精神分析医は二足歩行の秘密を聞き出せるか

pikarrr2009-09-29


哲学板でのラカンについての発言です。


◇ 本物のラカニアンさん、おしえてください。人には動物的な次元は一切ないのでしょうか。たとえば歩くなどの普通の行為はどのように位置付けられるのでしょうか。そこにも欲望は作動しているのでしょうか。ボクは、人間は環界との調和があると考えるわけです。言語(シニフィアン)を介さない社会環境と身体の調和は普通にあるでしょう。それは暗黙知と言われるものです。運動・訓練で身につける行為の次元です。歩く、自転車にのる、スポーツがうまくなる、箸をもつ・・・ほとんどの行為に欲望(言語)はいらない。この問いは唐突ではないよ。ウィトゲンシュタイン言語ゲームの基本を習慣、訓練におく。暗黙知はその影響から出てきた。言わば英米系の考え方の一つ。ラカンがこれにこらえられないことは、その論の大きな欠損を意味する。

◇ 欲望に媒介されているというのは、わかりやすくいえば、そこに大文字の他者がいるということだ。何をするにもそこに大文字の他者がいるということ。たとえば動物が行為するときに、当然そこに大文字の他者がいるわけがない。では人間が行為するときにすべて大文字の他者がいるのか。人が「歩く」ときにそこに大文字の他者はいるのか。当然いる。人が歩いているとき、自分を歩いていて、どこへいこうとしているのか知っているそこには大文字の他者がついている。しかししかしだ。これは歩くことそのものではない。言わば歩いているというコンテクストだ。歩くそのものはどうだろうか。どのような膝を動かし、体重移動をしているかということを大文字の他者は見ているのだろうか。歩くことは繰り返し繰り返し訓練することで手に入れた技術だ。ここに大文字の他者はいるのだろうか。

◇ たとえば一夜で時の人になり、大観衆の前を歩かなければならなくなったとする。そのとき、人は当たり前におこなっていた歩くような行為さえ、ぎこちなくなる。右足と右手が同時に出てしまうようなことが起きる。このときに、歩くとはいかようなことか、という大文字の他者が介入するのではないだろうか。行為そのものにおいて、むしろ大文字の他者はマイナス要因。動物的な行為に、特別な状況の中で大文字の他者が肥大して、神経症のような不自然なものになってしまうのではないだろうか。そのためにプロは繰り返し繰り返し、行為を反復し練習する。特別な状況でも体が動物のように自然に動くように。だからイチローは素振りをくり返す。そしてWBCの極限状態でも決勝ヒットを打つことができた。

◇ 都会で大雪が降るとすべって怪我する人が多く出る。しかし毎日雪が積もっている雪国の人はそんなことはない。この違いは、雪道の歩き方、すべりにくい体重移動の仕方を知っているから。恐らく雪国の人は誰に教わるのではなく、小さいときから雪道をあるくことで、すべらない歩き方を覚える。恐らく自分がすべらない歩き方をしているということも知らない。都会の人が雪国に引っ越すとする。すると最初は足下が心もとないが、1ヶ月もすると、自然とすべらない歩き方を身につけるだろう。意識して訓練するようにも、気が付くと身についていた、訓練されていた。ここに欲望の媒介はあるだろうか。自然と「環界」(雪国)と調和しているのではないだろうか。

◇ 要するに、ラカン神経症として人を分析するあまり「自然な」人間像を無視している。これは精神分析そのものとして言えるんだろうけど、人を病として見過ぎる。

◇ セックスこそが精神分析の源泉でしょ。フロイトはなぜすべてを性的なものとしたのか。多く指摘されたこの事実に精神分析の正体があると思います。性的なものは人間文化と深く関わり続けて来たからです。性と死、この二つが特に西洋文化の二大ドグマです。たとえばハイデガー「死」をその思想の基点としました。人は一人で死ぬということによって、現象学的な主体の強力な個体性(精神)を救済しました。この精神とは精神/身体=人間/動物です。同じような意味でフロイト「性」によって、精神を救済するのです。すなわち、性と死と切り離された行為はあるかという問いと考えてもいいと思います。動物はそうです。発情期以外は「性」と切り離されます。また動物は「死」を知りません。

