なぜ現代日本はハイコンテクストな格差社会なのか

pikarrr2010-07-11


1 日本語はハイコンテクストな言語
2 文化は振動によって伝達されていく
3 言語という人間のリズム
4 日本人の同期することへのどん欲さ
5 日本人の習慣の破れに対する強迫性
6 日本人に甘えが氾濫する
7 日本人のスノビズムマクドナルド化
8 日本のハイウエイ格差社会
 



1 日本語はハイコンテクストな言語


日本語はハイコンテクストな言語


英語など欧米言語と比較して日本語の特徴は主語が省略されることだ。言語学的にこの特徴は「場の共有」によると言われる。同じ場を共有していることが当然の前提とされているために主語を付ける必要がない。すなわち日本語はハイコンテクストな言語と言うわけだ。たとえば主語を付ける場合にも、"I"に対して、私、オレ、ボクなど、場によって使い分けがなされるのも、コンテクスト重視の傾向だろう。

さらに日本人のハイコンテクストを究極的に表すのが俳句だろう。俳句が伝えるのは当然、コンスタティアブな意味ではなく、レトリカルな意味である。しかし単に言語学的なレトリックに収まりきれない世界観の伝達である。五七五の文字でなぜに世界観まで伝達しえるのか。いかに高いコンテクストの共有が前提とされているかわかる。

だから逆に日本人にすると、いちいち主語をつける西洋人の方が不思議である。コンテクストに関係なく誰に対しても"I"と主張する。彼らは空気を読まないのだろうか。しかしこのような個人主義的な「場」からの切断力がなければいまのような科学技術も資本主義も民主主義もなかったのだろう。そして現代の日本語は明治以降の近代化で大きく変わった。西洋文化輸入と共に西洋語の翻訳的な言葉として「国語」が生まれた。

この傾向は西洋の個人主義の導入によって日本人のハイコンテクストが解体されたというよりも、国民(ナショナリティ)を想起することで、特に日本においては集団主義によってハイコンテクストを強化した面が強いだろう。それが特に資本主義経済の生産性向上にも大きく貢献した。



なぜ日本人にあいさつは必要か


海外では挨拶しない文化は多い。日本人の挨拶に関して言えば、ハイコンテストな「いわずもがな」な社会だから、ぶっちゃけ省略しててもよいだろう。たとえば家族など身近では省略されてる場合が多い。

しかしこれを社会全般に展開すると、「なあなあの甘え」が反乱して社会秩序を維持することがむずかしい。だから日本人はハイコンテクスト社会の「なあなあの甘え」へ落ち込みやすい傾向を、習慣の儀礼化によって抑止し、社会秩序を維持してきた。日本人がいまも形式的儀礼社会であるのはこのためだ。

これに対して、「もう挨拶いらないだろう」とは、儀礼なくても社会秩序は保てるだろうということを意味する。なにによってか。資本主義的な経済的合理性によってである。いまの日本は経済的に成功し、経済的な合理性によって社会秩序が維持されている面が高い。ようするに「礼儀とかいうな、結果を出せばいいんだろ。」ってことが、挨拶を疑う可能性を生んでいる。

しかしこのような素朴な懐疑に、経済的合理性による問題が考慮されているか疑問である。経済的な秩序とは個人主義的自由競争社会である。だから結果が出なければ切られる。問題は結果をだしつづけられるのか、ということだ。反抗期はいいんだろうが、長い社会生活では経済的な合理性だけでは生きてはいけない。

さらに現代日本の経済的な成功は、日本人のハイコンテクストな形式的儀礼による規律・勤勉さと切り離せないだろう。だからハイコンテクストな日本で生きるには、経済的に成功する場合にも失敗した場合にも儀礼的な秩序を重視することは幸福にかなっている。


日本語の多くの文で主語としての「私」が要らないのは、「私」を音にする必要がないから、ということがここまででわかった。・・・月が出ている夜空を見ている二人がいて、そのうちの一人が言うとすれば「月が見える」である。「私は月が見える」は不自然である。これは、夜空を見ているという状況を二人が共有しているので、わざわざ「私は月が見える」と言わないのである。

日本語では、共同注視という認知状態から発話という言語状態に連続的に移れるので、わざわざ「私」という必要がないと言える。これに対して、英語では、共同注視という認知状態から、発話という言語状態に連続的に移れないので、わざわざ"I"と言わなければならないのである。

日本人は、認知的主体と言語的主体の連続性が大きく、認知的な部分と言語的な部分がなめらかに統合されている。これを言い換えれば、日本人の心は状況や環境に埋め込まれて度合いが大きいので、言葉で補う度合いが少なくてすむ、とも言える。

これに対して、イギリス人は認知的主体と言語的主体の連続性が小さく、認知的な部分と言語的な部分があまりなめらかに統合されていない。言い換えれば、イギリス人の心は状況や環境に埋め込まれている度合いが小さいので、言葉で補う度合いが大きくなるともいえる。P201-204


「日本人の脳に主語はいらない」 月本洋 (ISBN:4062584107

日本語には非常に多くの一人称がある。私、わたくし、あたし、あたい、自分、僕、おれ、われ、わし、吾輩、拙者・・・・・。自分のことをどんな言葉で言うかは、その人の社会的立場や、その発話をする状況したいである。・・・日本語の「私」という言葉も、すでに社会的な色彩を帯びた言葉になっているのだろう。

