東浩紀は楽観主義的右派のニュースターになれるか

pikarrr2009-10-26

「誇り高き下流の登場

「ネットがあれば政治家いらない」 東浩紀SNS直接民主制提案 http://www.j-cast.com/2009/10/24052476.html


インターネットというテクノロジーは10万人規模の直接民主制を可能にする。基礎自治体(市町村)のいくつかはミクシィmixi)とかのSNSで運営すればいい――。批評家の東浩紀さん(38)が深夜のテレビ番組で「政治の未来像」について大胆な提案をした。「そうなれば、政治家は今ほど必要ないのではないか」というのだ。

ちまたで東浩紀の朝生の登場が話題になっているとか。残念ながら見逃したのですが、東ファンとして便乗したいと思います。ようするにですね。古くは、

右派・・・ブルジョアジー(金持ち)
左派・・・プロレタリアート(貧乏人)

の構図だったのにそこに中間層が現れたということなんです。

右派・・・ブルジョアジー(金持ち)
新世代・・・貧しいが右派 =「誇り高き下流
左派・・・プロレタリアート(貧乏人)

この新世代「誇り高き下流の特徴は、懐が寂しいが気持ちは贅沢なのです。好きな趣味をもとめて人と関わるのをさけて、労働を好まない。だからシステムとしては他者回避してお金ですべてが済む右派のネオリベラルな社会システムを好むが、ニート、フリーターで貧しい。左派のような戦うことを望まない。いままでにない層です。たとえば彼らがネオリベシステムを求めるので小泉支持でした。しかし小泉政策は格差を広げ貧しい者にはきつかった。

彼らをいかに扱うのかが、いまの政策の難しさの一つだと思います。右派は、新世代がネオリベを支持し、反抗しないことをいいことに、ネオリベを進めました。左派は、新世代を貧しさからいままでのプロレタリアートと同じように扱い、金を与え、労働へ向かわせようとする。しかしそのためのお金が膨大になる。

ボクはネタで、「スラム街復活論 正しい貧困生活のススメ」http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20091024#p1)のように書きました。貧しい人はやはり正しく貧しくあるべきではないか。そこから社会復帰への欲望であり、必要な福祉政策が見えてくるのではないか。「誇り高き下流ベーシックインカムのようなただ「大金」を落としても財政が苦しく、経済が疲弊するだけだと思うのです。




楽観主義的右派−機械論の系譜


一方でこのような貧困層の質か変わっているのは、生活者が変わっているという以上に、社会環境が変わっているということも確かです。これを「ポストフォーディスム」といいます。もはや経済に全員の労働を確保するだけの力はなくなっている。ネオリベラリズムでは「私たちは常態としてパート労働者なのであり潜在的にはつねに「失業者」なのである。」ということです。

だから開きなるしかない。貧困を楽しむしかない。それが東のいう動物化という楽観主義的な受け入れです。ここにみなが指摘する東思想の軽さ、現実性のなさがあります。しかしこのような楽観主義主義は、古くはコジェーブの消費社会への充足としての動物化から、トフラーの「第三の波」、そして最近の日本ではホリエモンウェブ進化論梅田望夫と続く楽観主義的右派の系譜です。

このような楽観主義的右派は機械論の特徴を持ちます。機械論の不死身はその時代の新たなテクノロジーをメタファーとして合理的なシステムを売りに、定期的に回帰します。コジェーブはアメリカの消費文化、トフラーは第三の波という情報社会、ホリエモンは既存メディアと対比したインターネット全般、梅田はグーグル、そして今回、東はSNS、twitter。そしてそのたびにスターを生んできました。では東浩紀SNS直接民主制によって楽観主義的右派のニュースターとなれるのでしょうか。 

バカと言われること覚悟で言うと、ぼくが実験してみてほしいなと思っているのは、「政策単位の投票」「投票履歴とSocialGraphからなる投票権のグーグル・ページランク的な重み付け」で成立するシステムです。

重要なのは、ルソーが「一般意志」「全体意志」から区別するときの特徴とした、「ひとびとの意志が加減され均される」状況をどう作るかです。ちなみに、「全体意志」は、ルソーの用語では「個別意志の集積」を意味する言葉です。それは一般意志とは違う、というのが「社会契約論」の要。

また「重み付け」という言葉で誤解されているが、むろん社会的弱者にはきちんと重みが来るようなシステムを作ればいいのだ。議論なき市場=弱肉強食、議論がある公共性=弱者を守るという二分法から自由にならなければいけない。というか、実際公共性も弱者守ってないし。

寝ようと思ったけれどひとこと。「この弱者に重みをつける」とだれかが決めるのではない。そもそも障害者なり母子家庭なりなんなりの当事者意見が通りやすい重みづけのシステム設計にする、と同時に設計の透明度を上げてだれもがシステムをチェックできるようにする、というのがぼくの理想なのです。


東浩紀 http://twitter.com/hazuma

権威ある学者の言説を重視すべきだとか、一流の新聞社や出版社のお墨付きがついた解説の価値が高いとか、そういったこれまでの常識をグーグルはすべて消し去り、「世界中に散在し日に日に増殖する無数のウェブサイトが、ある知についてどう評価するか」というたった一つの基準で、グーグルはすべての知を再編成しようとする。ウェブサイト相互に張り巡らされるリンクの関係を分析する仕組みが、グーグルの生命線たるページランクアルゴリズムなのである。リンクという民意だけに依存して地を再編成するから「民主主義」。P53-54


ウェブ進化論 梅田望夫 (ISBN:4480062858

フォーディズムにおいて工場から社会へと(ほとんど)一方的な関係が成立していた。フォーディズム体制においていわゆる「規模の経済」が成立したのも、こうした関係を背景にしてである(モノをつくればだいたい売れるということ)。ところが現代において、「成熟した」市場は「有限」であり、その商品吸収能力は硬直的で飽和的である。したがって、市場吸収力を越えるものはすべて排除される必要があり、それが首尾よくなされるかどうかは資本にとって死活問題になる。・・・生産は過剰に量を増大させず、かつ同時に生産性を上昇させるというかたちで構造化されなければならない。フォーディズム期とは異なり、生産をあらかじめプログラムすることはもはや不可能である。そのため、工場は市場に直結して自らを共振させ、変容することのできるオート・ポイエーシス的システムとならねばならない。

生産の意味そのものも変容する。インターフェイスとしての労働は工場から溢れだし、ネットワーク、フローというかたちで貯水槽として社会総体のうちに分散している。・・・こうして工場に限定されない社会総体と外延を等しくしながら拡がる水平的平面が、資本優位のフレキシビリティ、つまり資本主導による雇用の弾力化の条件である。・・・私たちは常態としてパート労働者なのであり潜在的にはつねに「失業者」なのである。P39-41


「自由論」 新しい権力地図が生まれるとき 酒井隆史 (ISBN:9784791758982


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