セカイ系権力の誕生


1 経験主義について考えてみた
2 なぜ知識人は現代の超・格差を語れないのか セカイ系権力の誕生
3 なぜ自由主義は格差を生むのか
4 なぜ日本人はグローバルエリート権力を認めないのか
5 セカイ系権力とパンデミック世界




1 経験主義について考えてみた

ヒューム 自生的秩序(コンベンション)


ボクの立場はとにかく経験主義です。経験主義的な立場とはまず「自生的な秩序」があるということです。このような経験主義を明確化したのはヒュームでしょう。ヒュームは自生的秩序をコンベンション(慣習)と呼びます。合理主義や法など言語活動はいつもコンベンションの後から来る。そしてこのような合理主義は重要ではあるが必ず失敗する。それは言語の限界であって、知の限界です。

そして注意する必要があるのが、言語表現の軽さです。言語表現はすべてを軽いものにしてしまう。操作可能にしてしまう。そこに失われる「重さ」は、コンベンションに繋がっています。コンベンションは環境であり、そして環境と接する身体です。いくら言葉で語ろうが容易に変化しない重さ。それは、物質的な環境であるとともに人そのものです。人は生まれ落ちた環境、文化、社会、関係性などに密接に結びついて切り離すことができない。それは不可逆な1度切りの経験、すなわち歴史としてあります。それが経験主義的な重さです。このような重さを無視した言説には意味がない。

実はこの重さを言語化することは不可能です。たとえば目の前のコップを手に取る。脳が、「目の前のコップを手に取れ」と言うから身体が動くのか。これはまったくの錯覚です。身体はその前に行為していますし、そもそもそこには手の挙げから握る指の動かし方など、どのように体を動かすか命令されていません。これを突き詰めると、ゼノンのパラドックスに陥るでしょう。命令した行為と命令した行為の間の行為はいかに命令されるのか・・・。だからこそ、言語は行為に先立つという言語中心主義の錯覚が当然のように哲学思想を支配してきたのです。少し考えればわかるこの事実を無意識深く閉じこめてきたのです。




ウィトゲンシュタインフーコーラカン 経験主義とメタ合理主義


それをいかに表記するか。このことに悩み続けたのが後期のウィトゲンシュタインです。言語ゲームとはまさにコンベンションのことです。行為がいかに可能であるかについて繰り返し繰り返し思考実験しました。

またフーコーが見いだしたのは、コンベンションとは自然の所与ではなく「権力の場」であるということです。自由な行為ではなく環境からの拘束性から描く。そもそも人の行為とは多かれ少なかれコンベンションに規律訓練されている。フーコーミクロレベルで軍隊のように規律訓練された動きから描き始めます。またマクロレベルではその時代の統治技術としてコンベンションは現れる。ここに新たな経験主義の重さの表現方法があります。

このようなコンベンションの記述とともに、ボクが重要視するのはラカンです。構造主義象徴界もコンベンションに近いですが、構成物を言語(シニフィアン)に限定することで限りなく合理主義へ近接します。経験主義たろうとしたフロイト精神分析の合理主義の躓きを見逃さず、究極の合理主義への書き換えた悪名高きラカン

この究極の合理主義がいかに経験主義へと繋がるのか。それはメタ合理主義としてです。ラカンの思想は合理主義である」ということではなく、ラカンが描いたのは「どうしようもなく合理主義に思考してしまう人間像である」ということ。すなわち人間の病としての合理主義です。

ここで経験主義と(メタ)合理主義は繋がります。経験主義的な立場では、まず自生的な秩序があり合理主義は後から来る。しかし人は先にあったように錯覚する。これは人間が逃れられない病であるということです。すなわちラカンのいったことは、人間は言語から逃れられない。いかに経験主義を語ろうが、そこには合理主義の躓きが侵入する。経験主義は人間にとって不可能なものである、ということです。すなわちコンベンション(環境・慣習)の重みの中にいるのに言葉という軽さでしか捉えられないということもまた人間の重さであるということです。これが、ヒューム、ウィトゲンシュタインフーコーラカンらが捉えようと戦いつづけた「経験主義のディレンマ」です。




ケインズハイエク 自由主義とコンベンション


経験主義が自由主義に繋がることは簡単にわかります。最初に自生的秩序(コンベンション)がある、は簡単に「神の手」に繋がります。アダムスミスとヒュームは学術的な同志であり、ともに自由主義者でした。ヒュームのコンベンションという考えはあの時代の自由主義黎明期という環境と切り離せないでしょう。

だからアダムスミスだろうが、ケインズだろうが、ハイエクだろうが、経済学者はその基本を自生的秩序(コンベンション)をおいています。しかしそれで何とかなるというということではなく、そこにいかにどの程度設計を持ち込むか、ということが経済学の問題です。

