ウェブへ求めるものが日常の楽しいツールへと変容しつつある。

pikarrr2010-01-05


「サイバー空間」という言葉も死後になりつつある


いまでもインターネットは国家から自由だと思っている人はいるのだろうか。ほんの少し前まではインターネットにはそのような空気が満ちていた。それは日本のネットにアメリカの文化を残していた時代。とくにケータイという日本独自の文化が流れ込んだとき、ネットに日本色が強まり、自国色が強まった。

かつてネチズンなる言葉があった。ネットの市民権。いまではネットはGoogleなどの企業サービスが先行し市場優先、あるいはケータイによって日本色が強まり国民文化優先である。いまだにネチズン感をもっているのはiPhoneヲタのおじさんぐらいか。

それにともない「サイバー空間」という言葉も死後になりつつある。市民権から市場と国民文化へ優先度が移動することで、ネットコミュニティと実社会の主権対立の構造が薄れて、いまでは実社会との延長線上にネットがある。それでもまだ垣根はある。貨幣である。




グローバルな「フリー」モデルと、ローカルなドコモモデル


いまだにウェブでは貨幣の流通が不十分である。仮にウェブユーザーがウェブ上に1千万円の価値がある物的資本をもっていて、ウェブ上でなければ価値がないとすればどうだろう。他のユーザーとのいさこざや、サービスが停止されたりして不安定なウェブで簡単に物的資本を諦められるだろうか。逆に言えば、1千万円の物的資本を預けられるほどにはまだウェブサービスには信頼性がないということだ。

課金を考えると、いままでのオープンより入口はもっと閉じる必要がある。「閉じる」とは、日本のケータイのようにケータイメーカーによってウェブ上のコンテンツを限定し、一括で課金を引き受けるなどの安全対策が求められる。

日本のケータイは世界で唯一、コンテンツで1兆円規模の課金を成立させている。ドコモがガラパゴスといわれる理由の一つは、ビジネスモデルがいままでのウェブ標準の「フリー」ではなく、課金を基本としたことだろう。

「フリー」モデルとはGoogleのようにすべてのサービス、コンテンツをただで提供し、広告収入を得るような方式である。フリーモデルはグローバルな巨大なパイがものをいうから米国企業の独壇場である。だからドコモがグローバルとは反対のローカルなサービスで課金を目指すのは必然といえる。これはドコモにしてみるとたんにエコノミーの違いだが、思想の違いとして捉えられた面がある。

Googleのようにオープンにしすぎると絶対に課金はできない。広告収入そのものは今後さらにパイの取り合いの厳しい競争になるために、IT企業は新たな課金方法を模索している。ドコモモデルは金持ち日本以外では難しいが、多くがドコモモデルの成功を横目で見て新たなエコノミーを模索している。コンテンツ収入は日本のケータイには遙かに及ばないがiphoneは一部成功している。また後発の米国企業以外は目指すモデルとなるだろう。




ウェブの日常化 もうGoogleのフリー思想は古い?


ウェブも何でも自由というのは古くなりつつある。ある種初期の幻想だろう。ウェブはもっと地域性が重視されるものになるだろう。たとえば国家毎に異なる法があることもさけられないだろう。ようすには自由には自由の不自由=セキュリティ(安全)問題がある。

多くの人がもはやウェブに自由のみを求めていない。無法地帯をおもしろがる時期もすぎた。誰もが誹謗中傷や安全性で一度は痛い目にあっている。無秩序に対して少しずつ警察の介入や、様々な法案が進んでいるが、以前のように人々が闘うことがなくなっている。

その理由の一番が、ウェブサービスへ求めるものが現実的な日常の便利で楽しいツールへと変容しつつあるためだ。ウェブ上のグローバルなシームレスではなく、ウェブと日常とのシームレスへ向かっている。そのために今まで放置されていた、知財権やプライバシー、そして貨幣交換について、実社会の規範、法制度と折り合いをつけていく作業が必要になる。

その兆候として、Googleのグローバル「フリー」モデルが各所のローカルと衝突している。グーグルアースのプライバシーの問題、本の読み込みでの知的財産権の問題。さらにはGoogleが目指すクラウドコンピューティングも国外へ情報がでることが問題になっている。

Googleも巨大な資本企業であり、単に自由に対する既得権益の抵抗と楽観的に考えることはできない。もはや楽観的にGoogleは自由な正義と考えることはできない。むしろこのような対立こそ健全だと思う。より実生活と密接に便利につかうために、グローバルでフラット化したウェブをいかにローカライズして安全を確保するか。もうGoogleのなんでもフリー思想は古い?

われわれは、『インデペンデンス・デイ』の地球人が宇宙人を迎えたのと同じくらい、ネットを歓迎して喜んでいた。それがわれわれの生活の中で拡大するのを、その最終的な影響を考えずに受け入れてきた。でもどこかの時点で、われわれも脅威の可能性を理解するようになるだろう。サイバー空間がそれ自身の自由を保証するものではなく、むしろコントロールのためのすさまじい可能性を抱えていることを理解するだろう。そしてそのときになってわれわれは問うことになる:どう対応したものか、と。


「CODE VERSION 2.0」 ローレンス・レッシグ (2006) P109-111 (ISBN:4798115002)

Googleで製品管理を担当するジョナサン・ローゼンバーグ上級副社長の「The Meaning of Open」(オープンの意味)という記事を読んでいただきたい。これは素晴らしい論文だ。

われわれは開発ツール用のコードはオープンにする方針だが、Googleのすべての製品がオープンソースになるわけではない。われわれの目標は、インターネットをオープンなものにすることだ。それは選択肢の拡大と競争の促進につながり、ユーザーと開発者が縛られるのを防ぐことができる。コードをオープンにすることがこういった目標に貢献せず、ユーザーに迷惑を与えるケースも多い(特に当社の検索製品と広告製品の場合)。検索・広告市場では、乗り換えコストが非常に低いこともあって、既に激しい競争になっている。このためユーザーと広告主には既に多くの選択肢があり、彼らは縛られていない。言うまでもなく、これらのシステムをオープンにすれば、人々がわれわれのアルゴリズムを悪用して検索や広告品質のランキングを操作することが可能になり、当社製品の品質低下を招く恐れがある。(米Google ジョナサン・ローゼンバーグ)

まず、Googleは多数のソフトウェアをオープンソースにしている。ローゼンバーグ氏によると、Googleは世界最大のオープンソースコントリビューターであり、800以上のプロジェクトを通じて全部で2000万行以上のコードをオープンソースとして提供しているという。

だが同社はシステムをクローズドにする方法も、誰にも劣らずよく知っている。同社の検索・広告プラットフォームがクローズドであるのもそのためだ。・・・Googleがこれらのプラットフォームをオープンソースにするというリスクを決して冒さないのは、同社の最大のドル箱を壊すことになるからだ。資本主義という視点で見れば、Googleが年間200億ドルを超える巨額の収入を稼ぐことを可能にしているのは、クローズドでプロプライエタリな検索・広告技術なのだ。


Googleの言う「オープン性」の真の意味とは? 2009年12月24日 http://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/0912/24/news079.html