるのも結構ですが、それと同時に今まで散々破壊尽くしてきたローカルなコミュニティという問題について考慮しないと、幾ら株価が何倍になろうが、企業業績やそのバランスシートが改善されようが、介護、雇用保険がどう優遇されようとも、やはりこの社会は生きづらいという話になると思うのです。

引き籠もっている人達が実際にどういう人間なのかはよく分からないけど、外へ出て、あるいは社会に出て失敗したり挫折したり、ストレスをため込んだ時に帰る場所が、すなわち精神的なバッファーとなるような人間関係なり地域的なコミュニティが全然ないから、そういう風になるではないかな?と。

上手くいかない時でも、隣で「平気、平気、なんとかなるよ」とか笑って言ってくれるような誰かや仲間がいれば、まだずっと気楽に社会参加出来ると思うのは、気のせいなのでしょうか?

別に自分は昇進出来そうもないとか、株価や景気回復の動向を睨んで隠っている訳でもないでしょう。知識人や文化人は経済の話ばかりやってないで、こういう問題をもう少し真剣に考えた方がいいのではないでしょうか。

特に今まで散々無責任にリベラルや経済至上主義を煽って社会や家族、地域コミュニティを解体してきた人達には、その責任が十分にあると思う。





ゲマインシャフト(贈与交換社会)の難しさ


ゲマインシャフト、ボクがいう贈与交換重視社会を取り戻す、というのは賛同します。しかしそのためにはいろいろ問題があります。まず贈与交換は、信頼に関係し、上(国家)からの権力によって形成されない。時間をかけて育てていく必要がある。

また現代は、貨幣交換によって生存を保障している。お金を稼ぎ、必要なものを購入、消費する。この循環全体がマクロ経済を成長させて、豊かな消費社会を成立させている。この活性化に対して、贈与交換は活性化を疎外するマイナス要因ともなる。

ではいかに贈与交換社会をとりもどすか。貨幣交換社会と共存させて育てていくか。海外では、はじめから「多文化社会」なので、土着の贈与交換社会が弱く、ボランティアなどの「社会活動」を意図的に育ててきた経緯があります。日本でもこのようなシステムの構築にいく必要があるのではないでしょうか。




地域コミュニティ→企業コミュニティ


日本人にとって贈与交換社会は自然発生的なものであって意図的に「他者」が作り出すものは信用できない、という考えがあります。だから「社会活動」が根付かない。

しかし実際にこれだけ貨幣交換社会が浸透し、また成功もしているのだから、もはや自然発生的な贈与交換コミュニティは崩壊している。特に戦後には贈与交換の基盤は地域コミュニティから、企業コミュニティへうつりました。企業は各地方に支店をもち、従業員を効率的に配置し、流動化させることで、地域コミュニティは分断されました。

企業は終身雇用で、福利厚生で家族の生活を保障することで、従業員による家族ぐるみのコミュニティを形成した。たとえば大きな災害があった場合に、安否やその後の支援など中心に機能するのは、地域コミュニティではなく、企業コミュニティです。

このように戦後の日本企業は、貨幣交換以上の贈与交換関係による企業への忠誠心によって生産性を向上させて、世界的な成功を勝ち得ました。




企業コミュニティ→ネット・オタクコミュニティ?


しかしもはや日本企業は、社員の生活全体を保障するだけの経済力はなくなり、重荷になっています。だから正社員の数を抑えて、単純に貨幣交換関係だけの派遣社員を雇い、雇用の調整弁としています。

「負け組」と言われる人たちの多くが、派遣、フリーターなどの雇用上で弱い立場にあるのは、彼らの賃金が安いとともに、企業コミュニティから排除され、社会的に「孤立」した人々だからです。

いまの日本には、企業コミュニティにかわる贈与交換関係が存在しないために企業から切り離されることは、ただお金が稼げないだけではなく、贈与交換のコミュニティから切り離されて、社会的に「孤立」することを意味するのです。

ある意味で、ネットコミュニティや、オタクコミュニティは、このような社会的な「孤立」を補完していると言えますが、あくまで寂しさを慰め合う程度のものでしかなく、社会的な基盤としては不十分でしょう。




貨幣依存社会による「社会的な孤立化」


贈与交換が希薄化し貨幣交換に偏向することによる「社会的な孤立化」では、お金があれば豊かであるが、お金がなければ生きていけないという貨幣依存性を高めます。そして人々はお金だけを頼りに孤立するわけです。