特にマルクス以降、問題視されるのが偏在する富としての資本です。貨幣という一元化された価値によって社会の流動性が向上し自生的秩序が生まれるとき、資本というシステムがその動力となれば良いのですが、往々にして欲望が寄生することで「自然な流れ」を妨げる要因になってしまう。たとえばケインズは投資家の心理的要因が市場への資本投資の出し入れに大きく影響し、経済が不安定化してしまうことを問題にしました。だから国家による管理のもとに安定した経済政策を進めようということです。

あるいはハイエクはただ自由放任していても自由は達成されない。より積極的に経済的な自由を作り出そうということです。そして社会主義ケインズのような経済の国家管理を非難しました。ケインズのコンベンションの限界にしろ、ハイエクのコンベンションの徹底にしろ、コンベンションを基本においていることにはかわりません。




自由主義と資本主義


しかしケインズを利用した保護政策は経済の閉塞を生み出し、そしてハイエクを利用した新自由主義はいままでにない格差を生み出し、そして今回の世界不況を生み出しました。これらが示すのは、コンベンションを扱うことの難しさです。そしてここに自由主義と経験主義の根本的な差異があります。コンベンションは複雑な権力闘争の場、経済の領域というよりも政治の領域、自由主義というより資本主義なのです。

資本主義とはなにかというのは難しくて、自由主義者のように、誰かが私は資本主義者だと言ったわけではなく、すでに資本主義経済のようなものは社会で運営される中で、社会主義者が反語として、現状を表すために用いました。 だから(正確にはマルクス「資本主義」という言葉は使っていませんが、マルクスのいうように資本を基本とした生産様式のことですが、それもまた資本主義の一面であって、近代において市場経済中心社会が生まれそして変化し続ける社会であって、資本、貨幣、労働力、金融、流通、そして権力などまさにいまこの現実のコンベンションです。




モース 資本と贈与交換


マルクスにしろ、ケインズにしろ、ハイエクにしろ、経済学が躓くのは貨幣交換の腐敗や贈収賄です。自由主義経済学は、コンベンションを「神の手」というように貨幣による一元的な価値へと平面化し、そして「贈与関係」をあってはならないものとして扱います。

モースは未開社会に貨幣交換とは全く異なる象徴的な秩序とそれを維持する力を発見しました。それが贈与交換です。贈与交換の力学は、その社会へ慣習・道徳、すなわちコンベンショナルな権力分布を生み出す基礎になってきました。しかし近代における自由主義経済の浮上は、このような贈与交換を排除したと考えられています。

貨幣交換と贈与交換の違いを示すならば、匿名と顕名の違いです。ある商品の売買でお金を払うならば相手をといません。しかしある物を贈与する場合には信用が重要であり、その相手が誰であるかが重要です。自由主義経済では完全自由競争が求められ、私的な理由で相手を選ぶことは弊害であるとされます。

しかし資本主義における資本という貸し借りの原理は貨幣交換を越えて限りなく贈与関係に近いものです。だから容易に転倒して腐敗や贈収賄という違法として現れますが、また資本は信用取引=社会的な貨幣交換であり、贈与交換が下支えしているのです。

信用取引の出発点は・・・法律学者や経済学者によって興味なきものとして閑却されている慣習の範囲内に見出される。それは贈与であって、とくに、その最古の形態の複合現象であり、それは・・・全体的給付の形態である。ところで、贈与は必然的に信用の観念を生じさせる。発展は経済上の規則を物々交換から現実売買へ、現実売買から信用取引へ移行せしめたのではない。贈られ、一定の期限の後に返される贈与組織の上に、一方では、以前には別々になっていた二時期を相互に接近させ、単純化さすことによって、物々交換が築かれ、他方では、売買 −現実売買と信用取引− と貸借が築かれた。P113


「贈与論」 マルセル・モース (ISBN:4326602120




コンベンション規模と社会体制

コンベンション(自生的秩序)


サイズ 顕名(ミクロ)−−−−−−−−−−−−−−−−匿名(マクロ)

経済  贈与交換−−再配分−−資本(信用取引)−−貨幣交換(神の手)

権力  象徴関係(社会)−−主権(国家)−−規律訓練権力−−統治(生権力)

社会体制  原始共産制−−−封建制−−−資本主義−−−自由主義

簡略ですがコンベンション(自生的秩序)を図式化すると以上のようになるでしょう。ここには社会規模と統治方法との関係があります。顔が見える小さな社会では贈与交換を基本として原始共産制になり、ある程度大きくなると主権者による再配分による封建制となる。再配分は擬似的な贈与交換です。人々は主権者へ贈与し、治安維持や公共事業などの形で返礼される。社会は太古から贈与交換を基本として成り立ってきました。

