「貨幣依存」から「他者回避」そして「信用格差」へ


1 ベーシックインカム(働かない権利)からリビング‐ウイル(生きない権利)へ
2 ネオリベラリズムは「貨幣依存」から「他者回避」そして「信用格差」へ




1 ベーシックインカム(働かない権利)からリビング‐ウイル(生きない権利)へ

現代の大きなトレンドは「他者回避」


現代の大きなトレンドは「他者回避」なんでしょうね。象徴的なのは「コンビニエンスな商品提供」です。コンビニ、ファーストフード、ファミレスなど。これらのマニュアル化されたサービスは経費削減だけでなく、客への不干渉ということが価値になっている。

なのにネットでは人々は異常なほどに他者を求めているわけですが、ネットの魅力は関係の脱着が容易であるということでしょう。自分の都合でくっついたりはなれたりでき、実社会のようにコントロールできない継続した関係性を持たない。ネットコミュニケーションは「コンビニエンスな他者関係」といえる。




快適な「コンビニエンスな貧困生活」


現代の貧困問題の難しさもここにありますね。かつてのように社会的な搾取により貧困であるという面と、貧困者が「他者回避」したい故に貧困を選択しているという表裏がある。たとえば派遣やフリーターは単に正規雇用されないというだけではなく、社会関係に深く埋め込まれず、他者回避して労働したいという傾向もあるわけです。

ネットカフェ難民と言われた人々もまた裏表があります。確かにあまりお金がないことは確かでしょうが、本当に行き場がないのか。ネットカフェが他者回避された快適で「コンビニエンスな宿泊施設」なわけです。

現代の貧困者が怒らない理由の一部もここにあるのでしょう。そもそも他者回避したライフスタイルをみずから選んでいるという面がある。さらには労働運動のような他者との関係は重たく回避したい。

だから社会保障にしても自立支援など重たくて、ベーシックインカムのような何も言わずただ金が振込まれることを望むわけです。生きる最低額が振込んでくれれば、他者回避は確保される。ベーシックインカムとは「コンビニエンスは社会保障といわけです。

「コンビニエンスな商品提供」「コンビニエンスな他者関係」「コンビニエンスな宿泊施設」「コンビニエンスは社会保障それが、快適な「コンビニエンスな貧困生活」というわけです。




貧困者と経営者の利害の一致


これは現代の貧困者が怠け者であるということではなく、ものいわず低賃金で働く彼らがいるから、いまの日本の経済はなりたっている。もはや企業は多くの正社員を雇用するだけの経済力がなくなり、非正規な雇用によって維持されている。現代の経済はこのような着脱容易な低賃金な労働力によって支えられているわけです。

貧困者にとって他者回避のための「コンビニエンスな仕事」と、経営者にとっても切り離し容易な便利な労働力という必然的な利害の一致があるわけです。

それによって、またきめ細かに配置された安価な商品群がうまれ、お金で買えないものはない社会が維持され、そして快適な生活に必要なコストが下がっている。さらにネットの発達は大きいでしょう。楽しみのコストをただにしてしまった。極端にいえば食料費と寝床が確保されれば楽しく生きていける。それが現代の成熟した資本主義構造なわけです。




ベーシックインカム(働かない権利)からリビング‐ウイル(生きない権利)へ


他者回避はアディクト(はまる)と深く関係する。その場限りの快感を繋いでいく。ほんとうに人はそれて生きていけるのか。それに対比されるのが他者との関わりを成熟させていくことでしょう。他者との関わりの継続した関係(それはしがらみでもある)を築くことで、人は社会に対しての責任ある主体となるわけです。

しかしこの理性主義的な考えは古くさく支持されないでしょう。それだけではなくもはや発達した資本主義社会では維持されない。あるいは理性主義自体が資本主義社会が生んだ無理ゆえの理想幻想ともいえる。

どちらにしろ、怖いのは他者回避はコンビニエンスな生活を指向するわけですが、容易に想像できるのは、アディクトがとぎれたときに、アディクトが目的ならそもそもなぜ生きるの?という問いが浮上する。

現に自殺者は増加しているわけですが。究極の他者回避は死ぬことであり、そしてそこに究極の「コンビニエンスな生活」がある。たとえばベーシックインカムが「働かない権利」を開くなら、次にリビング‐ウイル「生きない権利」へ向かう可能性は高いでしょう。

リビング・ウィル *1


リビング・ウィル(Living Will)は、生前の意思という意味の英語の音訳。リビング・ウィルとは、生前に行われる尊厳死に対してであれば「尊厳死の権利を主張して、延命治療の打ち切りを希望する」などといった意思表示のこと。またそれを記録した「遺言書」などのこと。インフォームド・コンセントの浸透とともに、このような考え方も広まってきた。ほかに葬儀の方法や、臓器提供の可否などがリビング・ウィルの対象として論じられることが多い。




