日本人とはどのような人たちか Ver.1.2

pikarrr2010-06-26


1 島国のハイコンテクスト社会
2 様式化される慣習
3 現世(現場)主義
4 カブレた外来文化による世代間対立
5 外来文化を日本式慣習へ改良する
6 近代以降の国家主義
7 民主主義より資本主義に順応

1 島国のハイコンテクスト社会


日本人社会がハイコンテクストであるのは島国に特徴を持つだろう。単に島国と閉じているだけではなく、重要なことは外部からの侵入が防がれたことである。朝鮮の存在が外部からの侵入への障壁として働いてきたことを柄谷は指摘している。

日本において丸山真男がいう「古層」が抑圧されなかったのは、日本が海によって隔てられていたため、異民族に軍事的に征服されなかったからである、と。日本に入ってきた宗教が仏教であったがゆえに、「去勢」がおこらなかった、ということではない。仏教は特に寛容な宗教ではありません。逆にいって、一神教が特に苛酷だということもない。苛酷なのは、世界帝国による軍事的な征服と支配です。宗教がたんにその教えの「力」だけで世界に広まるということはない。その証拠に、世界宗教は、旧世界帝国の範囲内にしか広がっていないのです。世界帝国は多数の部族や国家を抑圧するために、世界宗教を必要とした。P104

「島」においては、自らの輪郭を維持するためのエネルギーが消費されず、また、外から何でも受け入れるが、プラグマディックにそれを処理して伝統規範的な力にとらわれず創造していくことが可能になる。こういえば、宣長「やまと魂」と呼んだものが、いかにして生じたかが説明できます。日本列島には多くの種族が古来渡来してきていますが、軍事的な征服は一度もなかった。だから抑圧あるいは「去勢」がなかったのです。P111


「日本精神分析 柄谷行人 (ISBN:4061598228

(日本人には)「人間」日本教「空気」「常識」、こうした概念、その意味内容は、中性的で、無性格で、どこにでもあるという点で共通している。空気のように毎日それを吸っているのに感じないという点である。

つまり、法律として国家で決められようと、その条文を理性的に読めばそのとおりであろうと、その理屈の外、法律の外に、日本教「人間」という観念を措定しており、それに抵触するような「非人間的」なこと、たとえば生きていけなくなる、あるいはそこまで行かなくても、人間らしく暮らせないようであれば、法は無視してもよいと考えられているのだ。

・・・日本では、神ではなく自分たち「人間」が最上の価値なのである。だから、その「人間」レベルにある「常識」は、「人間」が解釈して使いやすくすることに何の問題もない。・・・その「人間」自体も、観念として抽象化されてはおらず、常に生身の裸の人間という具体のレベルで捉えられ解釈され直すのであって、抽象化された言葉で書かれたりしてはならない。

というものの、そうした曖昧さと言い合いにもかかわらず、日本社会は壊滅することなく動いているし、むしろその安定さを指摘されることが多い。逆に言えば、「人間」「常識」「場の空気」を正しく認識するために、日本人は多くの時間を互いの考えのすり合わせのために費やしているということであり、かつ、結果としてはかなり程度まで、共通理解を獲得することに成功しているということである。これはまた、こうした共通解を会得しなければ、「日本人になれない」ということである。


「日本人論」再考」 船曳建夫 (ISBN:4062919907)  P248-251




2 様式化される慣習


たとえばイチローのバッティングは儀礼的な様式美のように見えるが、安定して効率的なバッティングをするための反復運動の慣習化である。このように様式化は古くは義理人情、ワビサビなど日本文化に根ざしている。現代日本オタク文化もその伝統を継承していることはすでに多くの者が指摘している。日本のハイコンテクストな文化は西洋人からは理解しがたいスノビズムとうつるようだが、ハイコンテクストな社会の内部では必然的な慣習化=様式化である。

スノビズムとは、与えられた環境を否定する実質的理由が何もないにもかかわらず、「形式化された価値に基づいて」それを否定する行動様式である。スノッブは環境と調和しない。たとえそこに否定の契機がなにもなかったとしても、スノッブはそれをあえて否定して、形式的な対立を作り出し、その対立を楽しみ愛でる。コジェーブがその例に挙げているのは切腹である。切腹において、実質的には死ぬ理由が何もないにもかかわらず、名誉や規律といった形式的な価値に基づいて自殺が行われる。これが究極のスノビズムだ。・・・日本ではオタク系文化が出現し、江戸文化の継続者を自任しつつ新たなスノビズムを洗練させていったからである。P98-99


動物化するポストモダン オタクから見た日本社会」 東浩紀 (ISBN:4061495755




3 現世(現場)主義


日本人は慣習により秩序を保つことからも、思弁的、超越的なものより、実働的、現場的なものを重視する。現代でわかりやすいのが技術立国としての日本である。日本の技術は現場に根付いた改善、改良を基本とする。いかに製品として実働的な効果があるか、むしろ理論的なものはあとでよい、とされる。たとえば日本のアカデミズムの中での大学の弱さがその傾向を示しているだろう。