さらに社会がグローバルな規模へ拡がり広域な秩序が必要な場合には、贈与交換が働きにくく、貨幣交換による自由主義社会が必要になります。正確には社会の規模が拡がり自由主義社会になったのか、自由主義への推進が社会の規模をグローバルに広げたのか、という問題あります。

また西洋で起こった贈与交換社会から自由主義への離陸は歴史のミステリーです。贈与交換から貨幣交換へのシフトはただ規模に還元できません。貨幣交換を基本原理とするためには、交換様式の変化以上に、社会のあり方そのものを開拓する必要があるからです。この過程がフーコーの規律訓練権力や生政治などで分析されていますが、知らない人と安全に等価交換するためにはまず人的に制度的に訓練・管理された高度な社会秩序を必要とします。

自由主義は安全で完全な自由競争を理想としますが、いままでに実現されたことはないでしょう。いまの社会の基底では自由主義が嫌悪する贈与交換が働いています。人々は訓練・管理された高度な社会秩序を達成しましたが、それでも無条件に自由競争に身をゆだねるのは危険すぎます。家族、友人、知り合いなどのミクロな贈与交換を担保しつつ経済活動を行っています。また資本(信用取引)においては、信用は特に重要でしょう。人々は贈与交換から延長で信用を担保にしながら、慎重に貨幣交換を行っています。




資本主義社会へ贈与関係の影響


この信用という贈与交換のあり方によって、資本主義内の多様性が表れます。一つは匿名性(マクロ)において統治された国家の人口です。市民社会は資本主義への統治が群衆を国民へと規律訓練し統治することで生まれました。そして人口に贈与交換が働き市民社会、国民、ネーションという「想像の共同体」として現れます。また市民社会「大衆」というゆるい顕名(ミクロ)をもった不特定多数の匿名(マクロ)のポピュリズムとして現れます。これらは活発な経済活動の基本となる肥沃な大地です。

また資本の活動において信用という贈与交換は一部の資本をもつ者たち、上流層(エリート)として現れます。そして上流層には当然、国家権力との密接な関係を持ちます。これは、独占、贈収賄、インサイダーなどの違法に近接しつつ、資本主義の始めから決してなくならならないミクロな贈与交換です。今回の金融不況の一つの要因が、経済圏がグローバルに拡がり、市場規模が肥大する中で、上流層の顕名(ミクロ)な思惑が市場を通して瞬時にグローバルへ影響を与える事態が挙げられます。これと相対するときに、市民社会は資本をもたない者たち=下流層として、左派的な文脈で現れます。




富の独占を捉えられないディレンマ


古い左派の文脈では上流層と相対するときに、市民社会は資本をもたない者たち=下流層という対立項として語られました。しかし最近の左派が参照するのはフーコーの生権力です。新自由主義の現状では国家の機能が弱まり、対抗すべき権力は主体を持たず透明化した匿名(マクロ)な権力です。「帝国」、透明な悪、ポストフォーディズム。確かに資本主義は、封建社会のように権力者を固定せず、上流層にも流動性を組み込むために、上流層(エリート)と下流層の対立として語ることは有効ではありません。

しかし現にそこにかつてないほどの巨大な格差が生まれています。人口の2%が世界の「富」の半分以上を所有しているのです。そしてその資本力によってミクロな私欲がマクロな場への巨大な力として行使されている現実があるのです。

ここに左派がもつ弱さがあるのではないでしょうか。左派は社会主義というマクロレベルの合理的な理想を目指すためにミクロな贈与交換の現象を分析する方法論を持ち合わせていません。国家社会主義の多くが、独裁政権、すなわち上流層の贈与関係へ落ち込み抜け出せなくなるのはこのためでしょう。

しかしこのような問題は左派だけの問題ではないでしょう。社会主義にしろ、自由主義リバタリアニズム)にしろ、匿名(マクロ)レベルによる理想を目指すとき、「経験主義のディレンマ」が現れます。ミクロな贈与交換はマクロな合理性をその一回性によって躓かせ続けるのです。

天から地へと降下するドイツ哲学とは正反対に、ここでは、地から天への上昇がなされる。すなわち、人々が語ったり、想像したり、表象したりするものから出発するのではなく、また、語られたり、考えられたり、想像されたり、表象されたりした人間から出発して、そこから身体を具えた人間のところに至るのではない。現実に活動している人間たちから出発し、そして彼らの現実的な生活過程から、この生活過程のイデオロギー的な反映や反響の展開も叙述される。人間の頭脳における茫漠とした像ですら、彼らの物質的な、経験的に確定できる、そして物質的な諸前提と結びついている、生活過程の、必然的な昇華物なのである。道徳、宗教、形而上学、その他のイデオロギーおよびそれに照応する意識諸形態は、こうなれば、もはや自立性という仮象を保てなくなる。これらのものが歴史をもつのではない、つまり、これらのものが発展をもつのではない。むしろ自分たちの物質的な生産を物質的な交通を発展させていく人間たちが、こうした自分たちの現実と一緒に、自分の思考や思考の産物をも変化させていくのである。意識が生活を規定するのではなく、生活が意識を規定する。P30-31