「日本語の世界での自分という人は、相手という存在が作ってくれるひとつひとつの関係のなかでの、自分と相手とのあいだにある上下の位置関係を細かく計って確認し、そのような関係のなかでの話が交わされることをも確認した上で、その範囲内でのみ相手と話を交わしていく。(片岡)」

日本語の人称の多さは、認知主体と言語的主体が連続していることからも説明できる。・・・言語的主体が認知的主体の状況をひきずりながら表現されているである。P204-207


「日本人の脳に主語はいらない」 月本洋 (ISBN:4062584107

日本語の擬態語には「ヌルヌル」「ベタベタ」「グズグズ」といった反復表現が多用されているが、こうした傾向は東南アジア緒語には普通に見られる。これらに共通するのは、シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)との間に何らかの自然的な結びつきが見いだせる点である。・・・擬態語については、印欧語の場合、そもそも数が極めて少ない。

日本語を含む東南アジア諸語とアフリカのスワヒリ語などにおける擬態語の豊富さは、分析的で抽象的な語彙によって現実世界に対する象徴的世界の自立を成し遂げた印欧語圏とは異なって、現実世界を引きずったまま、その内部に象徴的世界を埋め込む性向を示すものである。それだけ、言語自体にその身体的基礎の名残が付着しているといえる。

このオノマトペ(擬音語、擬態語)の具象性、体験性、感覚性といった特質は、一言で言うならば反抽象、反分析の傾向であり、現実をそのままに具体的かつ臨場的に体験したままに表現しようとする性向である。日本語の言説は、経験的現実から完全に自立することなく、現実のコンテクストに半ば埋め込まれているのである。オノマトペの多用といった点からするなら、日本語とは、現実世界=生活の現場(「場所」)に「参加」し、「内属」した立場と「視点」によって、そこで体験的に感受し、感得した事態をなるべく抽象することなく、具体的に、出来事の経過するがままに、連続的に、「生き生きと」描写するよう「動機付け」られた言語であるということができる。P19-22


「日本のコード―〈日本的〉なるものとは何か」 小林修 (ISBN:462207446X

<俗語革命>から十八世紀、遅いところでは十九世紀、二十世紀初頭にかけてヨーロッパが辿った道のりは、さまざまな「出版語」が、<国民国家>の言葉として次第に固定されていった道のりである。

さまざまな「出版語」が<国民国家>の言葉として固定されていくうちに、人間には、同じ言葉を共有する人たちとは同じ共同体に属する、という思いが生まれてくる。同じ「想像の共同体」に属するという思いが生まれてくる。すると、ナショナリズムが芽生えてくる。じきにそのナショナリズムは、隣国との戦争を重ねるうちに形成されつつあった<国民国家>によって、自覚的に利用されるものとなる。

このナショナリズムを育むのに大きく貢献したのが、新聞などの出版物であり、さらには、ほかならぬ<国民文学>である。<国民文学>は、<国民国家>という均質な空間に同時に生きる「国民」というものを想像させ、その「国民」に対して同胞愛をもつのを可能にする。そして、そのような<国民文学>をそもそも可能にしたのが、<国語>である。<国語>は、「出版語」が<国民国家>の言葉に転じたときに生まれたものだが、一度生まれてしまえば、「国民」がもつ国民性の本質的な表れだとされるようになる。P112-113


日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で」 水村美苗 (ISBN:4480814965

日本は、非西洋にありながら、西洋で<国民文学>が盛んだった時代にたいして遅れずして<国民文学>が盛んになったという、極めてまれな国であった。

なぜもかくもはやばやと日本に<国民文学>が存在しえたのか。それは明治維新以降、日本語がはやばやと、名実ともに<国語>として成立しえたからにほかならない。それでは、そもそもなぜ日本語がはやばやと、名実ともに<国語>として成立しえたであろうか。

一つは日本の<書き言葉>が、漢文圏のなかの<現地語>でしかなかったにもかかわらず、日本人の文字生活のなかで、高い位置をしめ、成熟していたこと。もう一つは、明治維新以前の日本に、ベネディクト・アンダーソンがいう「印刷資本主義」がすでに存在し、その成熟していた日本の<書き言葉>が広く流通していたということ。P156-158


日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で」 水村美苗 (ISBN:4480814965

日本人が、日本語を他の外国語と本格的に比較するようになったのは、明治維新以降である。・・・西欧列強に追いつくための手段の一つが、日本語の英語化であった。学校教育や翻訳を通して、上から権力や権威を使って組織的に、日本語を改変してきた。

明治維新から百四十年あまり経った現在の日本語は、江戸末期の日本語とはずいぶん変わったものになってしまった。たとえば「私は日本人である」という文は、現在ではまったく普通の文である。しかし、この「〜は・・・である」という文は、明治時代に登場した表現であり、目新しくてハイカラな響きがしたようである。・・・また句点(。)も明治に作られた。

明治維新のころを現在の日本人を比べれば、明治の日本人のほうが、より多くの場所の論理を用いた表現や思考をしていたのではないかと思う。学校の義務教育で模倣されることや翻訳文が数多流通することで、われわれの日本語は百四十年間を経て大きく変わってしまった。「主語」に対しても違和感がないし、私、彼、彼女等の人称代名詞も、それなりに日本かして定着きている。P233-235


「日本人の脳に主語はいらない」 月本洋 (ISBN:4062584107



2  文化は振動によって伝達されていく


動作の同調による振動圏


NHKの実験バラエティ番組すイエんサーhttp://www.nhk.or.jp/suiensaa/)の中で面白い実験をやっていた。仕切りの前で被験者に足踏みをさせる。そして仕切りをとると、もう一人の被験者が足踏みをしている。始めは当然、二人の足踏みはバラバラであるが、しばらくすると自然とあってきてしまう。では意図的にずらすように指示するがうまくできない。この実験は人は相手を見ることで基本的な動作のレベルで同調してしまう特性があるということを示している。

