日本人は萎縮する経済を生きるのかふたたび熱狂する経済を求めるのか

pikarrr2009-04-16

“最後の石器人”

NHKスペシャル「ヤノマミ 奥アマゾン 原初の森に生きる」 http://www.nhk.or.jp/special/onair/090412.html


アマゾンの最深部に1万年以上、独自の文化・風習を守り続けている部族がいる。欧米人に“最後の石器人”と呼ばれているヤノマミ族だ。現在、ヤノマミ族は2万人。40〜200人で一つの集団を作り、ブラジルとベネズエラにまたがる広大なジャングルに分散して暮らしている。

私たちはその一つ、ワトリキ(風の地)と呼ばれる集落に150日間同居し、彼らの言葉を覚え、彼らと同じモノを食べながら撮影を続けた。森の中、女だけの出産、胎児の胎盤を森に吊るす儀礼、2ヶ月以上続く祝祭、森の精霊が憑依し集団トランス状態で行われるシャーマニズム、集団でのサル狩り、深夜突然始まる男女の踊り、大らかな性、白蟻に食させることで天上に送る埋葬…。そこには、私たちの内なる記憶が呼び覚まされるような世界があった。

笑みを絶やさず、全てが共有で、好きなときに眠り、腹が減ったら狩りに行く。そんな原初の暮らしの中で、人間を深く見つめてゆく。

NHKスペシャルで未開社会密着「ヤノマミ 奥アマゾン 原初の森に生きる」をみた。その日本人にも近い顔から不思議な気持ちになった。差別的な発言であることをあえていえば、「動物のよう」である。たとえばペットの犬はあれほどあらわに嬉しそうに気持ちを体で表現をするが、気持ちを伝えることに絶望的な断絶がある。いくら目を見つめてもそこには「気持ちを読む」という共感が伝わることはない。おうおうに愛犬家は気持ちが通じていると過剰に読み込むが・・・

そこまではないにしても、「ヤノマミ」を見ていると近い断絶を感じた。それは文化的な大きな差異だけではなく、メタ認識をする習慣がないのだろうと思う。彼らはなぜあそこまで感情表現が直接的でベタなのか。

「ヤノマミ」を、テレビを通して見ながらネットで批評するというメタな日本人「人間は近代に生まれた」というフーコーの発言もあながち言いすぎではないと思える。あのベタさはおそらくほんのつい最近まで日本人にもあったものだろう。フロイト「人間はみな神経症である」といったが、それはメタが全面化する近年にこそ言えるのだろう。




流動する投資の影響力


通常、資本主義経済は市場主義として語られるが、ブローデルは中世から近代への資本主義の離陸(テイクオフ)分析において経済の三階建て、「自給自足/市場/資本主義」を指摘する。

ここでの「市場」と分離された「資本主義」とは資本取引である。通常の生活に密着した市場経済とは別に、裕福層のもつ大量の資本の動きが資本主義経済にあたえる影響力の大きさを指摘する。

資本取引としての「投資」「自給自足」「市場」に比べて、生存から離れた富であって、そのために流動的で、戦略的であり、経済に大きな影響を与える。このような傾向は近年の金融資本主義ということではなく、資本主義経済の始まりからの本質的な特徴であるということだ。

このような資本(投資)の影響力は、ケインズのマクロ経済分析に繋がるだろう。ケインズによると、投資の変動が「乗数的」に消費そして生産へ大きく影響してしまう。このためにケインズは政府による投資を中心とした経済への介入を主張した。

しかしマネタリズムによれば別の見方になる。旺盛な投資こそが経済を活性化する。すなわちケインズのいう貯蓄を求める流動性選好」の裏面、強い投機的動機である「リスク選好」を強調する。

安定にはチャンスはない。投資家はチャンスを求めてリスクを選ぶ。このチャレンジ精神こそが逓減原理をこえて、経済の原動力となり、終わりなく経済を成長させる。すなわち流動性選好」による萎縮する経済活動=不況と「リスク選好」による熱狂する経済活動=好況は、資本主義経済の裏表である。

要するに、どんな時でもその時の利子率は流動性を手放すことに対する報酬であり、貨幣を保持している人が貨幣に対する流動的支配権を手放したくないと思う尺度である。

・・・ここでわれわれはディレンマに陥らざるをえない。というのは、組織化された市場を欠くときには、予備動機(総資産の一定割合を将来用の現金という形でもつことから得られる完全性への欲求)による流動性選好が大幅に増大するし、組織化された市場が存在する場合には、投機的動機(将来の成り行きについて、市場よりも多くの知識をもつことから利益を獲得しようという目論見)による流動性選好は大きな変動を被る可能性を持つからである。

取引動機と予備的動機による流動性選好が、利子率それ自体の変化にあまり感応的でない現金量を吸収し、それゆえ、この量を差し引いた残りの総貨幣量が投機的動機による流動性選好を満たすために用いられるものとすれば、利子率と債権価格の水準は、現金を保有したいと思う一部の人々の欲求が投機的動機のために用いることのできる現金量とちょうど一致するところで決まることになる。P232-237


雇用、利子および貨幣の一般理論 ケインズ (ISBN:4003414519




萎縮する社会


なぜ震源地からはなれた日本がもっとも不況にあえいでいるのか、と考えるときに悪名高きケインズ公共投資論は示唆的であるかもしれない。「あまりに分別があり、あまりに堅実になりきろうとする」ことは単に「節約」ということではないだろう。将来におびえる人々、ネガティブキャンペーンをはるマスコミ、死亡原因の一位が自殺になるような若者、メタが全面化する「萎縮する社会」。これはただ政府の対策不足のせいだろうか。

過去最大と言われる経済対策にも、もはやベタに熱狂しない臆病で気難しい日本人。高齢、少子化する高度経済社会の宿命であるのか、島国日本ならではの特徴的な閉塞なのか。この気難しい「人間」はいかに生きていくべきか。 萎縮する経済活動のまま生きる方法を模索するのか、再度、熱狂する経済活動を求めるのか。

古代エジプトは貴金属の探索とピラミッド建設という二つの活動をもった点で二重に幸運であったし、伝説的なその富も疑いなくこの事実に負っている。というのもその果実は、それが消費されることによって人間の用に供するというものではなかったために、潤沢のあまり価値を減じることがなかったからである。

・・・要するに、われわれは、あまりにも分別がありすぎ、あまりに堅実な財政家になりきろうとしすぎる。子孫のために彼らの住む家を建てよう、そのために彼らに余分の「財政」負担をさてもらわなくてはならない、そう決断すればいいものを、その前にあれこれ余計なことを考えてしまう。だから、われわれは、失業という苦境から簡単に抜け出すことができないのである。P181


雇用、利子および貨幣の一般理論 ケインズ (ISBN:4003414519