不干渉社会が過剰な不安を生む日本の病い 

pikarrr2009-05-26

「日本の病気は集団ヒステリー」 

日本の病気は、豚インフルエンザではなく、集団ヒステリーである、と。日本は、今後も素晴らしい可能性があるいい国だが、いまは精神的に不安定で弱い、と。

国際空港ターミナルで、日本人だけマスクマン。その光景は、国際道徳に反するなどではなく、滑稽だ。・・・ガラパゴス化は、技術ではなく国民性になってしまったようだ。

しばらく日本のテレビを見ていないので想像でしかないが、きっとメディアが、日々恐ろしいことを繰り返し、人々の恐怖をあおり、時には誰かを血祭りにし、その直後にお笑いなどのエンターテイメントを放送しているのだろう。そのメディアの「戦略」は、9・11以降のアメリカと同じである。そして、大きな物語に国民全員が飲み込まれていく。


「メディア・パンデミック。」 TSUYOSHI TAKASHIRO BLOG http://blog.honeyee.com/ttakashiro/archives/2009/05/11/post-124.html

このような日本の「集団ヒステリー」な特性は、今回のインフルエンザ騒動にはじまったことはないだろう。様々なバッシング騒動などに見られるように特に近年、日本内の同調圧が高まっているように思う。

このような同調圧の高まりの原因を考えるときに、日本が高い不干渉社会になっていることが逆説的に関係するように思う。




不干渉社会が過剰な干渉を生む

現代の人間関係は冷たいと言われる。これは必ずしも正しくない。なぜなら現代社会では冷たくすることは、必要以上に他者に干渉しないという現代の儀礼であるからだ。だから安易に他者を助けることは、大きなお節介、干渉であり、さらにはそこにいかなる見返りを求められるのかと脅威ともなる。現代において、人を助けるという行為はとてもむずかしいのだ。

現代においてペットを飼うことの理由の多くは、ペットという存在はなんの気兼ねもなく、無償に助けることができるからだ。現代では、家族であっても、また恋人であっても無償の愛を注ぐことは難しい。だから人はペットへ無償の愛を与える。そしてそれが癒されるのだ。>


なぜ誰もが誰かを助けたがっているのか 映画容疑者Xの献身 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20090323#p1

容疑者Xの献身直木賞もとったが名作ミステリーだと思う。(映画を見て小説は読んでいないが)あそこに描かれた過剰な空回りの「献身」にはもの悲しくなったが、まさに現代の日本人の一面を象徴しているのではないだろうか。

不干渉社会は、各人を孤立させることで、疑心暗鬼を生みだし、社会に軽いパニックを生み出しているように思う。それによって献身することの希少性が高まり、ごく身近な者への干渉が過剰になっている。たとえばオレオレ詐欺やモンスター化のような滑稽な現象に現れている。

あるいは、身近な者からも回避した人々は、メディア情報に過剰に反応してしまう。他者回避、不干渉であるはずが、逆説的に間接的な形態で過剰干渉社会を生んでいる。たとえばネット住人の多くは社会的には人々との干渉を避けているにもかかわらず、炎上などのようにメディアの話題に関しては過剰に反応し、そして社会に影響を与えることを楽しんでいる。それとともに自らも没入していることのだ。




不干渉社会と低経済成長


このような傾向は、「集団ヒステリー」というような一過性の症状ということではなく、ここしばらくの間の日本社会の閉塞性の裏返しとなっている。そして社会的な影響以上に問題だと思うのが、この社会的な閉塞が経済上の閉塞を生み出しているのではないか、ということだ。

日本経済の慢性的な低成長率、あるいはなぜ不況の震源地でもない日本の不況が世界的にみてもこれほど深刻なのか。不干渉社会の神経症は、メディア情報に過剰に反応し、「メディア・パンデミックを起こし、将来への不安にさいなまれる。そして将来への不安は消費・投資への意欲を冷え込み、経済(有効需要)そのものが萎縮する

どう考えても日本は裕福な社会であるはずだ。日本に比べれば世界のほとんどの人々はいまを生きるために将来さえ考えられない。なのに日本に悲観が蔓延する。そして心理的な不安が「豊富の中の貧困というパラドクス」を生み出すという負のスパイラル。マスコミのネガティブキャンペーンがひどいというような一過性の問題ではなく、日本が抱えるかなり深刻な病いといえるだろう。今回、はからずもマスクを通してあらわになってしまった。
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