ボクたちが日々を他者に囲まれて生活しているということでは、しらずしらずに同期しているということだ。たとえばこのような同期を波のようなものと考えると、視線を通して波の振動は絶えず人の間を伝達されてつづけているということになる。

また人が生活しやすいように生活環境をつくることは、波を円滑に起こすような場の形成を意味する。すなわち波は生活環境にも共鳴し、その場にいる人はまた環境によって波が伝達されやすい状態に置かれる。このようにして生活場は一つの振動圏が形成されているということだろう。



振動圏としてのローカル文化


このような同期を軍隊のような規律統制と考える必要はなくて、波は波を交差することで新たな波を生み出していく。たとえば1/fゆらぎとか、フロー体験とか、同期の中のある離脱が心地よさ、楽しさを生み出すといわれている。同期とはこのような遊びも含んだ上での同期だろう。

たとえば会話するということはまさにこのような同調が行われているのだろう。面と向かって話すことでなにか解り合えるようなことだけではなく、そこでは呼吸から言い回しから同期が起こっている。このようなコミュニケーションの振動場の中で、ローカルな文化は生まれ、伝達されていく。



3 言語という人間のリズム


お経のリズム


たとえば宗教の基本は反復です。意味のわからないお経を繰り返し、祈りの動作を繰り返す。これってすごく言語ゲームなんです。宗教の教え=規則を理解すること以上に訓練し習慣化させること。これによって言語ゲームに深く引き込まれていく。

教えを理解することが重要ではなく習慣の先に悟りがある。これに対して哲学はたえずみずからをみずからの言語ゲームのメタ位置にたとうとする運動といえるかもしれません。しかしウィトゲンシュタイン的にいえばほんとにメタ位置は存在するのか、ということでしょう。なんらかの言語ゲームに帰属しないとコミュニケーションそのものが不可能で、それは習慣として深く刻まれている。

お経や呪文の重要なところは「リズム」です。それはある種の音楽。音楽は運動性であり、言語理解と異なる経路で体にしみ込み、刻まれる。反復することで訓練される。たとえば軍隊の訓練でもリズムが重視されます。



言語論とリズム


言語(記号)論は、意味論、統辞論、語用論に分類される。統辞論はシニフィアンのパターン、意味論はシニフィアンシニフィエの関係のパターン、語用論はコンテクストとの関係のパターンが研究される。

あるいは論理学と修辞学の分類がある。論理学は形式的な言語論理のパターン、修辞学はレトリックのパターンである。これらの中で、語用論と修辞学はもっとも、パターンを超えた創造の領域を扱う領域である。

後期ウィトゲンシュタインの日常言語の研究は語用論、修辞学に近いが、日常会話というさらに生で多様な柔軟な領域についてである。だからこの多様な日常会話の成立はいかに基礎づけられているのか、ということだ。語用論のようなコンテクスト分析では不十分なのである。

だから言語論のパターン研究は逆にさかのぼる必要がある。これは言語がもつ多様さを縮減し、より限定した領域を想定していることを示す。

日常会話・・・行為(リズム)

修辞学、語用論・・・コンテクスト

意味論・・・意味

論理学、統辞論・・・形式

通常の会話を分析するにはコンテクストでは不十分であることをウィトゲンシュタインは示した。ウィトは日常会話と成立させているものを、訓練による習慣であると考えた。すなわち「リズム」である。再度言えば、リズムという例え(メタファー)でいいたいことは、規則性があるが言語のように理解することがでぎず、体でおぼえるしかない、ということだ。

人は無限の可能性のもと生活しているように錯覚しているが、人は身についた限りあるリズムにそって行為している。このリズムは行為であって、経験の反復(習慣)の中で身につけていく。そしてウィトゲンシュタイン「私的言語は存在しない」といったように、社会環境の中で他の人のリズムと共鳴して身につけていく、一つの文化である。

だから原理的には無限の意味が発生する日常会話は、限られたリズムの共鳴として収束し、言語ゲームとして成立している。語用論でいうコンテクストという「空気」のような曖昧なものは、リズムによって基礎づけられて成立している。

参照
言語ゲームというリズム その1 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20090825#p1
言語という人間のリズム その2 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20090829#p1
言語ゲーム」のグルーヴ その3 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20090906#p1



4 日本人の同期することへのどん欲さ


日本人の「同期への欲求」の強さ


有名な話だが日本のCDの発売日はほぼ水曜日だ。なぜならオリコンの週間集計が火曜から次の月曜になっているからだ。CDは発売日前日火曜から店頭に並ぶので、水曜日を発売日とすることで、週間集計数が最も高くなり、チャートがより上位になる。

この作戦が成功している理由には経験的な前提があるだろう。まず日本では特に発売1週目にCDがよく売れるという現象だ。1週目で決まってしまうといってもよい。そして1週目を高くすることで宣伝となり2週目も高くなる。たとえばアメリカでも人気アーティストの話題作が1週目から高いチャートになることはあるが、基本的には発売後にラジオなどで流れ、人々に認知されることで売れる。

