なぜムラ社会「2ちゃんねる」は終焉したのか

pikarrr2009-07-09

洗練されるネット社会


ブログをはじめてから5年、定期的にネット界隈について語ってきたが周りの様子も大きく様変わりしたなと思う。単にネットサービスの変化だけではなく、そこに「住む」人々の様相も変化した。たとえば、

・ネット/実社会の境界が薄れた・・・かつてはネットというものに実社会とは異なるものを見いだしていた。 社会事態もネットというものを特別なものとして見ていた。もはやそのような境界は薄れている。

・匿名性が薄れた・・・それとともに、ネットでは匿名であるということが薄れた。実社会を連続的にネットで生活する人々が増えた。

フレーミングが減った・・・かつては炎上といえば、議論の白熱のことであった。ネット上の議論は互いに真剣であるほどに白熱し、プライドをかけたものになった。しかし最近、炎上といえば、失言に対しての攻撃の意味であって、以前のような過熱した議論をみなくなった。ネット上のコミュニケーションの距離感が身についている。

・メタコミュニケーションが減った・・・議論の白熱と関係するだろうが、過熱する議論を回避するために皮肉なズラすコミュニケーションが減った。適度に発言し、適度に回避する。




ネット上の社会の純粋性


ネットには大きく二つの面があるだろう。一つはデータベース面。必要な情報を安価に速やかに交換しあう。あるいは大量の情報があり、検索機能によって必要な情報を速やかに入手することができる。これらは主に実社会の「生産性」と結びついている。

もう一つはネットの社会面である。ネット上には実社会と異なるコミュニティが生まれている。しかしわざわざネットという困難な場所に新たな「社会」を作る必要があるのだろうか。主に匿名でテクストのみを交換するという極限のコミュニケーション環境においてである。そもそもこれは「社会」なのだろうか。

「社会」を考える場合、二つのことを考える必要があるだろう。一つは動物にも群れという社会があるように協力しあうことが生存に有利になるということだ。もう一つは人間に特有であるが「他者」の特別性である。言語をもつことに関係するだろうが、他者はほぼ自分であるのに自分ではない=完全にコミュニケーションできないジレンマをもつ。だからその存在に恐怖し、そして魅了される。これを「想像的な関係」と呼ばれる。

ネット上の社会にも協力関係という生産的な関係性もあるが、それ以上に「想像的な関係」が浮上する。匿名の他者と出会うことで、他者性が純化し、人を魅了する。すなわち伝えたいことがあってコミュニケーションするのではなく、コミュニケーションすることそのものへ人を向かわせる。究極の「コミュニケーションゲーム」であり、ネット中毒へ繋がる。

また実社会では、会話しなくても、そこに存在するだけで、「空気を読む」というような暗黙のコミュニケーションが成立する。しかしネット上では本質的に発言そのものが存在を表すために、まず発信することそのものが重要になる。

ネットに溢れる無意味なテクストの散在は存在の痕跡でもある。そしてこのような大量の痕跡によってネット上の社会は成り立っている。ネット上にサービスが提供させることで社会となるのではなく、そこに多くの痕跡が積み上げられることで、社会は自律的に現れ、さらにそれに荷担するようにレスをくり返し、また社会は変容していく。ネット上の社会は実社会よりも自然自生的な秩序によって柔軟に発生し変容する。




ネット上社会は「関心」のエコノミーで作動している


ネットは無法地帯のように言われてきた。確かに新たに生まれてまだまもなく未成熟であるが、それだけではないだろう。ネット上の誹謗中傷や有害情報の公開、著作権侵害などの違法が氾濫するのはネットに秩序がないわけではなく、ネットは自らの秩序をもって作動しており、それが実社会の秩序と必ずしも同じではないからだ。

実社会の私有地では侵入者が入らないようにセキュリティが施されているように、ネットでも同様で私的な領域では私有地は技術的なセキュリティによってブロックされている。また実社会の公開された領域では「公共的な規律」が働いているように、ネットの公開されている領域にも同様な「公共的な規律」が働いている。

市民社会の成立が近代の自由主義経済の成立と関係するように実社会では「それぞれが経済活動に貢献する」ということを前提にして公共的な秩序が維持されている。そしてネットでもデータベース面は実社会を補強するように同様な秩序のもとに機能している。

