なぜ平野綾は中川翔子になれなかったのか

pikarrr2010-08-06

平野綾事件

グータンOA後からHPが開かなかったので日記が更新できませんでした。
恋愛観もだけど、私は仕事に対する取り組み方も話したつもりです。
時間に限りがあったのでもっとみんなに伝えたいことはありましたが、それはまたの機会に。
全ての経験が今の私を支えてくれているし、恋愛のリアリティも分からないまま薄っぺらい芝居なんかしたくない。
空想の歌詞なんか書きたくない。
今までだって全てに真っ正面からぶつかって本当の私を見せてきたはずです。
そうやって自分を出していこうと思えたのはみんなが同じように真っ正面から私を見ていてくれたからであって、
だから少しだけ自分に自信が持てるようになりました。
確かにこうなったきっかけは急な環境の変化にありますが、納得して踏み出さなければならない時期に突入しています。
確かにいきなりだったからびっくりした方も多かったでしょう。
それは本当にごめんなさい。
自分の今後は自分では決められないので、私の今後は私の手を離れています。
ただそのなかで精一杯やることが今の私にできることです。
ツイッターで死ねとか嫌いになったとか書くのやめて。
せっかくみんなとのライフラインができたのに。
最強の私でもさすがに凹む( ̄▽ ̄;)
てなわけで、これからもよろしく!


「AYA DAMA DIARY」 http://blog.livedoor.jp/insidears/archives/52352159.html

平野綾 グータンヌーボで恋バナ解禁!! ファンが発狂!! 殺害予告も複数発生!! http://blog.livedoor.jp/insidears/archives/52351724.html
平野綾が恋バナ解禁騒動を日記で言及!! ヲタVS平野の全面戦争に発展か!? http://blog.livedoor.jp/insidears/archives/52352159.html




「オタクが女性の身体を身につけたらどうなるか」



ボクはオタクではないので平野綾ハルヒの声優でオタクに熱狂的な人気がありかわいい、ぐらいしかしらないのだけど、「オタク女子」という存在は前から不思議な感じがして興味があった。

オタク女子の存在とは簡単に言えば、「オタクがかわいい女性の身体を身につけたらどうなるか」ということだろう。

オタクは基本的に男は所有者、女は商品という男尊女卑文化である。だからオタク女子は心は所有者としてのオタク男子であり、容姿は商品という女子という心身二元論的存在である。オタク女子はオタク好みな容姿、言動に自己を演出(プロデュース)する。そしてその容姿に回りのオタクが萌えれば喜ぶ。しかしそれだけでは満足できないだろう。なぜなら自己演出しているオタクとしての自分が認められることを望む。むしろこちらの方が強く望むだろう。

オタク女子がオタク男子に女子としてではなく、オタクとして認められることはかなり大変なことだ。再度言えば、オタクは基本的に、男は所有者、女性は商品という男尊女卑文化なので、商品としての女子はリスペクトするが、女子が所有者の位置に立とうとすると、オタクとして認めずに、売名、キモい、腐女子と排他する。

だからほとんどのオタク女子アイドルは結局、彼女のオタク性はスパイス程度のものとして扱われて商品としての容姿に萌えられて消費されてしまう。

平野綾もオタク女子であるが、心のオタク性よりも身体のかわいさへファンは熱狂しており、ファンのイメージを守ることと心のオタクな自分との乖離に苦しんでいる。そして抑圧されたオタク性は私的に発散せざるえない。イメージと異なるファションや言動による無言の抵抗、そして私的な恋愛での男性的な性関係など。今回の告白もそのような抵抗の一種だろう。




オタク女子 中川翔子の成功


オタク女子としてオタクに認められているのが中川翔子だ。彼女はオタク好みの可愛い自分を演出しながら、絶えずオタクな言動を繰り返すことでかわいいイメージが自己演出であることを暴露し、破壊し続けている。

すなわち真の自分はオタクであり、アイドルの自分は自己プロデューサーであるという心身二言論のバランスをうまく保っている。それはテレビで体をはって苦労してやっと手に入れたものだ。そしていまも絶えずオタク、キモい男子的言動を繰り返すことで、オタクへのリスペクトを示して人気を維持されている。

そしてオタクにとっての中川翔子の可愛さは彼女が自己演出するオタク好みの女性だけにあるのではない。彼女がオタクなキモい言動で懸命にバランスを保とうとする「けなげさ」が処女性を生み出し萌えられている。しかしそしてこのけなげさを生み出しているのはなまやさしいものではなく、自己演出を超えた呪縛的な「傷」である。




オタク女子という生


アイドルとはメタ(ネタ)アイドル(なんてったってアイドル)であることが一般化して、だれもがアイドルの時代の中で、「〜系」アイドルであると自己演出することが求められる。その中でも競争が激しく、熱狂的に求められるのがオタク女子系アイドルである。

オタクたちの厳しいメタ認識による審査は、単純な自己演出などすぐに見破る。重要であるのは、いかに天然の「オタク女子」であるか、ということだ。真のオタク女子は単に自己演出でなく、男女未分化な幼少時代にオタクという男性性を刻印された天然物である。

ぶっちゃけ、中川翔子は挙動不信である。大人しいと思うと自分の興味があることになると急に早口でまくし立てたり、急にテンションがあがってアニメネタを演じたりする。そしてなんといっても顔の表情が「人形のように」乏しい。笑っていても笑っていない。

しょこたんが幼少時代に友達少なく、自閉気味だったのは想像に難くない。芸能界で売れるまで回りの女子からは疎外された存在だったのではないだろうか。その自閉の中で通常の女子たちが興味を持たないようなオタク知識へ傾倒していったのだろう。

すなわち彼女のオタク性は自己演出を超えて、彼女の生そのものに結びつき、行動から表情に刻印されている。しょこたんの、オタクと自己演出のアイドルという心身二言論のバランスはアイドルとしての成功のためではなく、そのようにしか生きられないからだ。そこにオタクが萌える「けなげさ」が生まれる。




「ファリックガール(チンコつき女)」


斎藤環は、オタクが萌えるアニメのキャラとして「戦闘美少女」をあげて「ファリックガール(チンコつき女)」と呼んだ。*1かわいいのだかヒステリックな男性的攻撃性もつ。たとえばエヴァンゲリオンでいえば、レイの「人形のような」無表情さ、アスカの天真爛漫な明るさ。女性的なかわいさと男性的な攻撃性という二面性だけではなく、重要であるのは無機質なヒステリーだ。このようなヒステリーはアニメでは面白いが、もし実生活にいればあきらかに(天然な)病いである。

パフュームの人気も擬似天然性にある。彼女達は天然ではないだろうが、「人形のような」パフォーマンスがオタクの人気につながった。鳥居みゆきがカルトな人気を得ているが、彼女の魅力も天然なヒステリーである。最近、オタク女子アイドルとして注目されているのが、AKB48の渡辺麻友。彼女も「人形のような」乏しい表情が売りになっているがどの程度の天然(病んでいるの)なのだろうか。

オタク女子にとって、自己演出した女性性が単なるオタクの萌え対象として消費されるだけではなく、所有者として同じオタクとリスペクトしあうことがオタク女子の望みだろう。それに挫折したオタク女子は私生活で抑圧された(オタクな)男性性を発散する。たとえば私的な性関係で自らの身体(女性性)をもてあそぶような。

しかしオタク女子がオタクとして認められるにはいかに病んでいるか、オタク女子としてしか生きられない生を生きているか、が求められる。

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