ここから分かるのは日本人の「あたらしもの好き」、ということだけではなく「同期すること」への欲求の強さだろう。発売日とは誰にとっても発売日であり、そこにカウントダウンが生まれる。この時間的な同期によって「みんながほしいものが手に入る」ということがもっとも実感できるようになるわけだ。このような流行ものによる「同期への欲求」はどの国でもあるだろうが、CDの購買の例からわかるように日本人ほどどん欲な人々はいないだろう。



ガラパゴス化とは「同期への欲求」の形跡


このような日本人の「同期への欲求」の例として、他に上げられるのが家電製品のモデルチェンジである。日本ほど頻繁に家電製品のモデルチェンジが行われる国はないだろう。頻繁にモデルチェンジが行われる理由の一つは日本人の同期への強い欲求である。モデルチェンジのたびに時間がリセットされ再スタートされることで、同期が生み出され再度購買欲がかきたてる、という日本人用のマーケティング戦略である。

欧米では冷蔵庫はたくさんはいる、冷えるというシンプルなものが売れる。それに対して、日本で販売される冷蔵庫はモデルチェンジが年輪のように積み重なった多機能な製品である。だからそれを海外で販売しても受け入れられない。

このよう日本の独自の閉じた進化の促進は「ガラパゴス化」と言われる。すなわち日本のガラパゴス製品とは、日本人の「同期への欲求」を満たすための血と汗の努力によって進化促進した形跡である。このような日本人の「同期への欲求」こそが日本人の勤勉さであり、世界的に有数な高度に産業国家を生み出した原動力である。

同期への欲求の例として消費を例に挙げたが、生産においても同期への欲求は強く働いている。たとえば日本人の技術開発は独創的なものよりも改善的なものが得意と言われる。日本の技術開発を先導しているのは大手企業群である。彼らは同期への欲求の強い日本人消費者をターゲットにしつつ、他社を横目に開発競争を展開している。だからモデルチェンジ製品はどこも似たような製品が同じタイミングで投入される。このような運動が日本という閉じた領域でのガラパゴス化を生み出している。


またガラパゴス化は、冷蔵庫なら冷やすという目的超えて手段そのものが目的化する。それが独自の規律化していく傾向はスノビズムな傾向ともいえるだろう。その意味でとても日本人的であり、現代日本人の行動原理のすべてに及んでいると言っていいだろう。



同期できるハイコンテクストな環境があるから同期してしまう


なぜこれほど日本人の「同期への欲求」は強いのか。同期できるハイコンテクストな環境があるから同期してしまう、ということだろう。



5 日本人の習慣の破れに対する強迫性



日本の良さが若者をダメにする レジス・アルノー
http://newsweekjapan.jp/column/tokyoeye/2010/04/post-158.php


・・・18歳になるまで日本で暮らしたフランス人の多く(いや、ほとんどかもしれない)が選ぶのは、フランスよりも日本だ。なぜか。彼らは日本社会の柔和さや格差の小ささ、日常生活の質の高さを知っているからだ。

日本とフランスの両方で税務署や郵便局を利用したり、郊外の電車に乗ってみれば、よく分かる。日本は清潔で効率が良く、マナーもいい。フランスのこうした場所は、不潔で効率が悪くて、係員は攻撃的だ。2つの国で同じ体験をした人なら、100%私の意見に賛成するだろう。

・・・日本の若者は自分の国の良さをちゃんと理解していない。日本の本当の素晴らしさとは、自動車やロボットではなく日常生活にひそむ英知だ。

だが日本と外国の両方で暮らしたことがなければ、このことに気付かない。ある意味で日本の生活は、素晴らし過ぎるのかもしれない。日本の若者も、日本で暮らすフランス人の若者も、どこかの国の王様のような快適な生活に慣れ切っている。

外国に出れば、「ジャングル」が待ち受けているのだ。だからあえて言うが、若者はどうか世界に飛び出してほしい。ジャングルでのサバイバル法を学ばなければ、日本はますます世界から浮いて孤立することになる。「素晴らしくて孤独な国」という道を選ぶというのであれば別だが。

習慣が破れることへの日本人の強迫性


ファーストフードではみなが淡々と注文し食事をしているが、たまにお年寄りが必死に店員と交渉しているのを見かける。はじめてなのか、注文のシステム自体を知らずに恥ずかしそうに懸命に注文している。しかしこのような場面は誰にでもあるだろう。初めての手続きに慣れないだけではなく回りから浮いていることが恥ずかしい。

日本人にとって習慣で処理できないこと、始めての場面に出くわしてフリーズしてしまうこと、は恐怖である。それは日本人でなくても恐怖だろうが、多くを習慣で処理できるハイコンテクストな社会を生きている日本人には強迫的な恐怖である。

外国人は多かれ少なかれ異文化が身近にあり生まれながらに「習慣の破れ」を経験する。そして対処方法も訓練として身につけている。習慣の破れをいかに乗り越えるかといえば、簡単に言えば開き直りの自己主張しかない。そのために西洋人は笑顔と交えた社交性の技術を身につけている。

ハイコンテクストな社会を生き、習慣の破れに慣れていない日本人は慣れずキョドってしまう。自らを主張するとは慣習を越えて自らを曝け出すことであり日本人にはとても不慣れな技術である。



強迫性がガラパゴス化を生み出す


日本人の高度な商品文化はクールジャパンとして有名である。生活の細部にわたるまで行き届いた商品群や、痒いところに手が届くようなサービス。粗雑、適当なサービスで生活する外国人には驚きである。これはまさに日本人の習慣の破れへの強迫的な恐怖心の裏返しではないだろうか。日本人は社会を習慣で満たさなければと懸命なのである。