2 ネオリベラリズムは「貨幣依存」から「他者回避」そして「信用格差」へ

マクドナルドとごはんパックとトイレクイックル


「他者回避」とはたとえばマクドナルドですね。女性が1人で外食するのは大変らしいですね。男なら吉牛でも定食屋でもがつがつ食えばいいわけですが、世間体があるのかそうもいかない。でもマクドナルドでは女性一人は当たり前ですね。マクドナルドがある安心感。

百円のごはんパックはすごいですね。レンジでチンしてあったかご飯。またこれがうまい。へたに自分で炊くよりうまい。かまどで人が張りついて火加減調整した時代から比べたら、コンビニで百円で買ってチンですから。

あと、トイレクイックル。濡れシートで便器を拭いてそのまま捨てる。水に溶けるので。雑巾で濡らして拭いてしぼって乾拭きしての手間はいらない。最新の便器は自動で便器の蓋が開くとか。生活のすみのすみまで商品が入り込んでいる。そりゃ結婚率も下がりますね。

生存が他者との強い協力関係の上に成り立っていた時代から、近代になり商品群に囲まれてお金があれば生きていけるようになると、自我が肥大して個人主義になり、他者関係は煩わしくなる。さらに現代では商品が深く生活の細部まで浸透し包囲する「貨幣依存」によって、「他者回避」が商品そのものとして価値をもつわけです。

「貨幣依存」は金持ちになりたいと、貨幣を増やすこと、すなわち資本を求めるわけでなく、他者に頼らず貨幣で買える商品によって、生活の細部まで生活が依存する資本主義社会の特徴です。

その分、余暇に時間を避けるのですが、肥大した自我は余暇も「他者回避」傾向を持ちます。ネットでつぶやく。他者と関わっているようでネットの他者はコンビニエンスです。はなしたいとき、聞きたいときにフォローし、切りたいときに解除する。さらに生活費まで振込まれるコンビニエンスな社会保障ベーシックインカムまで導入されて、どんどんコンビニエンスな生活が進むとどこへいくのか。




ネオリベラリズムの偶然と信用


ネオリベラリズムはこのような貨幣依存を推進します。経済の流動性を高めて、貨幣秩序に任せれば、もっとも自由で平等な社会秩序が保てるという。

ボクはこのような自由経済秩序を二つの理由で信じられないですね。一つは「貨幣依存」で生きるのはとても危険だと思うんです。実力社会といいますが、偶然の世界だと思うんです。もともと貨幣依存して細々と生きるならいいですが、家族がいたりすると天災のようなものでいつ落ちるかわからない。

偶然とはおそらく人間がもっとも恐れるものです。本当の偶然のまえでは人は立っていられません。かつて地震、雷、火事、親父!と言われましたが、親父以外は天災偶然に関係します。文明とはなにかといえば偶然の恐怖を懸命に予測可能性にすることだといっていいでしょう。

だから担保として信用を求めるわけですよね。ここに二つ目の危惧があります。日本型社会主義?が破綻して倒しても、新たな信用が必要なわけですよね。一つは貯蓄です。日本人の特に高齢者の貯蓄率の高さは有名ですが、老後の不安に対する保証になっています。もはや家族は頼りにならず、お金しか信じられない。貨幣依存社会の特徴の一つですね。

しかし資本主義の信用とは、貯蓄よりも資本が重要だと思います。資本とは貸し借りという延滞された貨幣交換です。そしてその延滞を支えるのが社会的信用です。逆にいえば、社会的な信用とは資本量によって決定される。




貨幣社会の「信用格差」


すなわちネオリベラリズムは二つの意味で危険だと思うのです。一つは偶然性によって危険に晒される。明日がどうなるかわからない。もう一つはだから信用が重視される。そして偶然性は下流に働きやすく、信用は上流に働きやすいという格差を生むわけです。

貨幣依存社会では富を持つことがそのまま信用になる。富は信用で増えるので富むものはさらに富み、持たざるものはもてないままになる。結婚と年収が直結するのもそのためでしょう。

下流は偶然性の中でのその日暮らしを貨幣依存した商品によって綱わたる。上流は資本を担保に信頼関係の上流ネットワークを形成し、偶然を生き延びようとする。ネオリベラリズムは絶えずこのような格差構造を生むことを特徴とするわけです。下流の偶然の自由競争によって経済を活性化させて、その競争のよどみで偶然を回避しつつ富を回収する上流の助け合い。

だから資本以外にいかに信用を確保するかが重要になると思うんです。

*1:提供: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』