◇ 別に雪国の人を馬鹿にしていないでしょ。誰もが歩き方など知らないでしょ。あなたはどのように歩いているか知っていますか。どのように倒れないように重心を保ちつつ体重移動し、多数の筋肉、間接を動かしているか。さらに歩き方にはそれぞれパターンがあり、またそのときの環境にあわせて耐えず変化していますそこに言語が介するとはどういうことでしょうか。

◇ 言語修得以前、以後の二項対立がおかしいのです。動物もまた後天的に訓練、学習します。体で覚えていくので、言語を介さない知というものがある。人間でもむしろそれが知の基本です。実はラカンもあながち遠くない。だから言語でなくシニフィアンなのです。シニフィアンとはなんですか。言語ではなく法則性そのものです。このあたりにもラカンのトリックが潜んでいます。だからシニフィアンとはなにが重要になります。

◇ たとえば最近でこそアシモなどで有名ですが、二足歩行ロボットを作ることは難題でした。すなわち人は誰もが当たり前の二足歩行をどのように行っているかしらなかったのです。いまでも二足歩行ロボットは人間のような自由度はありません。落としたものを拾うなど、ほとんどのことができないでしょう。問題は語る言葉がないということです。ロボット技術者は精神分析家に頼み。自由連想で二足歩行の知を聞き出すべきだったのでしょうか。この滑稽さは動物を精神分析するごとではないでしょうか。二足歩行でなくてもこのような運動の知は動物も学習し身に付けるものです。そこに唯一言語をもつ人間だから特別な要素はありません。

◇毎日歩く訓練をしているからです。毎日歩くことが訓練になっているということです。だからイチローは素振りをくり返す。そしてWBCの極限状態でも決勝ヒットを打つことができた。ボクはすべりにくい歩き方を研究しました。足首を使わずに、靴の裏全面に体重を乗せるように歩くのです。すなわち重心の移動を安定させるのです。ロボットもこのように動いています。そして雪国の人は意識することなくそのように歩いています。

自然なとは、その時の環境とアフォードした状態です。場にあった歩き方があるのです。たとえば岩場を軽快に歩く人がいます。ここにもコツがあります。これは理解してできるものではありません。繰り返し岩場を歩くこと、経験をつむことで可能になるのです。

◇調整の微妙さではありません。ソニーの研究者は二足歩行を可能にした画期的な発想の転換があったのです。それは歩くのではなく、倒れることです。安定した重心移動(微妙な調整)では長年成功しなかったのです。そうではなく、重心を投げ出し前に倒したのです。そして倒れる前に足を出す。倒れて支える、倒れて支える・・・の繰り返し、それが歩くということだったのです。

◇わかりにくいですが、歩くことのうまくなったり下手になったりしていますよ。たとえばいま一日1kmしか歩かない人が、50km毎日歩く生活をすれば、確実に歩くことがうまくなります。うまくなるとは効率よい歩き方になるということです。それが岩場ならば、始めはおそるおそるだったのが、警戒に岩場を歩くことができるようになるでしょう。人の行為は訓練量によって毎日変化しています。箸の使い方でも、ボールの投げ方でも、言葉の使い方でもです。

◇歩くことがうまくなることの理由とはなんでしょうか。理由と考えることがそもそも言語にとらわれているのです。行為は動物の次元にあるのですから、動物に理由を聞くのですか。キリンの首がなぜ長いのか。理由:高いところの食物を独占的に食べるため。こんなの嘘です。キリンの首が長くなっているのは数万年単位の時間がかかっているためです。その間、キリンは高いところの食べ物を食べようとしていたのでしょうか。たまたま首が長くなっただけです。これが言語のレベルの思考方法です。理由を問う病。ここにラカンが必要になります。

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*1:画像元 拾いもの