日本とは「舗装された道」が張り巡らされたようなものだ。それによって足下気にせずに習慣で歩ける。それに対して、海外にはいろんな道があって足下に気をつけながら歩かなければならない。

それでも西洋人は段差を歩く技術を身につけている。それに対して日本人は転けても仕方がないという開き直りことができず、転けることが恥なのである。だから懸命に道路を舗装しようとしているのだ。

日本人が資本主義世界で成功しえた理由のひとつ、特に近年の消費中心社会での成功は、資本主義の成功が習慣の断絶を回避する方法であるからだ。強迫性が必要以上に商品を高度に発達させる原動力になり、内需を成長させてきた。

日本のガラパゴス化と言われる現象もここからきている。日本製品特有の過剰な多機能性は「舗装された道」への強迫性である。だから海外製品に比べて日本製品は病的であり、海外で売れるわけがなく、ガラパゴス化することになる。



「若者の〜離れ」は日本人特有の他者依存に基づく


しかし最近、内需が閉塞しているのはなぜか。経済の停滞だけでは説明できないだろう。その特徴の一つが「若者の〜離れ」に現れてるのだろう。

日本の「若者の〜離れ」のポイントは、他者回避にあると思う。社会的な他者と交わることからくる束縛=拘束を回避したい。他者と向き合うことで生じる社会的な責任を回避したい。一人でコンビニエンスな生活、ネット上のコンビニエンスな他者との会話を気楽に楽しみたい。

このような他者回避がとても日本人的であるのは、まったく他者を回避しているわけではなく、逆に社会に依存していることで可能になっているためである。

西洋のように、異文化の「他者」が身近にいて習慣が分断されている社会で、他者を回避することは、他者がなにを考えているかわからず、とても恐ろしいものになる。たとえば日本人は黒人がそばにいるだけで違和感を感じる。安心するためには積極的に社交するしかない。解り合えるということではなく、社交として安心を確認しあう。

たとえば米国でエレベーターで一緒になると笑顔を交わし合うようなことだ。逆に日本人のように無表情でいるのは西洋人には恐怖に感じる。だから多民族の西洋では日本的な他者回避は難しい。

日本人の若者の他者回避、必要以上に干渉しないで欲しいという関係は、真に他者と関係を絶つことでは不可能である。日本人のハイコンテクスト、高い習慣の同期性によって可能になる。そしてそこにはある程度のお金さえあれば一人でいけるほどに十分に成熟した資本主義の消費文化がある。

文の構造、すなわち言葉の秩序が、具体的で特殊な状況に超越し、あらゆる場面に通用しようとする傾向は、中国語にくらべても、西洋語とくらべても、日本語の場合、著しく制限されている。そういう言葉の性質は、おそらく、その場で話が通じることに重点をおき、話の内容の普遍性(それは文の構造の普遍性と重なっている)に重点をおかない文化と、切り離しては考えることができないだろう。この文化のなかでは、二人の人間が言葉を用いずに解りあることが理想とされたのであり、主語の省略の極限は、遂に、文そのものの省略にまで到ったのである。またおそらく文の構造が特殊な状況に超越しない言語上の習慣は、価値が状況に超越しない文化的傾向とも、照応している。P19-20

本来日本的な世界観の構造を叙述することは、明示的な理論体系の特徴な列挙するほど容易ではない。神道の理論的な体系は、ト部兼倶から平田篤胤に到るまで、儒・仏・道、またキリスト教の概念を借用している。外来思想の影響をうけない神道には理論がない。そこで儒・仏の影響の少ないとされる記・紀・風土記から土着的と想像されるものの考え方を抽象するほかないだろう。P36-37


「日本文学史序説」 加藤周一 (ISBN:4480084878



6 日本人に甘えが氾濫する



甘えという語が日本語に特有なものでありながら、本来人間一般に共通な心理的現象を表わしているという事実は、日本人にとってこの心理が非常に身近なものであることを示すとともに、日本の社会構造もまたこのような心理を許容するようにできあがっていることを示している。いいかえれば甘えは日本人の精神構造を理解するための鍵概念となるばかりではなく、日本の社会構造を理解するための鍵概念となるということができる。P45


「甘え」の構造」 土居 健郎 (ISBN:4335651295



現代の愛することの困難とはなにか


オタクのアイドルへの熱狂を見ていると、人の「愛したいという欲求」の強さがわかる。人は愛されたい欲求より愛したい欲求が強いんじゃないか。心底誰かに愛されるより心底愛せる人を見いだすほうが幸せですからね。たとえば宗教心しかり。

そもそも人を愛することは簡単なことではない。愛することは贈与することであり、贈与することには相手に返礼の義務を負わせる抑圧として働く。たとえばただほど高いものはない。そこに心理的は負債義務が発生しいつまでも負い目を感じる。あるいは有名なところではモースなどの未開社会分析では権力者が返せない贈与を行うことで権力を保持する。

では現代の愛することの困難とはなにか。二面性を考える必要があるだろう。一つは自由を尊重する現代では、子供であっても個人を尊重することが求められる。他者に対しては無関心であることは一つの儀礼である。

さらにもうひとつの面として、「愛したい欲求」そのものが加速されているのではないだろうかそれは特に日本において顕著なように思える。誰もが必死に愛を注げる対象を必死で探している。そんな難民たちがアイドルへ殺到し、ペットを溺愛し、韓流へ、遼くんへ殺到する・・・



心理的な甘えと行為的な甘え(同調引力)

