なぜ正社員雇用の流動化には慎重であるべきか

pikarrr2009-05-09

社畜」でなければ社会的成員でない

長期雇用を求めたのは経営者だった。第一次大戦後の好況で賃金が高騰したため、鐘紡の武藤山治「家族主義」をとなえ、医療や年金などのfringe benefitを創設した。そのねらいは熟練工を企業内に囲いこんで自由を奪い、労働市場の競争圧力を弱めることにあった。

賃金を引き上げるには、基本的には労働生産性を上げるしかない。そのためには労働市場を競争的にして自然失業率を下げ、労働者が会社を選ぶ外部オプションを広げることが長期的な解決策だ。そういう改革がネオリベだとかいう下らない議論は、会社に一生しばりつけられる社畜を理想化する固定観念にもとづいているが、多くの調査結果が示すように、日本のサラリーマンの大部分は自分の会社に強い不満を持っている。彼らは転職のオプションが絶たれているために、会社にしがみついているにすぎない。

このような社畜状態を家族主義とか「人本主義」などという言葉で美化する傾向は、財界から労働組合に至るまで共通だが、彼らの既得権の外側にいるフリーターはそんな価値を信じていない。そしてグローバルな水平分業によって日本型の文脈的技能の価値は低下し、ポータブルな専門的技能が重要になっている。


社畜はいかにして生まれたか」 池田信夫 blog  http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/2ee44e16556a8e9c3b182a3a4db4c4eb

最近の池田信夫 blog」http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/は、長期雇用(終身雇用)を批判して雇用の流動性をあげるべきだというというエントリーが続いている。この考えそのものは間違いではないとおもうが、現実の問題として日本がそもそも「企業中心社会」であるということを考える必要がある。

景気対策にしろ、環境問題にしろ、政府は企業を通して社会を変革するように進める。そして人々は企業を通して社会的な利益と義務を受け取る。だから正社員でなければ、正当な社会的成員として扱われないことが本質的な格差を生んでいるのだ。




社畜は会社でなく会社中心社会にしがみついている


このような企業中心主義による長期雇用システムが行ったことは、単に長期的な賃金の保障だけではなく、それまでの地域社会コミュニティを分断し、企業内コミュニティに人々を組み入れたことである。すなわち単に賃金の問題だけではなく、社会的な助けあいの関係がいまだに企業を中心に形成されている。正社員でなければ、社会的に孤立してしまう。

それに対抗して、外部労働市場でも通用する労働者になるよう自分を磨くこと、というのはよくいわれるが、どれだけの人が企業という強者に対抗できる技術を身につけることができるだろうか。一時的にちやほやされてもいつまでそのような一線でいられるだろうか。いつの時代も長期的に生活を安定させるということは、競争に勝ち続けることではなく、負けても助けてもらえるような社会的な信頼関係に帰属することである。社畜の本質は会社にしがみつくことではなく、会社中心社会にしがみつかざるおえない日本の社会構造にある。




単なる自由化は強者を優位にする


現在、企業が正社員の雇用の流動性を求めるようになっているのは、なによりも長期雇用による人件費の確保が負担になっているためであり、現在の企業中心の慣習の中で、安易に正社員雇用の流動性を高めれば、派遣切りの二の舞になることは目に見えている。

この不況で派遣切りにあう前にフリーターや派遣社員の増加は、企業中心主義社会の崩壊を象徴する現象でもあったはずである。それが企業の業績悪化によって雇用の調整弁とされた。企業中心主義社会が続く限り、企業の強者の論理によって正社員の一部に同様なことがおこるだけである。そして切られたものは社会的な弱者として孤立してしまう。

そして雇用の流動性を高めて、正社員を切り各企業が利益の確保をはかったとしても、多くの失業者が溢れ、将来への不安が増して、景気は回復しない。結局、これは新自由主義政策の二の舞である。ただ自由にすることは競争が活発化するとともに強者が優位になることである。




企業中心主義からの脱却


それでも、現実問題として雇用の流動化を進めなければ、国際競争の中で日本企業は生き残れないだろう。だから問題は、企業中心主義社会そのものが立ちゆかなくなっていることであり、雇用を流動化するとともにいかなる企業中心社会から脱却していくかということだろう。

もはや成熟した社会では経済成長率は望めないかもしれないが、「希望を捨てる」必要はないと思う。ベタにいえば、幸せは経済的よりも社会的であるからだ。若者はそれ(企業中心主義からの脱却)を学び始めているようにみえる。

このような慣習的な社会変革は時間がかかる。このために、長期的には必要であっても、社会的な信頼関係に根ざしている正社員の雇用を流動性させることは慎重に行う必要があるだろう。

これから始まる長期停滞においては、少子化とあいまって、ほぼゼロが自然な成長率になるだろう。こんな狭い国に1億3000万人も住んでいるのは多すぎるので、少子化は悪いことではない。しかし椅子にしがみついた老人たちは、退場するとともに椅子も持ち去り、将来世代には巨額の政府債務とマイナスの年金給付だけが残る。

こういう将来を合理的に予測すれば、それに適応して生活を切り詰め、質実で「地球にやさしい」生活ができる。日本は現在の欧州のように落ち着いた、しかし格差の固定された階級社会になるだろう。ほとんどの文明は、そのようにして成熟したのだ。「明日は今日よりよくなる」という希望を捨てる勇気をもち、足るを知れば、長期停滞も意外に住みよいかもしれない。幸か不幸か、若者はそれを学び始めているようにみえる。


「希望を捨てる勇気」 池田信夫 blog  http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/6f12938eaad206d10b7629456f0a051e




追記
 

この表でもわかるように、終身雇用と呼べるような実態は従業員1000人以上の大企業の男性社員に限られており、その労働人口に占める比率は8.8%にすぎない。これは戦後ずっと変わらない事実であり、終身雇用が日本の伝統だなどというのは幻想である。


「終身雇用という幻想を捨てよ」 池田信夫 blog  http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/bd13735ee5e9dfbda0f5855a522a8016

この考察には疑問が残る。終身雇用とは必ずしも同一企業にいることではない。大企業は多くの子会社などの系列をもち、天下り的な出向を行うために、生涯同一企業にいることはほとんどない。それでも雇用は確保される。このデータではそれが見えない。おそらく、実質的な終身雇用はもっとずっと多いのではないだろうか。