なぜ幸せはお金では買えないのか マクロな形而上学とミクロな否定神学

pikarrr2009-09-23

マクロコンテクスト、ミクロコンテクスト


宝くじで一等にあたることは奇跡といってもよいだろう。そして人生さえもかえてしまう。しかし宝くじというシステムにとっては一等がでることは当たり前である。それを見越して収益が出るように統計的に設計されている。

たとえば飲酒運転の車に追突されてしまう。これは不幸でついていないことである。人生を狂わせて家族のその後さえも大変なものにしてしまう。あと少し時間がずれていれば事故にあわなかっただろう。しかしある交差点ではある確率で事故が起こるというような統計的な必然性があると言われる。

このようにミクロコンテクストでみると特異なことが、母数を増やして観測すると正規分布などの一定の分布に収まってしまう。だからマクロコンテクストではほんどの現象は確率論的な必然として回収されてしまう。たとえば背丈、あるいは性格、あるいは幸福な出来事も、不幸な出来事も、誰かに起こっただろう必然である。




「生きることに意味などない」


マクロコンテクストとは世界をマクロのコンテクスト(文脈)でみることだ。たとえば「生きることに意味などない」という言説。いま生きているという事実は偶然の産物である。偶然の産物とは全体(マクロ)から確率論的に決定されているということである。世界の事象はサイコロの目のようにランダムに発生するという前提がある。

サイコロなどの偶然性は博打など古くからあるが、このようなマクロコンテクストで人間そのものを見る思考は十八世紀ごろに生まれた。サイコロなどの物理現象に確率が見られるとして、それが人間に適応できる保証はない。

そこには大数の法則といわれる統計学上の前提がある。ある集合に対して独立した分布が存在することである。人間集団をこのように扱えるか。いかなる客観的基準があるのか、また人は絶えず成長し変化する。すなわちマクロコンテクストとは一つの形而上学なのである。




「どんなにがんばっても生きることに意味なんかないのさ」


また「生きていることに意味はない」という発言は多くのおいて逆説的に使われる「どんなにがんばっても生きることに意味なんかないのさ」。そこには私という存在は世界の中で特別でありたい、という思いが隠されている。

これはミクロコンテクストである。ミクロコンテクストとは世界をミクロのコンテクスト(文脈)でみることだ。たとえばテレビで見る見ず知らずの人の死より身内の死の方が悲しいという当たり前の事実。卑近なものほど重視されるという当たり前の思考である。なんと言おうが人は「生きていることに意味はない」と信じることはできない




「生きたい」


(西洋の)神は全能で世界を俯瞰するが、私との関係は全体の一部(マクロコンテクスト)ではなく、私のすべてをしり、私だけを見ているという一対一の関係(ミクロコンテクスト)である。そして自らの存在意義が保証される。

近代のマクロコンテクストの発明は、人を全体の一部でしかないという文脈におくことで、このような宗教的なミクロコンテクストを解体した。「神を殺害した」。しかしなんと言おうが人はミクロコンテクストを手放すことなどできないだろう。

ではいかにミクロコンテクストは担保たれたのか。それはまさに「生きていることに意味はない」という言葉にあらわれているすなわち「意味はない」という否定性によってである。「生きていることに意味はない」というとき、「おれは「生きていることに意味はない」という世界の真理を知る者だ」という否定神学であり、そこに「生きたい」というミクロコンテクストの強い欲望は隠されている。




「幸せはお金では買えない」


マクロコンテクストとミクロコンテクストの関係は「幸せはお金では買えない」という言説が象徴するだろう。「お金」とはマクロコンテクストのメタファーであり、「幸せ」はミクロコンテクストのメタファーである。

マクロコンテクストとは本質的に「お金」である。貨幣という一元価値による効率化という資本主義経済が広がる中で、マクロコンテクストは発明され、拡散した。初期マクロコンテクストの典型である人口調査も国富という資本主義経済の発展を目的とする。そしてフーコーが言う「バイオポリティクス(生政治)」として統計(マクロコンテクスト)は社会に適応された。




「お金がほしい」


「幸せ」は私が私自身として愛される(承認される)ミクロコンテクストで達成されるのであり、全体の一部(マクロコンテクスト)では達成されない。ここでお金と幸せは対立しているようであるが、幸せは「お金でかえないもの」という否定的な位置ではじめて意味をもった。資本主義経済というマクロコンテクストの中で新たに発明されたのだ。資本主義経済が拡散・発展する中で反動として生まれる残余としての「幸せ」、または反動の緩衝材としての「幸せ」という重要な役割を担っている。

しかしもっとも本質的な幸せの機能は資本主義経済の駆動因となっているということだ。「幸せはお金では買えない」は逆接的に使われる。その否定性は「お金がほしい」というお金への強い欲望が隠されている。マルクスはこれを商品へのフェティシズム(物神性)とよんだ。

「我々の自由意志が形而上学的にどのように解釈されようとも、意思の表れ、つまり人間の行為は、他のあらゆる自然現象と同様に、普遍的な自然法則の統制下にあるということは明白である。・・・たとえば、死、誕生、結婚には人間の自由意思が影響を及ばすので、これらの数値をあらかじめ計算することを可能にするような規則は皆無であるように見える。それにもかかわらず諸国で毎年発表される統計表は、これらの現象が、不安定な天候の変化(が、全体として見れば自然法則に従っているの)と同様に、一定不変の自然法則に従って生起していることを立証している。(カント 1784年)」


「偶然を飼いならす」 イアン・ハッキング (ISBN:4833222744


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