文の構造、すなわち言葉の秩序が、具体的で特殊な状況に超越し、あらゆる場面に通用しようとする傾向は、中国語にくらべても、西洋語とくらべても、日本語の場合、著しく制限されている。そういう言葉の性質は、おそらく、その場で話が通じることに重点をおき、話の内容の普遍性(それは文の構造の普遍性と重なっている)に重点をおかない文化と、切り離しては考えることができないだろう。この文化のなかでは、二人の人間が言葉を用いずに解りあることが理想とされたのであり、主語の省略の極限は、遂に、文そのものの省略にまで到ったのである。またおそらく文の構造が特殊な状況に超越しない言語上の習慣は、価値が状況に超越しない文化的傾向とも、照応している。P19-20

本来日本的な世界観の構造を叙述することは、明示的な理論体系の特徴な列挙するほど容易ではない。神道の理論的な体系は、ト部兼倶から平田篤胤に到るまで、儒・仏・道、またキリスト教の概念を借用している。外来思想の影響をうけない神道には理論がない。そこで儒・仏の影響の少ないとされる記・紀・風土記から土着的と想像されるものの考え方を抽象するほかないだろう。P36-37


「日本文学史序説」 加藤周一 (ISBN:4480084878

仏教が日本に迎えられた最初の時代には、それはどういうふうに理解され信仰せられたのであるか。・・・当時の日本人の大多数が原始仏教の根本動機に心からな共鳴を感じ得なかったことは、言うまでもなく明かなことである。現世を止揚して解脱を得ようという要求を持つには、「古事記」の物語の作者である日本人はあまりに無邪気であり朗らかであった。

・・・彼らは仏教を本来の仏教としては理解し得なかった。彼らは単に現世の幸福を祈ったに過ぎなかった。それにもかかわらず彼らの側においては、この新来の宗教によって新しい心的興奮が経験され、新しい力新しい生活内容が与えられたのである。しかもそれは、彼らが仏教を理解し得たと否にかかわらず、とにかく仏教によって与えられたのである。従って彼らは、仏教をその固有の意味において理解し得ないとともに、また彼らの独特の意味において理解することができた。P45-46

かくして受容せられた仏教が、現世利益のための願いを主としたことは、自然でありまた必然であった。彼らは現世を否定して彼岸の世界を恋うる心を持たなかった。・・・がこれを、ある人がいうように、「功利的」と呼ぶのは正当ではないであろう。彼らの信仰の動機は、物質的福祉のために宗教を利用するにあるのではなくして、ただその生の悲哀のゆえにひたすら母なる「仏」にすがり寄るのである。この純粋の動機を理解せずには、彼らの信仰は解し得られないと思う。P52


「日本精神史研究」 和辻哲郎 (ISBN:4003314476


4 カブレた外来文化による世代間対立


外部から閉ざされ安全でハイコンテクストな社会は内部に閉塞しやすい。このために日本人は古来より外来文化に対して貪欲で、その時代に到来した外来文化にカブレた。そして外来文化へのカブレは、既存の日本文化が遅れているとばかにする。前世代と相対化することで閉塞を打開しようとする。それ故に熱狂的だ。この世代間対立が日本文化を活性化し、連続性を生み出してきた。

私達の伝統的宗教がいずれも、新たな時代に流入したイデオロギーに思想的に対決し、その対決を通じて伝統を自覚的に再生させるような役割を果たしえず、そのために新思想はつぎつぎと無秩序に埋積され、近代日本人の精神的雑居性がいよいよ甚だしくなった。

・・・問題はむしろ異質的な思想が本当に「交」わらずにただ空間的に同居存在している点にある。多様な思想が内面的に交わるならばそこから文字通り雑種という新たな個性が生まれることが期待できるが、ただ、いちゃついていたり喧嘩したりしているのでは、せいぜい前述した不毛な論争が繰り返されるだけだろう。


「日本の思想」 丸山真男 (ISBN:400412039X) P63-64




5 外来文化を日本式慣習へ改良する


このような表層の世代間対立に対して、ハイコンテクストな秩序は言葉よりも「いわずもがな」の身体的な慣習により脈々と受け継がれている。ハイコンテクストな文化は言語ではなく、多くにおいて様式化された慣習として伝承されていく。文化が言語(思想)化することはその文化に対して俯瞰したメタ視線をもつ特殊な行為である。そして新たな身体的な慣習として根付くまでには長い時間が必要になる。根付いたときには独自に洗練され、日本式の慣習的に洗練された別物なっている。