ドイツ・イデオロギー マルクス (ISBN:4003412435)

市場経済の諸法則は、ある水準においては古典経済学が記述するとおりの姿で現われるが、より高度の領域・計算と投機の領域においては、自由競争というその特徴的な形態が見られるのがはるかに稀であることも。影の部分、逆光の部分、秘義に通じた者の活動の領域がそこからはじまるのであり、私は、それが資本主義という語によって理解しうるものの根底にあるのだと信じている。そして資本主義とは(交換の基礎を、たがいに求め合う需要におくのと同程度あるいはそれ以上に、力関係におく)権力の蓄積であり、避けられぬものか否かは別にして、他に多くあるのと同様な一つの社会的寄生物なのである。P2-3


「物質文明・経済・資本主義―15-18世紀」 フェルナン・ブローデル (ISBN:462202053X




2 なぜ知識人は現代の超・格差を語れないのか セカイ系権力の誕生

歴史を予測することの胡散臭さ


ボクたちは「歴史」は不可逆性(1回性)であって、そこに何らかの法則性を見出し語ることが胡散臭いことを知っている。この歴史の不可逆性は、進歩史観とは違う。進歩史観は時間的な法則性を見出そうとすることである。「歴史」の不可逆性はなんの法則性も見いだせない。なにが起こるかわからない不確実性があるだけだ。

それにも関わらず、自分自身の生活ではなんらかの反復・法則性を見出そうとする。自らも「歴史」の一部であることに目をつぶろうとする。体験したことがくり返されていくのだろうと考えることは、生きる知恵である。もし体験したことが将来にまったく無効であれば、ボクたちはなにを頼りに生活を保障すれば良いのかわからない。だから体験を時系列に並べラインを引き、未来へと外挿し予測する。これは個人的な問題ではなく、社会秩序というマクロレベルの計画として実行される。近代の進歩史観はこのようなマクロ思考から生まれてきた。そしてまたマクロ思考の社会整備が進歩を生み出した。




科学技術はミクロレベルの不確実性を増幅する


歴史の前では、このようなマクロレベルの予測はより未来になるほどはずれる。だからマクロレベルの整備とは歴史の不確実性をリスク管理することである。将来におこる危険を回避するために行われる。しかし逆にこのようなマクロレベルの管理自体が不確実性を増幅させている面がある。不確実性をリスク管理することで不確実性を増幅しているという二面性があるということだ。

たとえば高速道路は自動車専用として交通環境を管理し安全で速やかな交通を可能にする。しかしまたその円滑さ故にスピードを出しやすいなど新たな危険を生み出している。それは、運転手一人一人のミクロレベルの状態が大きな事故をおこし、日本中の輸送状況というマクロレベルへ影響を与えてしまう。このようにミクロレベルの現象が増幅されてマクロレベルへ大きな影響を与えることは科学技術発展の特徴である。




小さすぎて見えない巨大権力


歴史の不可逆性(1回性)がマクロレベルでは管理されず、無数のミクロレベルから生まれる不確実性であるとすれば、マクロレベルの管理の発展はミクロレベルのゆらぎを増幅し、歴史の不可逆性を加速させているといえるだろう。

蝶の羽ばたきが地球の裏側の気候変動を引き起こすというようなマクロレベルの確率論(カオス理論)の話ではない。権力の話である。マクロレベルへ行使するチャンネルに近い者=権力者のミクロな私感が、マクロレベルへ「短絡」し大きな影響として波及してしまう。戦争であり、政治であり、経済であり、金融であり、グローバル化するマクロレベルへ容易に「短絡」してしまう。

仮に、ネグリ「帝国」など最近のサヨクがいうように、グローバルな権力が透き通って捉えにくいとすれば、それは単に「生権力」と呼ぶだけでは不十分なのである。生権力というマクロレベルへ影響を与える権力者たちの行為があまりにミクロになりすぎて見えなくなっているのだ。

ここでいう権力者はかつてのように終身的な権力をもっているわけではなく、また大きなイデオロギーや世界を変えようと言う意図を持っているかどうかに関わらず、小さな部屋の中でのその場の私欲というミクロレベルがマクロレベルへ影響を与えてしまう。たとえば今回の世界を巻き込んだ大不況が一人の男のささやきによって起こったとしてもおかしくない状況なのだ。




セカイ系権力の誕生


少し前にエヴァンゲリオンなどの作品がセカイ系と呼ばれて流行った。主人公の行為がセカイの破局へ影響を与えてしまう。しかし主人公はヒーローではない。使命をもってセカイを救うわけではなく、身近な者を助けたいという卑近な想いがセカイの運命へ短絡する。

