「マクロコンテクストの誕生」がマイブームです

pikarrr2009-10-27



なにかと忙しい今日この頃。久しぶりに大量にエントリーを投稿しました。

最近は「マクロコンテクストの誕生」がマイブームです。関連本を購入してあいまにコツコツと読んでます。この当たり日本ではマイナーなんですね。たとえば社会学の祖の一人とも言われる実証主義のコントの著書って新書で売っているものはないのですね。「科学化された人間」というのは忘れられた領域だと思うのですが、まさに現代の自由主義経済の原点だと思うのです。


「リスク」 ピーター バーンスタイン (ISBN:4532190797)
「偶然を飼いならす―統計学と第二次科学革命」 イアン・ハッキング (ISBN:4833222744)
「確率革命―社会認識と確率」 R.クリューガーら (ISBN:4900071692)  
「人間の測りまちがい―差別の科学史」 スティーヴン・J. グールド (ISBN:4309463053)




稲葉先生のフーコー講義が始まっていたのですね。聞きたいものです。講義メモを投稿していくようなのでそれで我慢しましょう。

東京大学教育学部教育学特殊講義「統治と生の技法」
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/searchdiary?word=%2a%5b%b9%d6%b5%c1%5d

さっそくおもしろいところ発見。ボクも同じようことを書いていたところ。(「マクロコンテクストの創造」http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20091025#p1

フーコーの議論自体は、社会経済史や政治史・法制史とは距離を置いた思想史・科学史のそれであるが、以上に提示したような段階論との相性はそれほど悪くない。まず気付かれることは『言葉と物』『監獄の誕生』などは顕著な例だが、彼が西洋の知の歴史に見出す不連続的な断層は、まさに18世紀末から19世紀初め、市民革命と産業革命の時代に主として求められ、近世の知と近代の知の対比が主題的に取り上げられている、ということである。しかし問題はそれだけではない。

そもそも発展段階論には固有の危うさがある。・・・段階論が科学的に有意味であるためには、段階区分の基準が明確であることが必要である。しかし既にみたように、そのような基準の候補は複数あるため、基準選択の問題が生じる。実際に我々が歴史を複数の段階に区分する際には、これら複数の基準を組み合わせて直感的に行っているにすぎない。

むしろ社会経済史や生活史、技術史などに着目した場合、そこに見えてくるのは人々の日常生活やそれを支える社会経済的・自然的環境の連続性であり、日々の変化がごく微小であること、劇的な変動は意外に少ないこと、である。資本主義発展段階論における二大構造転換期としての産業革命にせよ「大不況」にせよ、社会経済的な実態に即して、計量的に時代の画期を見出そうとすると、存外困難であることはしばしば指摘されている。すなわち、人々が自覚していない客観的な実態レベルに段階区分の根拠を見つけ出そうとすることは困難――というより危険なことなのである。むしろ我々は、大きく言えば人間の認知的限界に段階論の根拠を求めた方がよい。我々は共時的に、世界の中のさまざまな存在をいろいろな種に分類せざるをえないように、通時的にも、歴史をいくつかの段階に区分せざるを得ない、つまり複雑な現実を複雑なままにとらえることはできず、ディテールを省略した大胆な略図を描かずにいることはできない、ということだ。

となれば段階区分の基準は、思想や世界観のレベル、そしてそれを経由しての社会的実態への介入としての政策――それも個々の政策よりもマクロ的な先導理念――に求めた方が無難であろう。そしてどうやらフーコーは、こうした問題に気付いていた形跡がある。『知の考古学』において彼は当時のアナール派の人口史・社会経済史研究を念頭に置きつつ、実態的な社会史における連続性と、観念・概念史における不連続・飛躍とを対比していた。『監獄の誕生』『知への意志』そして『社会は防衛されねばならない』『安全・領土・人口』『生政治の誕生』において展開された彼の権力分析もまた、そのように読まれるべきだろう。

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20091023/p1

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*1:画像元 拾いもの