義理も人情も甘えに深く根ざしている。要約すれば、人情を強調することは、甘えを肯定することであり、相手の甘えに対する感受性を奨励することである。これにひきかえ義理を強調することは、甘えによって結ばれた人間関係の維持を賞揚することである。甘えという言葉を依存性というより抽象的な言葉におきかえると、人情は依存性を歓迎し、義理は人々を依存的な関係に縛るということもできる。義理人情が支配的なモラルであった日本の社会はかくして甘えの瀰漫(びまん)した世界であったといって過言ではないのである。

恩という概念と義理との関係を考察してみよう。「一宿一飯の恩」というように、恩というのはひとかけらの情け(人情)を受けることを意味するが、してみると恩は義理が成立する契機となるものである。いいかえれば恩という場合は恩恵をうけることによって一種の心理的負債が生ずることをいうのであり、義理という場合は恩を契機として相互扶助の関係が成立することをいうのである。P54-56


「甘え」の構造」 土居 健郎 (ISBN:4335651295

土居健郎「甘えの構造」によると、日本人のキーワードは「甘え」にあるということだ。しかし本書での「甘え」の使い方はかなり広義である。幼児の甘えとともに、義理人情などの日本人の基底にも甘えがあると考える。しかしこれは一面で正しいが、一面で正しくないと思う。土居健郎精神科医である故に、甘えを心理的なものへと偏りってとらえ過ぎている。

心理的「甘え」=依存性は簡単には母の子供への想いである。母の愛は幼児ならば良いが、大人になって母が愛したい想いを抑止しなければ、子供は大人になれず社会秩序に参入できない。しかし「甘えの構造」でいう広義の「甘え」とは、単に依存的な「甘え」ではないだろう。

日本人の特徴はハイコンテクストな社会ということにある。ハイコンテクストな社会とは強力な同調引力を持った振動圏といえる。*1たとえば日本人なら知る、白いご飯、おみそ汁、梅干しなどのおいしさ。いやおいしさ以上の引力である。日本人として育つことで訓練されてきた味覚であり、言語であり、さらに環境と深く結びついてものである。日本人として作られことで容易に同調し共鳴し合う人々の集まりである。

このような同調引力はたしかに容易に心理的「甘え」に転倒しやすいしかし同調引力は心理的である前に行為的である。行為的な同調引力とは、たとえば協力して作業を行う場合の「息が合う」ということだ。日本人はこのような同調引力を単に心理的な甘えへ転倒しないように、反復訓練の中で様式化して、義理人情、忠義、お歳暮、年賀状などの社会的な規律にまで磨き上げた。日本人社会はこのような規律によって秩序だてて円滑に運用されている。



資本主義と甘えの解放


資本主義の産業化は技の集積であるから、日本人の同調引力は生産性向上のために有用に働いた。効率重視の新たな様式を生み出され、技術立国としての成功に導いた。しかし貨幣交換を基本とした自由主義経済の資本主義化によって、義理人情などの旧来の様式は解体されて行かざるをえない。

このような旧来の解体と、効率重視に再編される様式によって、ハイコンテクストな日本社会の同調引力は心理的な甘えへと転倒されているのではないだろうか。そして人びとは幼児化し、また「愛したい想い」への抑止が解放される。といっても、個人を重視する現代に子供にでも安易に「愛したい想い」をぶつけることはできない。だから現代の日本人は絶えず「愛したい想い」を自制し続けなければならない。

困っている人がいる。その苦しみがよくわかる。自分なら助けることができる。しかし助けることが抑止される。という複雑な状況におかれる。その回避方法として溺愛してもよい疑似対象が強く求められる。そこにアイドル、ペットなどの様々な商品が生まれている。オレオレ詐欺になぜにあんなに簡単に騙されるのかと思ってしまう。オレオレ詐欺現代日本人の抑圧された「愛したい想い」をうまく利用しているからだろう。

ちなみにローコンテクストな西洋社会では資本主義と並列に民主主義が訓練されます。幼児の依存的な甘えは「去勢」されて、社会の中に自立した自己となるプログラムが組まれています。ハイコンテクストな社会=同調引力によって社会秩序を形成する日本人には、西洋的な民主主義のプログラムは遠いものです。



7 日本人のスノビズムマクドナルド化


日本人のスノビズム


手段は目的のためにある。しかし手段そのものを目的として一つの様式とするのがスノビズムである。そもそも日本人はスノビズム性が高いようだ。たとえば古くは武士道、茶道など。現代でも日本では「手段の目的化」が日常的に行われている。

たとえば日本人の雑学好き。知識とは目的のために体系化され、目的のための手段として学ぶ。しかし雑学は体系化されずただ散らばった知であり何に役立つものではない。西洋人からすると日本人の雑学好きの意味がわらないだけでなく、オタクでカッコ悪いものにうつる。

アメリカ人もくだらないこと好きだか、いつもどこかジョークであることを担保している。日本人はマジである。日本では雑学は一つの文化になっている。特徴的なのがクイズである。高校、大学にはクイズクラブがあり、日夜雑学を磨き続け、テレビ番組になるなどいくつも全国大会がある。

またスノビズムとは大局に関係しない細部にこだわることでもある。差異をより細部へとマニアックに追求する。だからフェテイシズムと深く関係する。このように特性はもはや総オタク時代とも言われる現代日本人の特徴を表しているだろう。