ここで起こっていることも権力者が思想や意志をもって世界を変えようとすることではなく、ミクロで卑近な想いが自らの想像をこえたマクロレベル(グローバル)に多大な影響を与えてしまう。これはセカイ系権力」とでも呼べるようなものだ。

セカイ系権力のひとつの問題はこのような権力をいかに捉えて語るのかということだ。もはや世界を左右する権力を語れないのはマクロに透明であるからではなく、ミクロに私感的すぎるからだ。おそらくこのようなミクロに私感な権力を知識人は語らないだろう。セカイ系権力はあまりに不可逆(一回性)でミクロであるために再現性がなく怪しく、学問をすり抜ける。歴史家が語るには早すぎるだろう。ノンフィクション作家はどこまで内通できるだろうか。だから限りなくゴシップの領域に近づく。

あるいは時代遅れの左翼か、非現実的な「陰謀説」としてDQN扱いされる。ボクのような知識人としての社会的な立場を持たないネット発言だからこそ言及することが可能な領域といえる。



しかし現にそこにかつてないほどの巨大な格差が生まれています。人口の2%が世界の「富」の半分以上を所有しているのです。そしてその資本力によってミクロな私欲がマクロな場への巨大な力として行使されている現実があるのです。

ここに左派がもつ弱さがあるのではないでしょうか。左派は社会主義というマクロレベルの合理的な理想を目指すためにミクロな贈与交換の現象を分析する方法論を持ち合わせていません。国家社会主義の多くが、独裁政権、すなわち上流層の贈与関係へ落ち込み抜け出せなくなるのはこのためでしょう。

しかしこのような問題は左派だけの問題ではないでしょう。社会主義にしろ、自由主義リバタリアニズム)にしろ、匿名(マクロ)レベルによる理想を目指すとき、「経験主義のディレンマ」が現れます。ミクロな贈与交換はマクロな合理性をその一回性によって躓かせ続けるのです。


「経験主義について考えてみた」 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20090721#p1

過去数十年のあいだに出現したグローバルなエリートたちは、いまや地球上の他のあらゆる集団をはるかにしのぐ強大な影響力を持っている。この"超・階級[スーパークラス]"、すなわち超権力者階級のメンバーの一人が、世界中の国々に暮らす何百万、何千万という人々の生活に、継続的な影響をあたえる能力を持っている。彼らはそれぞれが積極的にこの能力を行使しており、多くの場合、同じ階級に属する他の権力者たちと関係を深めることによって、その能力を拡大している。終身権力が代々受け継がれていたのは、もはや遠い昔のことであり、現代の超権力者の持つ影響力はたいていが一時的なものにすぎない。

なかには「クラス[階級]」という語を用いることによって、私がマルクス主義階級闘争という、学問的にはいかがわしい領域に足を踏みいれる危険性があると指摘する者もいた。・・・国際政治の舞台裏で、権力者たちとの秘密対話や極秘会談の現場を何度も目撃した経験から言わせてもらえば、陰謀などということは、まずありえない。・・・「世界征服」という昔ながらの空想は、実現するはずのない無理な話なのである。

現実に目を向ければ、世界でもっとも裕福な人々上位千人が保有する純資産の総額は、世界の最低貧困層二十五億人の資産総額の約二倍に相当する。・・・国境を超えたスーパークラスの影響力は、結束した集団として活動することによって、ますます強力なものになる。ビジネス上の取引であったり、相互投資であったり、重役会、学閥、社交クラブの一員同士だったりと、じつにさまざまな結びつきによって集団が形成されているが、それはけっして世界征服を含む悪の秘密結社などではない。がしかし、ともに手を携えて自己の利益を追求することにかけては折り紙付きの達人集団であることは確かである。P12-18


「超・階級 スーパークラス デヴィッド・ロスコフ (ISBN:4334962076




3 なぜ自由主義は格差を生むのか

自由主義の楽観的信頼


近代の自由主義経済は、基本的に「社会的信頼」の上に成り立っている。アダムスミスの「神の手」、あるいは同士ヒュームのコンベンション(慣習)など。社会なぜ機能するのか。ホッブズの君主との契約説やロックの自然権説などとは異なり、自由主義者は、人々が社会を存在させようとふるまうことで機能していると考える。これが社会的な信頼だ。

このような古典自由主義の「社会的信頼」があるから大丈夫と考えるのは楽観主義でありそう単純ではないだろう。確かにみなが社会的な慣習(コンベンション)に従いふるまうし、人が同じようにふるまうだろうという信頼関係で成り立っている。しかしそれとともに、信頼関係は家族、友達、母校、地域、国(ナショナリズム)などのように、協力とともに排他も生み、偏在する。その一つが富める者たちが大衆を排他し富を独占する協力関係を形成する「上流層」である。