だがネット上の社会面で前提とされているのはそれとは異なり、「コミュニケーションを成立させよう」という秩序である。ネット上の社会でもっとも価値を持つものは他者の「関心」であり、みなが「関心」を求めて活動し社会性を高めている。実社会が「貨幣」のエコノミーで作動しているとすれば、ネット社会は「関心」のエコノミーで作動している。

だからネットの社会設計では、「関心」をいかに管理するかが重要になる。基本的なところは、アクセス数、コメント数、被リンク数などだが、ただ「関心」は量的なものではなく、ネットは誰が見ているかわからないことが、まさにパノプティコン(一望監視装置)的な「まなざし」をねつ造する。そしてこの「まなざし」の経路をとおって規律訓練権力は作動する。




2ちゃんねるというムラ社会の終焉


2ちゃんねるもまた「関心」を中心に作動している。2ちゃんねる「関心」はレスがくり返されること、レス番号が進むこと、そのレスの流れの速さによって管理され、「コミュニケーションが成立している」という公共空間が表出する。

一時期、ネット上の社会といえば2ちゃんねるのことであったように集客を可能にした要因の一つは、「関心」の管理をレスのボリュームで行ったためだろう。それによって人々の無意味な大量のレスを許容した。いまでもそれこそが2ちゃんねるという社会設計である。(同様な関心の管理方法は他でも行われていたので、なぜ2ちゃんねるであったのかという歴史的な理由は別に求められるが。)

このような2ちゃんねるの秩序において、誹謗中傷や有害情報の公開は「関心」を集中させるネタでしかない。著作権は実社会の「経済活動に貢献する」価値であって、「コミュニケーションが成立している」ということが、実社会の「経済活動に貢献する」ことよりも優先されるネット上の社会では、容易にコピー&ペーストされて著作権は価値を持たない。

それにもかかわらず、のま猫問題で2ちゃねらーがエイベックスの盗作を断罪したのは、貨幣価値の問題ではなく、それが2ちゃんねる社会の象徴であったからだ。2ちゃんねるは大量のレスの山によって強い帰属意識をもつ「村社会」を作り上げた。

そして2ちゃんねらーアイデンティティに目覚めたのは、まさに実社会という外部との差異によってである。エイベックスがのま猫を侵害する、実社会から2ちゃんねるが不気味なものとして見られる、マスコミに取り上げてもらうことを喜ぶ田舎者などによって、ムラ社会的な帰属意識が目覚める。

このようなムラ社会のピークが電車男であり、それが終わっていることを明らかになったのは「加藤事件」ではないだろうか。加藤は電車男になることを夢見て、そしてなれずにネット上のムラ社会(だろう場所=アキバ)へ向かって突入する。




ムラ社会から洗練された「都会」


ネットムラ社会からの変容は、ネット人口が増え、様々なサービスが登場し、「関心」が適度に管理されてきたことによるだろう。ブログではブックマークやトラックバック自動リンクなど、mixiではマイミクや足跡、ニコニコ動画ではコメント表示など、社会秩序が維持されるように「関心」が設計・管理されている。

もはや2ちゃんねるそのものがネット上の社会であるようなムラ社会的な強い引力はないだろう。ある興味の対象を紡いで様々なサービスがネットワーク化しており、もはや2ちゃんねるの関連するスレッドは一つの掲示板でしかない。いまでは2ちゃんねるはネット上の社会の中心の一つでしかなく、2ちゃんねるでの「関心」をもとめて、争うように大量のレスを投下する必要はない。

実社会の都会の規律を支えるのは儀礼的無関心である。それを可能にするのは整頓されたマクドナルドな公共空間」である。ネット上でも「関心」環境が整備されることで、「関心」への過剰さは薄れて、儀礼的放置」のようなものが浸透してきている。このような関心への軽さがネット上の社会を洗練し、ムラ社会から「都会」へ向かっている。

たとえば近年、確実に国家によるネット上の表現への規制は進んでいるが、それに対する反発は強く表れない。もはやネットユーザーそのものが、ネット社会の秩序(コミュニケーションを成立させる)ことよりも、実社会の秩序(それぞれが経済活動に貢献する)ことを重視し始めている。ネットのムラ社会の過剰さ、実社会の秩序との衝突に対して冷めてきている。