日本のハイウェイ社会とスノビズム


日本人がなぜスノビズムへ向かうのかは、ハイコンテクストな社会にあるだろう。同期しやすい彼らは誰かが何かをはじめると、隣の誰かもはじめる。するとそとに競争が生まれる。他者よりも少しでも先へと「差異化の運動」が生まれる。やがて広がり反復されることで様式化され、文化へと成熟していく。

この日本人の同期しやすさを以前「ハイウェイ」に例えた。多文化でローコンテクストな社会では、まず同期してもらうのに苦労する。しかし日本では同期は一つの基礎地盤であり比較的少ない労力で行われる。むしろ同期が基礎であるためにそれだけでは物足りない。ハイウェイでは誰もがどこに向かうのではなく、ちんたら走るのが退屈でとばして競争してみたくなるものだろう。そして走るという手段が目的になる。

日本人はハイコンテクストな「ハイウェイ社会」を生きている。みなが単一の価値を共有し、その価値で円滑に進行できるように社会環境が整備されている。だから日本に住む限りハイウェイのように鼻歌まじりに生活できる。

海外では生活圏を抜けるととたんに多様な見知らぬ価値に出くわし、限界状況につまずいてしまう、いわば凸凹道である。だから回りに気を配り、鼻歌まじりに生活するわけにはいかない。


[まとめ]なぜ日本人は民主主義よりも資本主義に順応したのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20100625#p1



超ハイウェイ社会とマクドナルド化


さらに日本の「ハイウェイ」は近代化、特に資本主義経済においてよく機能した。日本人の差異化運動は西洋近代化の知識の吸収にどん欲に働き、瞬く間に日本を西洋に並び立つ近代国家へと成長させる原動力となった。現代では、ハイウェイは経済的な効率化、合理化によって強化され、日本は技術、情報、消費の発達において人類史にかつてないほど「超ハイウェイ社会」を実現している。

資本主義の経済的な合理化によるハイウェイの補強はマクドナルド化と呼ばれる。マクドナルド化により補強された超ハイウェイは「貨幣依存」を高めることになる。金によってハイウェイのランクがうまれている。このような傾向は特に日本で顕著である。

安価で楽しい生活が可能なハイウェイは整備されている。ネットカフェ、100均ローソンで生活
は確保し、ネットでコミュニケーション、創造を楽しむ充実したベーシックインカムな生活。しかし
ハイウェイをランクアップするためにはお金がかかるが就職も含めて格差は固定されている。

高価であるのは知的なサービスである。医療、介護、教育、カウンセリングなど。教育は親の
収入と成績をつなげ、裁判なども収入によって正義がきまる。医療は生死が決まる。さらには
老後の不安を生み出す。貨幣格差がハイウェイのランクを決める。



8 日本のハイウエイ格差社会


マクドナルド型生権力の見取り図について。作れば売れる時代が終わり、経済成熟期に入ったいま「いかに儲けるか」(利害関心)が複雑、巧妙になっている。ここでいう「儲ける」(利害関心)は、経済活動が活発し雇用が生まれ生活が豊かになるという自由主義経済の基本である。

経済成熟期に発達する「儲ける」仕組みがマクドナルド型生権力である。たとえば旅客機のサービスによるクラス分け。エコノミークラス/ビジネスクラス/ファーストクラス。さらには外部までも取り込んで成熟社会を全面包囲している。

マクドナルド型生権力の見取り図

  • マクドナルド空間−内部
    • エコノミークラスマクドナルド空間)・・・低価格。安全、安心、安定。グローバルな公共空間。
    • ビジネスクラスマクドナルド空間の多様化)・・・エンターテイメントの付加価値。ショッピングモール、ディズニーランド。
    • ファーストクラスマクドナルド空間の臨界)・・・高価格。高度サービス。医療、介護、弁護士。
  • マクドナルド空間−外部
    • ハウスホールド(家庭生活)・・・核家族から個別化へ
    • アウトキャスト(取り残された外部)・・・失業者、低所得高齢者。
    • コンフューズ(混沌・創発領域)・・・秋葉原、ネット社会。



1 マクドナルド空間−内部


<エコノミークラス>
 マクドナルド空間
・・・低価格、省スペース、安心、公共性

ミクロ権力(規律訓練権力)
清潔、無個性、セルフサービス(自己責任)によって、場に暗黙の規律(儀礼的無関心)を形成し、狭い空間、短い滞在でも安価・安全・寛ぎを提供する。コンビニ、ファミレスなど。現代の「グローバルな経済的公共空間」になっている。(参照:http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20090619#p1
マクロ権力(生政治)
社会の流動性が向上すると、他者との摩擦が起こる。安価・安全・安定した商品を供給することで、社会全体の効率化を目指す。自由主義経済におけるグローバルな安全空間を供給する。利害関心→利益率は低い。チェーン展開により薄利多売。チェーン展開できるだけの需要がある身近な生活品が基本になる。
管理技術
チェーン店を繋ぐネットワーク。商品の一括管理など低コストのために必要な技術。



ビジネスクラス
 マクドナルド空間の多様化
・・・エンターテイメントの付加価値

ミクロ権力(規律訓練権力、テーマパーク型権力)
マクドナルド空間の無個性さを非日常性として演出し、そこにエンターテイメントを加える。安価・安全・安定な遊技空間を作り出す。ショッピングモール、シネマコンプレックスなど。子供がマクドナルドへ行きたがるのは、マクドナルドがただ安価な食事場ではなく小さなエンターテイメントを組み込んでいるから。付加するエンターテイメントは楽しいだけではなく、酒場などでは洗練された演出などのバリエーションが可能である。さらにはディズニーランドもマクドナルド空間」をベースに作られている。
マクロ権力(生政治)
マクドナルド空間の多様性によって、より高次に生活をフォローする。利害関心→マクドナルド空間ほどチェーン店舗数は増やせないが、1店舗当たりの利益率を高める。
管理技術
ナビゲートシステムの発達によっていままだファーストクラスのサービスをいかに低コストに提供できるか。



