なぜ自由主義に主権は存在しないのか

pikarrr2009-06-27

主権と統治は例外状態で交差する


渋谷は著書「魂の労働」の中で、フーコーが明確に示さなかった主権と統治の関係を考えている。フーコーの転回といえば、それまで上下の主権による抑圧の関係だった権力を、統治という横の権力として描いたことにある。しかしフーコーは主権を否定したわけではなくともに働くものとしたが、その関係を明確に語られなかった。それは再び、左派的な大きな主権にもどることを嫌ったからだろう。

渋谷はこの二つをつなぐキーワードとしてアガンベン(シュミット)の「例外状態」をもってくる。主権は例外状態に決定するものである。また統治は法に依拠しない例外状態に作動する。ここにおいて「統治と主権は交差する。」

フーコーが)近代の権力の付置として提出されたのが、「主権−規律−統治」の三角形である。・・・だがフーコーは両者(主権と統治)の関係について−というより主権そのものについて−それ以上に詳しく言及していない。一般的には、主権とは、対外的には国際秩序の基盤として、対内的には法を制定する権利とみなされている。また統治は、フーコーによれば、「法的なもの」(=主権)には依拠せずに、あるいはそれを利用しながら、行使されるミクロな権力といえよう。このように整理すれば、主権権力と統治権力とは、いわばマクロ−ミクロな領域で、それぞれの役割を分担しているといえるかもしれない。

アガンベンは主権を、シュミットにならって、例外状態における法の停止によって基礎づける。「主権者とは例外状態に関して決定を下す者をいう」(シュミット)。両者の接近が可能にあるのはここにおいてである。主権は、権力を行使されるその対象を例外状態に留め置くことによって作動する。他方、統治も法に依拠せずに作動する。法の遵守は必ずしも「よき統治」を帰結しないからである。つまり法を凌駕する原理として−例外状態において−<統治>と<主権>は交差する。P212-213


「魂の労働―ネオリベラリズムの権力論」 渋谷望 (ISBN:4791760689




自由主義「危険と背中合わせに生きる」


フーコー自由主義の特徴の一つとして危険の常態をあげている。だから「安全」という統治が重要になる。ここでいう危険とは不確実性だろう。封建社会のように人々が社会に埋め込まれるのではなく、たえず可能性に開かれる。それは不確実性を現前化するということであり、自由でありまた危険でもある。

自由主義において不確実性を開く代表が貨幣-商品等価交換だろう。等価交換には絶えず、本来比較できない価値を比較するという不確実性をともなう。徳をするからしれないし、しないかもしれない。マルクスはこれを「命がけの飛躍」と呼んだ。

この剥き出しの危険を「運営」するのが自由主義統治である。フーコー自由主義統治性において、自由はただ「自然」に放置するのではなく、消費するものであり、生産するものであり、積極的に運営するものである、という。それは剥き出しの不確実性を、管理されたリスクとして運営することである。

自由主義は利害関心を取り扱うことができるためには必ず、危険を運営し、安全と自由とから成るメカニズムを運営しなければなりません。自由主義は、安全と自由の作用を運営することによって、個々人と集団とができる限り危険にさらされないようにしなければならないのです。

結局のところ自由主義の標語は、「危険と背中合わせに生きる」であるということです。「危険と背中合わせに生きる」とはすなわち、個々人が絶えず危険な状況に置かれている、というよりもむしろ、個々人が、自らの状況、自らの生、自らの現在、自らの未来を、危険を孕んだものとして感じるよう条件づけられている、ということです。・・・至る所で危険の恐れによる刺激が見られるということであり、これがいわば自由主義の条件であり、自由主義心理的相関物、その内的陶冶における相関物なのです。P81-82


「生政治の誕生」 ミシェル・フーコー (ISBN:4480790489




自由主義に主権は存在しない


だから自由主義では主権は例外状態において決定しない。決定してしまえば自由は死んでしまい、自由主義経済は成立しない。主権は例外状態に決定するのではなく、ただ調整する。調整することで得られるのは情報である。そしてその情報によって優位にリスクを管理する。この情報の非対称性こそが利益を生む。人々が知らない情報を得ることで優位に(投資)交換を進めることができる。

主権者が例外状態において決定するとき、主権者は臣民に対してメタレベルにいる。だが自由主義では例外状態は主権にも開かれたままである。そして例外状態にメタ言語は存在しない。」不確実性の前では誰もが平等である。ただ情報の非対称性による優位性があるだけだ。自由主義において統治権力が働くのにそこに主権が見えない理由はここにある。そもそも自由主義において主権は存在しない。優位性を求めて自由を管理しようとする主権もどきたちの権力闘争があるだけである。

私が自由主義的」という言葉を用いるのは、まず、ここに確立しつつある統治実践が、しかじかの自由を尊重したり、しかじかの自由を保障したりすることに甘んじるものではないからです。より根本的な言い方をするなら、この統治実践は自由を消費するものです。・・・自由を消費するということはつまり、自由を生産しなければならないことでもあります。自由を生産し、組織化しなければならないということ。したがって新たな統治術は、自由を運営するものとして自らを提示することになります。

・・・自由の生産と、自由を生産しながらもそれを制限し破壊するリスクをもつようなものとのあいだの、常に変化し常に動的な一つの関係が、そこに創設されるということです。P77-82


「生政治の誕生」 ミシェル・フーコー (ISBN:4480790489


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