ハイエクリバタリアン自由至上主義)は、このような古典自由主義のもつ楽観主義を非難する。ただ自由放任にすればよいということではなく、積極的に経済的な自由の制度を作ろうということだ。偏在する信頼関係を分断し、個人個人が自己責任で経済活動に参加し、競争することによって、社会は富、人々へ富は分配される。政府は、富の分配に関わるのではなく、自由な経済活動を可能にする基盤を構築することに関わるべきである。しかし実際に運営された新自由主義ではハイエクが考えたことと異なり権力者に利用されることになる。

政府に対する服従義務の理由をもしも問われるならば、二つ返事でわたくしたちは、そうしなければ社会が存在できないからだと答えます。そしてこの答えは、全人類にとって、明快でわかりやすいものです。あなたがたの答えは、わたくしたちは約束を守るべきだからだというやつでしょう。しかし、或る哲学的理論に馴れるまでは、こんな答えを理解したり有難がったりできる人間がひとりもいないということはもちろんですし、それに、なぜ約束を守らなければならないのか?とたずねられれば、ひとたまりもなくあなたがたは参ってしまうでしょ。P146-147


「市民の国について」 ヒューム (ISBN:4003361954




格差は物理現象か


現実に社会は超格差を生んでいる。世界でもっとも裕福な人々上位千人が保有する純資産の総額は、世界の最低貧困層二十五億人の資産総額の約二倍に相当するという現実がある。しかしこれらの構造を、かつてのサヨクの批判であるブルジョアジープロレタリアートという対立で語ることは困難である。なぜなら各個体の層では自由が達成されている。また権力者の層にも自由の流動性が取り込まれているからだ。政治家は選挙によって選ばれて、企業には競争原理がはたらいている。

ここまで格差が広がっているのに、なにか格差は自然なことのように捉えられている。格差は物理現象であるということだ。経済がグローバル化し、パイが大きければ勝った者への富は増える。さらには自由競争では富は一者集中しやすい。これらは正当な自由主義の競争の帰結であって、勝った者も負けた者も偶然である。このような考えは、自由競争を前提とする経済学によって指示される。しかし現実には経済学が考えるような自由競争には遠い。




上流層の富のネットワーク


自由競争ほど儲からないものはない。誰でも自由に競争に参入できるならば、勝てる保障はない。それが自由主義の本来の姿であるが、より優位な状況を求めるのは必然であり、政府と協力して独占的な優位な体制を造ろうとする。今回のアメリカの金融政策を主導したのは誰か。金融会社から政府に登用され法律をつくった人々である。各個体の層で各個体は自由であることように進められ、権力者の層では各個体の自由が生み出した富を調整し、独占する。

資本主義における資本とは貸し借りである。コンビニでガリガリくんを買うときには誰でも60円あれば買うことができるが、お金の貸し借りはそうはいかない。一般的な金融ローンなら審査も簡単で判断も客観的であるが、大金が動く場合には社会的な信頼や関係が重視される。高額になるほど上流層は信頼関係の排他的ネットワークを形成して富を独占する。




自由競争は下流層で進む


自由主義では二つ自由が進められる必要がある。一つは各個体の自由である。各人は経済活動の自由をもち競争を行う。このためにはただ自由放任ではだめで全体の秩序はいかに保つのかという問題がある。だからもう一つの自由は全体の秩序における自由、すなわち権力者層の自由度である。状況に合わせて制度を変更しつつ、また制度を作る人々を入れ替え、流動性を持たせる。

実際の自由主義経済での自由は個体の層、特に下流層から進む。たとえば現代なら派遣である。彼らはもっとも自由競争とそれに伴う効率化にさらされている。それに比べて正社員は既得権益として自由競争から守られている。そしてもっとも自由化が進まないのが、権力者の層である。権力者の層にはその上の層はないのだから自由を強制する力が働きにくい。数少ない超・階級同士の協力関係は維持され、下からは見えない。

確かに超・格差には物理現象の面があるだろう。経済のグローバル化が富の偏在を広げえいる。しかしその根底には、下流層での自由競争と、上流層での自由競争の格差という権力構造が働いている。そしてグローバル化がいままで以上に権力の偏在を増幅させている。



IMF国際通貨基金)の本来の目標は、世界の安定性を高め、景気後退の脅威に直面する各国が景気浮揚策をとる資金を確保することだったが、IMFはこれらの目標を追求するだけではなく、金融界の利益をはかっているのだ。つまり、IMFが掲げる目標はただいに矛盾していることがしばしばあるのだ。

あまりにも単純な自由主義イデオロギーを前面に押しだし、その陰に隠れて「新たな」使命にしたがって仕事をしていたのだ。・・・世界経済のために働く機関が、世界の金融界のために働くことになったのだ。資本市場の自由化はグローバルな経済の安定には寄与しなかったかもしれないが、ウォール街のために広大な市場を開拓したことは間違いない。