<ファーストクラス>
 マクドナルド空間の臨界
・・・高価格。マンツーマンサービス、擬似プライベート空間。

ミクロ権力
マクドナルド空間はセルフサービス(自己責任)や暗黙の秩序によって、安価に摩擦がない空間を提供するが、その臨界ではそれでは対処できない高度で密接な部分が残る。たとえば医療、教育、介護、あるいはカウンセリング、弁護士など。マンツーマンなサービス、擬似プライベート空間によって高度な感情労働を提供する。当然、高額となる。
生政治
金銭経済(マクドナルド空間)の臨界であり、「もはやお金で買えないものはない」が目指される。もっとも「人間らしさ」を提供する。金持ちか、数度の旅行などで体験される。利害関心→希少であることが付加価値となる。



2 マクドナルド空間−外部


<ハウスホールド>
 家庭生活
・・・核家族化から個別化へ。マクドナルド空間への取り込まれ

マクロ権力(規律訓練権力)
家庭生活では人々は自らでサービスを行っている。主婦は家族のために労働しサービスを提供する。あるいは地域コミュニティでは隣人同士がサービスを贈与し合う。このような非金銭経済のサービスは金銭経済とともに生活を支えてきた。ときにファーストクラス以上のもの、あるいは金銭に代えられないほどのサービスを提供する。しかし家庭、地域コミュニティ(非金銭サービス)は解体しつつある。
マクロ権力(生政治)
家庭生活は労働を補助する場としてまた消費を生み出す場として経済の基本の一つである。そして家庭、地域コミュニティ(非金銭サービス)は金銭経済(マクドナルド空間)へ取り込まれている。たとえば主婦がする非金銭労働をいかに商品化して提供するか。家庭生活での出費は増えるが、主婦はパートに出でて稼ぐ。さらに現代の生活は核家族からさらに個別化している。一人で生活できるのは安価・安全なマクドナルド空間に支えられているからだ。あるいは地域密着の商店街などの家庭的な雰囲気は、逆に儀礼的無関心を破壊し、なれなれしい、めんどくさいと廃れていく。



アウトキャスト
 取り残された外部
・・・高度なサービスから取り残される。「ホモサケル」

ミクロ権力
マクドナルド空間に依存した貨幣中心の生活では、人々は個別化し助けてくれる「家族」がなく、さらに失業者、低所得高齢者などのお金を持っていない人々が、医療、教育、介護などの高度なサービス(ファーストクラス)を必要とするときに取り残されていく。
マクロ権力(生政治、公共投資
お金を持たない人々は民間投資には魅力がなく、マクドナルド空間から取り残されていく。このために公共投資による補助がもっとも必要とされるが、限界がある。
管理技術(環境管理権力)
補助されなければ生きられない人々という人間としての尊厳の消失。より低コストで補助するために積極的に管理技術が活用される。そこでは生が動物のように処理される。現代の「ホモサケル」ここにおいて管理技術が環境管理権力として作動する。



<コンフューズ>
 混沌する外部
・・・次のイノベーションの土壌

ミクロ権力
マクドナルド型規律訓練権力=公共的な秩序に回収されない人々。その場その場の独自の秩序(規律)をもち、自律的に混沌とした活力場を生み出す。社会的に危険とされる。
管理技術(環境管理権力)
だからといって暴力によって排除するのではなく、防犯カメラなどで監視して見守る。ここでも管理技術は権力として作動する。
マクロ権力(生政治、公共投資
次のイノベーションはこのような混沌とした活力場から生まれてくるために、監視しつつ自由にさせる。有望なイノベーションとして認知されることで民間・公共投資によってマクドナルド空間として整備される。秋葉原もかつては混沌とした活力場であったが話題を呼ぶことで整備されマクドナルド空間へと変容している。利害関心→新たなイノベーションに投資することはリスクがあるがリターンも大きく、投資にとっては最重要な領域である。



保守派(中道右派)とリベラル派(中道左派


マクドナルド空間の問題は、安価にサービスを提供する意味で便利で安全で快適である。しかし快適である故に人々は依存し、社会が解体する。そして他者回避できない高度なサービスもマクドナルド化により対処しようとしても、希少性を高めて、高騰している。貨幣を持たないものはこぼれ落ちてしまう。

自由主義者マクドナル空間を徹底することを望む。高度サービスもマクドナルド空間で可能になると環境管理技術の発展を望む。それに対して、リベラル(中道左派)派は「社会のセーフティネットの解体」を問題にする。貧困の問題とはマクドナルド依存からくる。だから生活力を高めておくこと。そして社会的連係を育てておくこと。


参照
なぜマクドナルドはくつろげるのか マクドナルド型規律訓練権力 その1 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20090619#p1
なぜマクドナルド型生権力が社会を全包囲するのか マクドナルド型生権力の見取り図 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20090623#p1
ネオリベラリズムの格差はいかに生まれるのか http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20090625#p1
ネオリベラリズムの格差はいかに生まれるのか その2 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20090626#p1
*2

*1:文化は振動によって伝達されていく http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20100705#p1

*2:画像元 http://blogs.yahoo.co.jp/pensee823/21398710.html