さらに強化される規制によって定期的に逮捕者を出すことが、実際にどこまで監視できているかに関わらず、ネットは監視されているというまなざしがパノプティコンとして作動している。このような監視をネットユーザーも許容し始めている。すなわちムラ社会の解体がネット上の社会への帰属意識そのもの、すなわちネット上の社会というものを希薄化させている。




ケータイ族の大移動


このようなネット上のムラ社会の解体の転機はケータイ族の大移動」ではないだろうか。特に日本のケータイでは入口のメニュ−をきれいに装飾し囲うことで、実社会の延長戦として、有料であるから安全であるサービスが提供されているようにユーザーに錯覚させ、訓練することに成功した。そしてケータイというツールは身近な人たちとのメールに始まり、知らない間にネット上の社会にいるというように、実世界とネットの境界を感じさせないように設計されている。

そもそもネット上の社会は、アメリカから輸入されたもので、ケータイ使用より先に、ネットにふれた世代は、ネットのサービスは実社会から解放されてただで自由であるべきだというアメリカのサイバーリバタリアン文化の洗礼をうけている。このために金額にかかわらず、ネット上のサービスにお金を払うことに抵抗感がある。だからケータイ族が当然のようにお金を払う姿には違和感をもつ。しかしケータイ族は実社会の秩序の連続性でネットを利用し、そもそもネットムラ社会への帰属意識が希薄な人々である。




ネットは有望な経済活動の場へと洗練されていく


梅田望夫「日本のWebは「残念」という発言が話題になったが、ボクは日本のネット上の社会の公共性は洗練され、多様化し、それぞれ専門の内容のレベルも確実にあがってきていると思う。もし梅田が「残念」というならば、それは日本のネット社会というより、「日本人は保守的で自己主張しない」というような近年の日本社会そのものがもつリベラル(中道左派)な言説への無関心だろう。

ネット上の社会が希薄しつつあるなかで、もはや「ネットは〜だ」という言説そのものの意味はなくなっているのではないだろうか。社会に実社会とネットの差異はなく、ネットは多様化するコミュニティの生産性を高めるツールになっている。それはもともとあったネット機能であって、回帰しているといっていいだろう。すなわち「コミュニケーションが成立している」という社会性よりも、「それぞれが経済活動に貢献する」という経済性のツールとして、実社会を引導していく役割へ回帰している。そして今後、より有望な資本主義的市場の一部として洗練されるでしょう。

これは、単純にネット全体が安全・安心な公共空間に向かっていることではない。ネット上は相変わらず危険がいっぱいであるが、ムラから都会へ洗練されているということは、実社会のように表向きは安全な公共空間であり、危険な裏面は地下へ潜伏するという棲み分けが進んでいるということだ。それが自由主義的統治テクノロジーによる洗練である。



十九世紀以来ずっと、市民社会は、哲学的言説のなかで、そして政治的言説の中でも、・・・統治、国家、国家機構、制度などに対して、自らを認めさせ、それを戦い、それに対抗し、それに反逆し、それから逃れるような現実として参照されてきたということです。私が思うに、この市民社会に対して付与されている現実性の度合いに関しては、慎重になる必要があります。市民社会は、台座として役立ったり、さらには国家ないし政治制度に対立するための原理として役立ったりするような、歴史的かつ自然的な所与ではありません。

・・・権力の諸関係とそうした諸関係から絶えず逃れるものとのあいだの作用から、いわば統治者と被統治者との境界面に、相互作用的で過渡的な諸形象が生まれるのであり、・・・今の場合には市民社会、別の場合には狂気などとよばれうるのだということです。したがって、市民社会は、統治テクノロジーの歴史における相互作用的現実の要素です。この相互作用的現実は、自由主義と呼ばれる統治テクノロジーの形式そのもの、すなわち、それが経済プロセスの種別性とかかわるまさにその限りにおいて自らの自己制限を目標とするような統治のテクノロジーの形式そのものと、完全に相関的であるように私には思われます。P365-366


「生政治の誕生」 ミシェル・フーコー (ISBN:4480790489


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*1:画像元 拾いもの