IMFは金融界の視点やイデオロギーとともに問題に取り組んだのであり、金融界の視点やイデオロギーは当然のことながら金融界の利害と密接に結びついていた。すでに指摘したように、IMFの幹部の多くは金融界出身であり、そしてその多くはその利益にために十分に働いたあと、金融界で給料のいい仕事についたのである。・・・副専務理事のスタンリー・フィッシャーは、IMFを辞めるとすぐに、シティバンクの参加にもつ巨大金融会社シティ・グループの副会長になった。シティ・グループの経営執行委員会会長はロバート・ルービンだった。財務長官として、IMFの政策で中心的な役割を果たした人物である。フィッシャーは言われたことを忠実に実行して、十分にその報酬を得たというわけだろうか。P294-296


「世界を不幸にしたグローバリズムの正体」 ジョセフ・E. スティグリッツ  (ISBN:4198615195

パワー・エリートには、企業だけではなく社会全体を結ぶ管理者としての務めもあるのだ。トップに立つ人々の社会は互いにつながっており、その範囲は財界、金融界、政界、軍産複合体、芸術界、思想界といった重要な権力集団全体にわかっている。じっさい、このようなつながりは、富と地位と並んで、スーパークラスの一員であることを示す顕著な特徴となっている。このつながりをたどっていくと、ありとあらゆる種類の集団が連鎖的に結びついていることがわかる。このようなつながりがあれば、個人間の壁はなくなり、必要なときに必要な人物に働きかけられるので、きわめて効率よく最高レベルの仕事が進められ、同時に自分の地位も維持できる−なぜなら、そうした最上層部の人脈は既得権益として厳重に保護されているからである。P106


「超・階級 スーパークラス」 デヴィッド・ロスコフ (ISBN:4334962076

不平等と不公平に関する議論がもっともレトリックと利己心に彩られるのは、経営トップの報酬が話題になるときである。この問題はいま、スーパークラスと彼らが作りあげたシステムを解明するもっとも有力な手がかりとなっている。

アメリカの企業トップの報酬は近年急激に上昇している。支払われる額は、一九九三年から比較すると四倍以上に跳ねあがり、現在、平均的な大手企業CEOの手取り収入は、彼らが雇っている従業員の平均的収入の三百六十四倍にも達している。・・・CEOがその地位を退いても金の流れは止まらない。

富を権力の結びつきがより顕著にあらわれているのが取締役会の役割である。取締役を任命するのはたいていがCEOであり、彼らの地位は多くの重要な意味でCEOの考え次第た・・・取締役会のメンバーが、「広い人脈を持っている」−つまり他の複数の企業の取締役を兼任している−企業はCEOに高額報酬をあたえる傾向が強いという。つまり、何人ものCEOから称賛される、もっとも人望ある取締役は、もっとも「気前のよい」取締役であるということだ。

・・・エコノミスト誌によれば、「経営者が受けとった巨額報酬の大部分は株主が投資額相当の見返りを手にしているという意味で、業績に見合うものだった」・・・ところが最近の研究や事例によれば、経営者の報酬は、どうひいき目にみても、あまり業績と関係がないようなのだ。P151-156


「超・階級 スーパークラス」 デヴィッド・ロスコフ (ISBN:4334962076




4 なぜ日本人はグローバルエリート権力を認めないのか

アメリカ人の考えた世界地図 http://eigo37.livedoor.biz/archives/51353360.html



世界を神聖と見るか、庭とみるか


アメリカはみごとに京都議定書でばっくれて、今度は一転、地球環境対策はアメリカが主導していくという。現に日本ではグリーンニューディールというフレーズは流行になって、不況対策もあって、ちょっとしたブームになっている。日本は環境対策ではずっと最先端をいっているにも関わらずだ。

最近はこのような地球環境対策などもあり、グローバルな統一規格をつくる傾向がつよい。以前、そのような国際会議に参加した日本人の話を聞いたことがあるが、とにかく対応のむずかしさを語っていた。国際標準検討の場というのは西洋中心主義、特にアメリカの発言力が強い。これはアメリカの経済力を背景にしているのだろうが、それとともにアメリカのエリートたちは日本人とは異なるように世界をみているのではないだろうか。

日本人は日本国内問題では泥臭い駆け引きの場であることを知っているし、短絡的に政治家など犯人捜しをするなど言いたい放題である。それに対して世界の問題になると政治的な駆け引きの場というよりも、もっと「合理的」「神聖な」場と見ているように感じる。それに対して、アメリカのエリートにとって世界は日本人の考える国内問題=自分たちの庭のような感覚をもち私欲を通すための泥臭い駆け引きの場でしかない。これは日本人にはわからない感性だろう。