芥川龍之介はたくさんの短編小説を書いていますが、素材から見て、主に、明治の文明開化期、十六世紀のキリシタン平安時代「今昔物語」などに依拠しています。それらの選択は恣意的に見えます。しかし、よく見ると、芥川に、彼が生まれる以前の日本人が、外国の文化や思想をどのように受け取ったかという問題を検証しようとする一貫した意思があったように思われるのです。

それを明確に示すのが、「神神の微笑」という作品です。これはいわゆるキリシタンものの中で最も重要な作品です。ここには特に筋のようなものはありません。主人公、イエズス会の宣教師オルガンティノは、日本の風景を美しく思い、キリスト教の広がりにも満足しているのですが、漠然と不安を覚える。「この国の山川に潜んでいる力と、多分は人間に見えない霊と」戦わなければならないと、彼は考える。彼はしばしば幻覚におそわれるのですが、そのなかに老人があらわれます。彼は日本の「霊の一人」であり、日本では、外から来たいかなる思想も、たとえば儒教も仏教も、この国で造り変えられる、と語ります。《我我の力と云うのは、破壊する力ではありません。造り変える力なのです。》P62


「日本精神分析 柄谷行人 (ISBN:4061598228



6 近代以降の国家主義


現代日本人にとって重要な出来事は、明治開国による西洋化だろう。西洋化には大きく、産業革命と民主革命がある。日本では武士という特権層により革命が行われたこと、また西洋による侵略を回避する強い国を早急に作ることが目的であったことから、産業革命に重きがおかれた。江戸時代の階級を活用した天皇制による国家一丸の体制が進められた。天皇制は戦後解体されたが、財閥を中心とした国家中心体制は今も継続される。結局、民主革命は曖昧なまま進み、いまも日本人は市民としてよりも会社中心人間である。

明治維新からまもない一八七一年に新政府は・・・指導者階層を二つに分けて、そのどちらかといえば若いそれ故に学習能力をもつ部分をヨーロッパと米国とに送って西洋の制度を勉強させました。

高級官僚の派遣団は西洋諸国の技術の発達とその能率から深い印象を受けます。彼らはまたその能率のある統治組織を推し進める宗教および倫理の信条をもうらやましいものと感じました。この故に彼らは能率の高い技術文明を支える力として、日本の神道の伝統を模様替えして取り入れる流儀を採用しようと考えました。こうして天皇崇拝は、日本においてそして日本だけに栄えるものになる技術文明の殿堂の思想的土台として据えられることになりました。


「戦時期日本の精神史 1931‐1945年」 鶴見 俊輔 (ISBN:4006000502) P58-59

GHQの)財閥解体政策によって中枢の本社機能が解体され、特に持株会社は廃止された。・・・打撃を受けたのは、どちらかといえば「新興財閥」であって、「旧財閥」は分散はしたが復活の芽を多く残していた。傘下の大企業は残されたし、・・・財閥の中枢機構としての金融機関はまったくといいほど、手がつけられなかった。

しかも、冷戦体制が明らかになるにつけて、アメリ占領政策の転換が起こった。51年7月に持株会社整理委員会は解散したので、財閥解体業務は終焉した。この後、日本の財閥解体は急激に緩和されることになり、日本資本主義の発展には有利となった。したがって、戦後復興にこれら大企業がそのまま関与して、復活した。


「戦後日本経済の総点検」 金子貞吉 (ISBN10:4762006777) P11-12




7 民主主義より資本主義に順応


日本人が民主主義より資本主義に順応したのは、国家中心政策だけではない。ハイコンテクストな社会は言葉よりも「いわずもがな」の身体的な慣習により、秩序が保たれる。産業技術の基本は技であり、身体的な洗練により慣習化されて向上する。このために日本人のハイコンテクストな文化にあっている。ガラパゴス化と揶揄されるほどに洗練・様式化され、世界的に飛び抜けた消費文化を達成している。それに対して民主化とは思想であり、言葉として伝達し深められる。制度としては導入されたがそのもとにある思想は浸透したとは言えないだろう。

現代日本人おいて)何かしてくれる国家について国家論は盛んであり、そこに臣民意識が現れるが、国家主権といった国際政治における主体の問題としての国家とそれを動かす国民の議論はない。国債、年金、道路といった、「生活環境のインフラ」としての国家に関心があるのだ。もちろんそうしたインフラは、国家そのものである。しかし、それを動かす国民はどのようなものかは心底の関心にはなっていない。

・・・「市民」というモデルが、いわゆる「市民活動」にたずさわる人というのであるならば、それは社会に広く行き渡り、現実化している。・・・しかし、それは西洋型の市民というのとは違うだろう。・・・日本の市民は「社会」ではなく、「世間」に生きている。日本の「市民」は庶民と同義にとらえられ、使われている。「市民」のカッコはなかなかとれない。


「日本人論」再考」 船曳建夫 (ISBN:4062919907)  P297-298


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