なぜ知識人は現代の超・格差を語れないのか セカイ系権力の誕生

pikarrr2009-07-24

歴史を予測することの胡散臭さ


ボクたちは「歴史」は不可逆性(1回性)であって、そこに何らかの法則性を見出し語ることが胡散臭いことを知っている。この歴史の不可逆性は、進歩史観とは違う。進歩史観は時間的な法則性を見出そうとすることである。「歴史」の不可逆性はなんの法則性も見いだせない。なにが起こるかわからない不確実性があるだけだ。

それにも関わらず、自分自身の生活ではなんらかの反復・法則性を見出そうとする。自らも「歴史」の一部であることに目をつぶろうとする。体験したことがくり返されていくのだろうと考えることは、生きる知恵である。もし体験したことが将来にまったく無効であれば、ボクたちはなにを頼りに生活を保障すれば良いのかわからない。だから体験を時系列に並べラインを引き、未来へと外挿し予測する。これは個人的な問題ではなく、社会秩序というマクロレベルの計画として実行される。近代の進歩史観はこのようなマクロ思考から生まれてきた。そしてまたマクロ思考の社会整備が進歩を生み出した。




科学技術はミクロレベルの不確実性を増幅する


歴史の前では、このようなマクロレベルの予測はより未来になるほどはずれる。だからマクロレベルの整備とは歴史の不確実性をリスク管理することである。将来におこる危険を回避するために行われる。しかし逆にこのようなマクロレベルの管理自体が不確実性を増幅させている面がある。不確実性をリスク管理することで不確実性を増幅しているという二面性があるということだ。

たとえば高速道路は自動車専用として交通環境を管理し安全で速やかな交通を可能にする。しかしまたその円滑さ故にスピードを出しやすいなど新たな危険を生み出している。それは、運転手一人一人のミクロレベルの状態が大きな事故をおこし、日本中の輸送状況というマクロレベルへ影響を与えてしまう。このようにミクロレベルの現象が増幅されてマクロレベルへ大きな影響を与えることは科学技術発展の特徴である。




小さすぎて見えない巨大権力


歴史の不可逆性(1回性)がマクロレベルでは管理されず、無数のミクロレベルから生まれる不確実性であるとすれば、マクロレベルの管理の発展はミクロレベルのゆらぎを増幅し、歴史の不可逆性を加速させているといえるだろう。

蝶の羽ばたきが地球の裏側の気候変動を引き起こすというようなマクロレベルの確率論(カオス理論)の話ではない。権力の話である。マクロレベルへ行使するチャンネルに近い者=権力者のミクロな私感が、マクロレベルへ「短絡」し大きな影響として波及してしまう。戦争であり、政治であり、経済であり、金融であり、グローバル化するマクロレベルへ容易に「短絡」してしまう。

仮に、ネグリ「帝国」など最近のサヨクがいうように、グローバルな権力が透き通って捉えにくいとすれば、それは単に「生権力」と呼ぶだけでは不十分なのである。生権力というマクロレベルへ影響を与える権力者たちの行為があまりにミクロになりすぎて見えなくなっているのだ。

ここでいう権力者はかつてのように終身的な権力をもっているわけではなく、また大きなイデオロギーや世界を変えようと言う意図を持っているかどうかに関わらず、小さな部屋の中でのその場の私欲というミクロレベルがマクロレベルへ影響を与えてしまう。たとえば今回の世界を巻き込んだ大不況が一人の男のささやきによって起こったとしてもおかしくない状況なのだ。




セカイ系権力の誕生


少し前にエヴァンゲリオンなどの作品がセカイ系と呼ばれて流行った。主人公の行為がセカイの破局へ影響を与えてしまう。しかし主人公はヒーローではない。使命をもってセカイを救うわけではなく、身近な者を助けたいという卑近な想いがセカイの運命へ短絡する。

ここで起こっていることも権力者が思想や意志をもって世界を変えようとすることではなく、ミクロで卑近な想いが自らの想像をこえたマクロレベル(グローバル)に多大な影響を与えてしまう。これはセカイ系権力」とでも呼べるようなものだ。

セカイ系権力のひとつの問題はこのような権力をいかに捉えて語るのかということだ。もはや世界を左右する権力を語れないのはマクロに透明であるからではなく、ミクロに私感的すぎるからだ。おそらくこのようなミクロに私感な権力を知識人は語らないだろう。セカイ系権力はあまりに不可逆(一回性)でミクロであるために再現性がなく怪しく、学問をすり抜ける。歴史家が語るには早すぎるだろう。ノンフィクション作家はどこまで内通できるだろうか。だから限りなくゴシップの領域に近づく。

あるいは時代遅れの左翼か、非現実的な「陰謀説」としてDQN扱いされる。ボクのような知識人としての社会的な立場を持たないネット発言だからこそ言及することが可能な領域といえる。



しかし現にそこにかつてないほどの巨大な格差が生まれています。人口の2%が世界の「富」の半分以上を所有しているのです。そしてその資本力によってミクロな私欲がマクロな場への巨大な力として行使されている現実があるのです。

ここに左派がもつ弱さがあるのではないでしょうか。左派は社会主義というマクロレベルの合理的な理想を目指すためにミクロな贈与交換の現象を分析する方法論を持ち合わせていません。国家社会主義の多くが、独裁政権、すなわち上流層の贈与関係へ落ち込み抜け出せなくなるのはこのためでしょう。

しかしこのような問題は左派だけの問題ではないでしょう。社会主義にしろ、自由主義リバタリアニズム)にしろ、匿名(マクロ)レベルによる理想を目指すとき、「経験主義のディレンマ」が現れます。ミクロな贈与交換はマクロな合理性をその一回性によって躓かせ続けるのです。


「経験主義について考えてみた」 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20090721#p1

過去数十年のあいだに出現したグローバルなエリートたちは、いまや地球上の他のあらゆる集団をはるかにしのぐ強大な影響力を持っている。この"超・階級[スーパークラス]"、すなわち超権力者階級のメンバーの一人が、世界中の国々に暮らす何百万、何千万という人々の生活に、継続的な影響をあたえる能力を持っている。彼らはそれぞれが積極的にこの能力を行使しており、多くの場合、同じ階級に属する他の権力者たちと関係を深めることによって、その能力を拡大している。終身権力が代々受け継がれていたのは、もはや遠い昔のことであり、現代の超権力者の持つ影響力はたいていが一時的なものにすぎない。

なかには「クラス[階級]」という語を用いることによって、私がマルクス主義階級闘争という、学問的にはいかがわしい領域に足を踏みいれる危険性があると指摘する者もいた。・・・国際政治の舞台裏で、権力者たちとの秘密対話や極秘会談の現場を何度も目撃した経験から言わせてもらえば、陰謀などということは、まずありえない。・・・「世界征服」という昔ながらの空想は、実現するはずのない無理な話なのである。

現実に目を向ければ、世界でもっとも裕福な人々上位千人が保有する純資産の総額は、世界の最低貧困層二十五億人の資産総額の約二倍に相当する。・・・国境を超えたスーパークラスの影響力は、結束した集団として活動することによって、ますます強力なものになる。ビジネス上の取引であったり、相互投資であったり、重役会、学閥、社交クラブの一員同士だったりと、じつにさまざまな結びつきによって集団が形成されているが、それはけっして世界征服を含む悪の秘密結社などではない。がしかし、ともに手を携えて自己の利益を追求することにかけては折り紙付きの達人集団であることは確かである。P12-18


「超・階級 スーパークラス デヴィッド・ロスコフ (ISBN:4334962076


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