日本人はグローバルエリート権力を見ない


たとえば今回の世界不況に関して、日本国内の対策を考える場合には経済学者の意見はそれほど重視されない。そして政治的な判断に対して問題は人格に還元するなど言いたい放題の世論として反応する。しかし国際問題になるととたんに経済学者が羅針盤のように重視される。

日本人にとって世界はいまだに理解しえないほど広大で多様で神秘にあふれている。そして今回の世界不況はマクロ経済学世界から押し寄せる自然現象であり黙って受け入れざるおえない。そこにアメリカの金融界隈のエリートたちの私欲が大きく働いたというように、この広大で神秘なな世界が一部の権力者によって左右されるほどに「小さい」ということを認められないのだ。

日本のガラパゴス化がいわれるが、それがほんとうに悪いのだろう。そもそも日本主導で世界標準するほどの経済・政治力はない以上、ガラパゴス化を進め、それが後で広大な世界へ広まっていけばいい。

新自由主義は、国際資本主義を再編するという理論的企図を実現するためのユートピア的プロジェクトとして解釈することもできるし、あるいは、資本蓄積のための条件を再構築し経済エリートの権力を回復するための政治的プロジェクトとして解釈することもできる。・・・新自由主義化は、グローバルな資本蓄積を再活性化する上であまり有効ではなかったが、経済エリートの権力を回復させたり、場合によっては(ロシアや中国)それを新たに創出したりする上では、目を見張るような成功を収めた。新自由主義的議論に見られる理論的ユートピアニズムは主として、この目標を達成するために必要なあらゆることを正当化し権威づける一大体系として機能してきたというのが私の結論である。P32


新自由主義―その歴史的展開と現在」 デヴィッド ハーヴェイ (ISBN:4861821061




5 セカイ系権力とパンデミック世界

ミクロな転移点


だれにも転移点というのがある。自らはコントロールできず気になってしかたがなく、価値観の基準になってしまう。このどうにもならなさ故に反抗的にふるまってしまいがちな愛憎のつながりである。たとえば子にとっての親。ときに反抗期をすぎ大人になる過程では親は強力な転移点になる。自立した社会生活の中でさまざまな場面で親のまなざしを感じ、判断基準となり浮上する。しかし直接、親から価値を押しつけられることには反抗する。それは親を排除するのではなく、すでに内面化されついてまわるまなざしからの圧力への抵抗であるわかっている。だからこそ「自我理想」とのギャップに苦しむ。

このような転移点は親だけではない。たとえばライバルという存在はあからさまな対抗心ではなくても、さまざまな価値の判断場面で、彼ならばどうする、彼にはじないように、などのように知らず知らずに考えてしまっている。あるいは彼の行動の一喜一憂が気になる。ひとは生きていくなかで、誰もが転移点とつながり、しばられている。ボクがミクロなコンテクストというとき、このような卑近な転移点との関係のなかで価値を獲得する状況をいう。




クレオパトラの鼻」から「無名の鼻」


NHKスペシャル日本海軍400時間の証言」http://www.nhk.or.jp/special/onair/090809.html)で太平洋戦争において絶大な権力を持った海軍・軍令部の元メンバーが戦後語らった海軍反省会が紹介されていた。そこで語られるのはわずかな上層部の密室で行われた卑近な状況である。ある幹部が自らの立場を誇示するため、ライバル関係の対立からなど、密室の卑近なエゴが絶対的な命令としてマクロへと伝達されていき、開戦を決定し、特攻隊などの無謀な作戦を実行させた。ここにあるのもセカイ系権力」だろう。軍事下という一元的な価値のもと社会が統制されることで、上層部のミクロの私惑がマクロへと短絡されて多大な影響をあたえてしまう。

戦争を特定の人物の責任にするということではないが、歴史は多くにおいて、マクロな分析ではとらえられないミクロな私惑により決定されている。クレオパトラの鼻がもう少し低ければ歴史はかわっていた」ということだ。ここでいうのは偶然性ではなく、クレオパトラに魅せられた権力者の思惑が歴史を動かしたということだ。

しかしクレオパトラの鼻」がマクロへ影響したとしても近代の戦争ほどではないだろう。近代になり、社会がますますグローバルに密接につながる資本主義社会において、クレオパトラの鼻」はより大きな影響力をもち、さらにはクレオパトラや軍幹部のような顔の見える権力者ではなく、もはや社会的責任を持たない「無名な鼻」へとかわっている。

特にグローバルに経済が結び付いた現代は、卑近な思惑は市場経済をとおして敏感に影響をあたえて、地理的に離れた人々の生活に影響する。昨年はさらにこのような世界の「小ささ」を露わにした年だったかもしれない。豚インフルエンザは最初、メキシコの小さな村の養豚場の不衛生さだったとも言われる。またエネルギー高騰、そしてサブプライムから世界不況。パンデミックな社会であり、ミクロな思惑が簡単にマクロへ短絡してしまう。