言語ゲームというリズム その1

pikarrr2009-08-25

お経のリズム


たとえば宗教の基本は反復です。意味のわからないお経を繰り返し、祈りの動作を繰り返す。これってすごく言語ゲームなんです。宗教の教え=規則を理解すること以上に訓練し習慣化させること。これによって言語ゲームに深く引き込まれていく。

教えを理解することが重要ではなく習慣の先に悟りがある。これに対して哲学はたえずみずからをみずからの言語ゲームのメタ位置にたとうとする運動といえるかもしれません。しかしウィトゲンシュタイン的にいえばほんとにメタ位置は存在するのか、ということでしょう。なんらかの言語ゲームに帰属しないとコミュニケーションそのものが不可能で、それは習慣として深く刻まれている。

お経や呪文の重要なところは「リズム」です。それはある種の音楽。音楽は運動性であり、言語理解と異なる経路で体にしみ込み、刻まれる。反復することで訓練される。たとえば軍隊の訓練でもリズムが重視されます。




言語ゲームとリズム


言語ゲームにはかならずリズムがともなう。「石板♪」「はいよ♪」というリズムをつかむことが「規則に従う」ことです。リズムが根源的であるのは、理解もまた行為、運動ということです。状況との関係、使い方(りズム)がないと、純粋な理解そのものはない。ということがウィトゲンシュタインのいっていることですね。

ここでリズムというメタファーでいいたいことは、規則性があるが言語のように理解することができず、体でおぼえるしかない、ということです。普通、認知といえば言語認知と錯覚する。しかし認知と行為の違いはない。すべてが行為です。行為はリズムなので言語で捉えることができない。音楽の楽しさを言葉で語ることはできないようにです。だからリズムがこぼれ落ちる。言語ゲームは従来の言語論においてこぼれ落ちたリズムも取り込んだ思考です。だから言語ゲームとはなんだ・・・と躓き続けるのです。

前期ウィトゲンシュタインに至る言語論の帰結は言語(認識)の範囲が世界である、ということだったとおもいます。ここでウィトゲンシュタインは認識論の終焉を宣言します。しかしこの世界がなにかといえば、いわば哲学が世界としてきた世界の在り方です。後期ウィトゲンシュタインは哲学世界をこえたリズムを基本とする日常世界を発見するのです。

この「リズムはとらえがたくしかし必ずある」ことを言語行為論からかんがえると、コンスタティブに対するパフォーマティブということになるでしょ。パフォーマティブとしてリズムは取り込まれます。しかしデリダが言語行為論を批判したことはなんでしょうか。簡単に言えばコンスタティブ、パフォーマティブなんて区別はできないということです。「ニンジン」と発話した時点で必ずパフォーマティブであること逃れられない。これでリズムをすべて表現したわけではありませんが、「リズムはとらえがたくしかし必ずある」ことはわかると思います。




社会とリズム


言語論が人は言語として世界をみて言語として考える、というとき、そこには必ずリズムがあります。リズムは体がおぼえた習慣であり、そのようにキザンでしまう。そしてリズムは他者と共鳴して共同体内を伝達されていく。それが言語ゲームです。先の話にもどれば宗教のお経も共鳴伝達装置です。学習の基本が繰り返しにあるのもそのためです。「考えすぎてはいけない。ただ黙々と繰り返せばおのずと道はひらかれん」というのは一つの実働的な教えでしょう。

おそらく昔はみな地域的な独自のリズムをもっていたんでしょうね。それが近代化の中で標準化されていく。それはひとえに社会の効率の重視です。大量生産大量消費では画一化したリズムが重要になります。学校はリズムを標準的に同期させる装置です。これをフーコーは規律訓練権力と呼んだわけです。国の経済成長には教育による同期が重要です。安い労働力があるのに経済発展しない途上国は労働の質、すなわち労働力が近代的なリズムにチューニングされていないからです。いくら設備を導入しても効率はあがりません。

リズムの取り合いがあるのでしょう。現代の基本のリズムは市場原理、効率化、合理化のリズムです。これに哲学や宗教のリズムはあいにくい。また効率化のリズムを維持するために環境も整備されています。建物、交通、通信、流通などはリズムに同期しやすいように均質的に配置されています。

しかし人はいかなるリズムも身につけられるわけではありません。人は生理的なリズムというものもあるでしょう。現代の効率化という速いリズムは人に高揚感を与えます。しかしまた軋轢も生み出します。人は現代のリズムに乗れなくなったとき、反省的に思考に埋没する。神経症に病む。これもまた現代の悩めるリズムでしょうか。




時代とリズム


リズムという表現は一つのメタファーではありますが、まだ実際の時代に流行った音楽のリズムにも関連するでしょう。音楽は時代のリズムを反映します。人々が親しむ音楽は近代化によって速くなっています。1920年代のアメリカ消費社会の到来でテンポの速いジャズが流行りました。また1950年代の戦後景気では8ビートのロックミュージック、そしてその後、16ビート、あるいはダンサブルなソウルミュージック、さらにフリージャズなど音楽は激しくなります。いままさに流行っているトランスがプリミティブなリズムに近づくのは面白いことです。原始的な呪術世界の狂乱のリズムが現代のポピュラーミュージックとして受け入れられるのは、現代の日常がカーニバル化しているからでしょうか。

また先進国の労働力は単に標準のリズムへ同期するだけでなく、みずからリズムを作り出すことが重視されています。これはフリージャズのようです。フリージャズはアドリブでできています。しかし当然、まず基本的なリズムを習得してから可能になるのであって、また創造的であってもジャズはジャズであることには代わりがありません。これもひとつの現代のリズムです。

もっとも短い時間は、ファインマンの話にもあったように、たとえば脈拍すなわち心臓の鼓動として現れる。前頭葉には計時細胞と呼ばれるものが存在するらしい。一定の時間感覚で放電するからである。こうした「短い繰り返し」は時というより「単位の繰り返し」、すなわちリズムとして感じられる。運動系ではリズムが大切である。多くの運動は、一定のリズムを持っている。リズムは、身体の各筋の運動を、一つの作業目的に向かって強調させる。基本リズムの存在は、リズム自体よりも、それが一種の時計、あるいはむしろメトロノームや指揮棒として働くことに意味がある。運動の統制がとりやすいからである。会話では、われわれは意識せずしてリズムを合わせる。リズムが合わないと「疲れ」「シラける」。聞き手は聞くだけではない。適当に相槌を打つ。この周期をランダムにずらせば、話は進展しないであろう。他のことを考えて、相槌のタイミングを外せば、相手はすぐ気がついて「どうしたの」と尋ねる。わが国で言う「間」もまた、このリズムに関係するであろう。P198-199


唯脳論 養老孟司  (ISBN:4480084398