「なぜ日本人はリスクをゼロにしようとするのか」

pikarrr2010-09-23

日本人は集団に帰属していないことを恥じる

よく言われることだけど、日本は「リスクはゼロにすべき」と思ってる人がやたらと多く、リスクマネージメント(リスクを減らすコストとリスクが生むコストを天秤にかける)の意識が欠如している。なぜそういう思考にいかないのか。日本人の民族性となんか関係があるんだろうか。


http://twitter.com/sasakitoshinao/status/21642728756 佐々木俊尚

リスクというのは統計的なマクロなコンテクスト、すなわち全体の一つとしての個をベースにしている。そこでは、ミクロコンテクストのかけがえのない個人とは反する面をもつ。だからリベラリズム中道左派)な議論も基本的には、マクロコンテクストに還元できない、ミクロコンテクストでの矛盾を基本としている。ようするに、リベラルとは人をものとして扱うことを基本とするところから始まっている。

日本人がリベラルに対してもつ違和感もここにある。リベラルのもつマクロコンテクスト重視=全体の一部として、危機をリスク管理として処理する社会へ違和感。

集団主義の日本では、個を単に統計的なマクロコンテクストで処理することはしない。集団は個の集まりに還元できない集団としての集まりを重視する。危機も個のリスクではなく、集団のリスクとして考えられる。

だから日本にはリベラルは根付きにくい。いまのリベラルな民主党政権にしろ、社会保障における分配は金の分配のみが重視されている。その他の助け合いは、国ではなく、帰属する集団が行うものとされる。日本人はそのような集団に帰属していないことを恥じる。見ず知らずの人に助けをこうことを恥じる。

現実には地域コミュニティや会社、これら今までの集団が解体しつつあり、個人が剥き出しになりつつあるる。国からの金の分配だけで生き延びようとして、国の借金が膨らみ続けている。いまさら日本人がリベラル思想を学ぶことは伝統的にむずかしい。




マクロコンテクストとミクロコンテクストの調停にリベラルは生まれる


リスクというのは19世紀に近代化の中で生まれた思想だ。ようするに、大衆というのは発見されて、人口調査などが行われた中で生まれてきた。社会統計学にはものに対する統計法則を、人を展開することは正しいのか、とう疑問が残る。そして正しいという一つの思想。ようするに個人に対する危機は、リスクとして数量的に管理できる。個人は全体の単位として還元できる、ということが前提とされている。

たとえば、資本主義前の封建社会の階級社会では、人々がみな同じように個人として扱い、危機を計算できるなど、考えも及ばなかっただろう。

リベラルの前段である、啓蒙思想は、資本主義化が進み、「人をものとして扱うこと(マクロコンテクスト)」が浸透する中で、全体に還元できない個人(ミクロコンテクスト)=理性を救おうとした運動であった。すなわちマクロとミクロを繋ごうとした。が、失敗した。

だからカントが社会主義(左派)の元祖と言われるのは偶然ではない。資本主義を否定するわけではなく、マクロコンテクストを前提として、理性(ミクロコンテクスト)を救おうとするときに社会主義(左派)が表れる。

このような考えは柄谷行人にわかりやすい。柄谷は商品交換(マクロコンテクスト)と互酬(ミクロコンテクスト)を調停するところに社会主義(アソシエーション)を位置づける。それはカントが「世界共和国」と呼んだものと同じである。そして社会主義は、人々が求め続ける理想(超越論的仮象)であるという。

ようするにカントしかり、リベラルはみなまずマクロコンテクストを前提としている。統計的思考(マクロコンテクスト)なドライな思想を持たずに、リベラルを語ると、ようするに日本人は、リベラルを生ぬるい平等主義な議論にしてしまう。

同じようなことは哲学そのものにも言える。近代哲学が、資本主義化、マクロコンテクストのカウンターとして位置づけなければならない。近代哲学の主体(個人)には、「人をものとして扱うこと」が前提とされ、そのカウンターとして思考が積み上がっていることを理解しないと、単なるヒューマニズムに陥ってします。

19世紀の確率論者たちは自分たちの理論を統計的頻度を用いて理解した。19世紀の社会科学者たちは規則性を探究したが、それは個人行動というミクロのレベルではなく、むしろ社会全体というマクロのレベルでの規則性であった。18世紀の思想家にとり、社会は法則に支配されたものであったが、それは社会が合理的個人の総計であったからである。19世紀の反対者たちにとっては、社会はその構成員が非合理的な個人であるにもかかわらず、法則に支配されていた。P200


「確率革命」 第6章 合理的個人と社会法則の対立 L.J.ダーストン (ISBN:4900071692




日本人はなぜ人をものとして処理することができないのか


池田信夫の議論、「なぜ日本人はリスクマネージメントができないのか。」も同様に考えなければならない。簡単にいえば、日本人はなぜ人をものとして処理することができないのか。ネオリベラリストらしい割り切った考え方だ。

日本人は「リスク」をゼロにしようとしているわけではない。「危機」をゼロにしようとしている。リスクとは単位としての個人が統計的に背負う危機である。日本人は、危機を集団として背負うので、リスク変換(統計処理)しない。だから集団として危機をゼロにしようとする。

しかし集団が崩壊し、剥き出しの個人として「危機」をゼロにしようとすると、その底なしに、不安で神経症的にパニックり、モンスター化する。回りが見えなく国に、サービス先に対して無謀なクレーマーとなる。

だからもはやリスクマネージメント、ある確率で危機があることを受け入れて、開き直ることを学ぶしかない、ということが、池田、佐々木などのネオリベラリストの忠告である。

そしてこぼれ落ちた人へのセーフティネットを充実されることで、安心を与える。なんだけど、欧米では、リスクマネージメントが人々に安心を与えているわけではないだろう。それ以外にキリスト教としての物理的、精神的なセーフティネットが人々に最低限の安心を与えているんだと思う。

日本人では会社を中心にした日本教がそれにかわってきたが、いまや崩壊して、パニックになっている。金だけが頼りで、タンス貯金ばかりが増えて、内需が停滞して、景気が低迷しつづけている。

「日本人はなぜリスクをゼロにしようとするのか」 池田信夫blog
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51470046.html


佐々木俊尚氏がツイッターでこういう疑問を出している:

よく言われることだけど、日本は「リスクはゼロにすべき」と思ってる人がやたらと多く、リスクマネージメント(リスクを減らすコストとリスクが生むコストを天秤にかける)の意識が欠如している。なぜそういう思考にいかないのか。日本人の民族性となんか関係があるんだろうか。

日本の企業の特徴は、アフター5のつきあいまで含めた濃密な人間関係で、組織内に均質の共有知識ができていることだ。そこではノイズやKYは徹底的に排除され、組織で決めると全員が何もいわなくても整然と動く。少しでもリスクがあると、それを恐れて動かない人が出てくるので自分だけが動くと危ない・・・という無限ループが生じるので、リスクはゼロにしなければならない。

もちろん実際にはリスクはゼロではないので問題は起こるが、そういう情報は無視され、既存の共有知識の中で処理しようとする。組織が存続の危機に瀕したとき初めて共有知識を更新するが、全員の知識を同時に変えなければならないので、変化が困難で時間がかかる。これが日本の企業の意思決定メカニズムの中核にある問題だ。


*1