ポストフォーディズムの生産消費者  非金銭経済の復活 その7

pikarrr2009-06-15

「生活への資本の全般的支配」「全面的に逃れるための可能性」


トフラーがいう「生産消費者の復活」を左派側から分析したものにネグリヴィルノなどイタリアのアウトノミア(左派)がある。

高度成長期には、フォーディズム、テイラーシステムなど生産の効率化が進められ、労働者は空間、時間的に工場に組み込まれていたが、成熟期を迎えてもはや高い経済成長率が見込めないことで、ポストフォーディズムの時代に入る。

企業は労働者を抱え込むことが困難になり開放する。それとともに高い生産性を求めることで、工場と社会、生産と消費の境界が解体されて、労働者は日常の中で自らを高めるために興味があることを学習する、あるいはパート労働者として必要なときに働くことになる。

このようなネオリベラルな状態を、「生活への資本の全般的支配として解釈するのか、それともそこから全面的に逃れるための(労働者の)高度の可能性として解釈するのか」前者が左派であり、後者がトフラーなどの保守派(中道右派)とともに、リベラル(中道左派)である。

日本の派遣社員は雇用の調整弁として問題なっているが、景気が良いときは新たな自由なライフスタイルと言われたこともあった。さらにいえば、このような対比そのものから退避するのが、オタク、ネット住人などの創造消費者である。生産性が向上した生産現場で生活の糧をえて、残りの時間で「第二の人生」を生きる。




投資の贈与交換性


ボクは左派の見解を支持したい。ここで議論になるのは「経済とは透明か。」ということだろう。経済は合理的に作動する機械であるということではなく、一つの生き物であり、そこには変化させる「資本」という動力がある。

商品等価交換は機械的な作動であるが、投資は違う。投資は交換を時間的な延滞することで、そこに「信頼」が入りこむ。言わば贈与交換である。商品等価交換には貸し借りのような関係はなく、瞬間的で関係性は解消される。それに対して贈与交換は貸し借りという関係を継続することでそこに力関係が生まれ、力の場に人を拘束する。

基本的には貨幣交換には純粋な等価交換は存在しない。10円でガムを買う場合でさえも、どのメーカーのガムで、どこで買うかなどの関係があり、そこに小さな贈与交換性が生まれている。さらに賃金に特徴的である。なぜ労働力と賃金は等価交換されているはずなのに、多くにおいて労働者は企業に負債感を持つのか。あるいはバイトでは負債感が低く、等価交換に近いのか。




資本関係の力学場


労働者の負債感は企業への帰属意識を生み出し、さらに習慣化することで「規律訓練」として作動する。これは贈与交換の特徴そのものである。ここで重要であるのは、ただ「規律訓練」心理的な力ではないということだ。規律は環境へと具現化して、人々はそこで生きることで訓練され、習慣化されている。

あるいは現代では、環境も流動性が高いためにコード化されて、アーキテクチャとなる。レッシグアーキテクチャを自然環境とのメタファーで語るが、現代のアーキテクチャの特徴はコード化され、力によって容易に変化することである。

すなわち資本は本質的に利潤という落差をもって力学場を形成し、アーキテクチャを変形させ、人々を配置、そして流動化させる。それが「資本優位のフレキシビリティ」である。

政府、投資家、銀行、企業、労働者、消費者・・・は擬似的な資本という擬似贈与関係の力学で結ばれている。「生産消費者の復活」も、Googleアーキテクチャも、サイバーリバタリアンも、環境対応も一つの力学場として捉える必要がある、いうことだ。




「自由論」 新しい権力地図が生まれるとき 酒井隆史 (ISBN:9784791758982

フォーディズムにおいて工場から社会へと(ほとんど)一方的な関係が成立していた。フォーディズム体制においていわゆる「規模の経済」が成立したのも、こうした関係を背景にしてである(モノをつくればだいたい売れるということ)。ところが現代において、「成熟した」市場は「有限」であり、その商品吸収能力は硬直的で飽和的である。したがって、市場吸収力を越えるものはすべて排除される必要があり、それが首尾よくなされるかどうかは資本にとって死活問題になる。・・・生産は過剰に量を増大させず、かつ同時に生産性を上昇させるというかたちで構造化されなければならない。フォーディズム期とは異なり、生産をあらかじめプログラムすることはもはや不可能である。そのため、工場は市場に直結して自らを共振させ、変容することのできるオート・ポイエーシス的システムとならべばならない。

生産の意味そのものも変容する。インターフェイスとしての労働は工場から溢れだし、ネットワーク、フローというかたちで貯水槽として社会総体のうちに分散している。・・・こうして工場に限定されない社会総体と外延を等しくしながら拡がる水平的平面が、資本優位のフレキシビリティ、つまり資本主導による雇用の弾力化の条件である。・・・私たちは常態としてパート労働者なのであり潜在的にはつねに「失業者」なのである。P39-41

知的労働あるいは非物質的労働は、労働時間と非労働時間とを明確に区分しない。たとえば商品の企画、アイディアをひねり出す作業。それは、職場から帰ったあとも、飲みに行こうが風呂にはいろうが、寝つくまえのベッドだろうが私たちの生活にとりつくだろう。この労働は、それが支出する場所も時間も特定することはないのだ。・・・その平面は、一方では、新しい権力テクノロジーをむすびつき社会総体を利潤生産の場として形成することで「資本による実質的包摂」の完成をしるしづけている・・・この平面を利潤形成へと向けて収斂させて解釈するのか、つまり生活への資本の全般的支配として解釈するのか、それともそこから全面的に逃れるための高度の可能性として解釈するのか、それが問われている。

知の社会化を表現する言葉が、「大衆知性」である。・・・大衆知性とは、「水平的に社会を横断して拡がる集団的インテリジェンス、蓄積された知的力」であり、特定の集団にのみ限定されるものではない。・・・それは多かれ少なかれ現代社会の人間総体を規定している。こういう概念によって示されているのは、ポストフォーディズムの資本主義における開放的ポテンシャルを明確に指示するためである。・・・資本は現在こうした実践を自らの価値形成の源泉としてそのまま組み込んでいる。資本は労働者の協働にとって外部からコマンドを下し、そしてその生産物をわがものとする、その意味で、資本はますます「寄生的」性格を剥き出しにしているのだ。P45-48


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