本来は、贈与交換の助け合いが、並行してあるはずです。貧しくなっても、助け合いと、信頼関係がある。社会には貧困はなくならないわけで、贈与交換の助け合いで乗り切ることが貧しい人々の正しいあり方であったはずです。

そして「社会的な孤立の問題」は単に貧困だけの問題ではありません。貯蓄があっても、お金で買えないものをもとめるときにパニックを生み出す。学校教育や、病気への対応などで先生(プロ)に頼む前に身近な人に相談できるような信頼関係がないために、金を払っているのだからなんとかしてというパニックになって、孤立の不安は「モンスター化」へと転倒するのです。

あるいは、オレオレ詐欺なども社会的な孤立化の一面かもしれません。老人たちには相談する人たちがいないのでしょうか。




「社会的な孤立化」による経済の閉塞


このために人々は国家への要求を強めています。貨幣依存社会から最後の頼みとして「日本人」というナショナリズムな贈与交換コミュニティとして、国家へ過剰に助けを求めている。最近の政治家へのバッシングにはたぶんに「国民モンスター化」のような傾向が現れているのではないでしょうか。

また貨幣依存社会は逆に日本経済に悪影響をあたえています。日本経済の特徴は貯蓄率の高さです。日本人は多くのお金を預金してため込んで消費しません。だから内需が低く、国内経済が活性化しない。

なぜ人々はお金を貯め込むのか。日本人の特性もあるでしょうが、将来への不安からです。貨幣依存社会では金のみが頼りであり、金がなくなると終わりだから、とにかく貯め込むのです。「社会的な孤立化」が経済まで閉塞させているのです。




「社会活動」を育てる規律訓練


国家にできることは限られています。基本的には貨幣分配しかできません。定額給付金をもらっても、本質的な問題は解決しません。このために贈与交換社会を自分たちでつくっていかなければいけません。

貧しい国への支援は、単にお金をばらまくのではなく、学校教育や労働手段教育などの、自らの手で国が豊かになる手段を教えることが重要であると言われますが、日本でも同じようなことがいえるでしょう。貧しい人に単にお金をばらまくだけではなく、自律的な贈与交換システムが育つように、社会活動を根付かせるように支援をする。

そのために日本も自然発生信仰を捨てて、贈与交換システムを作り出す努力をする時期にきているのでしょう。だからアメリカなどのように学校教育にボランティア活動を組み込むなど、「社会活動」に参加することを受け入れるような規律訓練による意識改革をしていく必要があるのでしょう。

すでに日本も十分に「多文化社会」になってきていると思いますので、むしろ若者には古い道徳的な規律よりも受け入れやすのではないでしょうか。いや、「社会的な孤立化」による疲弊から積極的な参加が期待できるのではないか。あるいはいっそ、徴兵制ならぬ、2年間のボランティア制を導入するのもありかもしれません。

アメリカのボランティ活動を云々する場合、まず考えなければならないのはこの国の建国のなりたちでしょう。アメリカではその長い歴史には今から考えれば信じられないほどの様々な人種差別政策もとられてきましたが、基本的には言語、出身国、宗教などを異にする人たちがお互いに助け合って厳しい環境と闘い、自らの共同体を作り上げてきた国です。共同体では人々は必要に応じて自ら学校や病院、教会などの公的機関を設立しその運営にあたって来ました。現在ではもちろんその機能はいろいろな面で建国当初とは違ったものになっていますが、それでも一般的には自分たちの住んでいる所は自分たちでよくしようとする考えはこうした歴史を背景として今もアメリカ人の中に息づいていて、ボランティア活動はいまだに多くの人々にとって生活の不可欠な要素となっています。

・・・つまり、アメリカの地域ボランティアというのは日本で考えられているように、お金や暇のある人達が片手間でやっているのでもなければ、一部の人たちが人助けのために気負ってやっているというような性質のものではなく、男女、老若を問わず各自が自らの能力や時間に応じて出来る範囲でコミュニティに関与しているというものです。住民の貢献度が高い所ほどコミュニティの質がよくなるのは当然な訳で、住民はそうしたことを誇りにし、同時に活動に熱心な組織や人材も高く評価します。


スカースデール村から 「アメリカのボランティア活動」 http://www.scarsdalemura-kara.com/volunteer.htm


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