日常哲学派の思想地図

pikarrr2010-10-22


日常哲学派の問題意識は実践とはいかなるものか、ということです。主体という理想(理論)は実際には日常という慣習により依存している。イデオロギーという理想(理論)もまた日常の慣習により腐食している。

1 主体とは貨幣交換環境が生み出した症候
2 現代のコンビニエンスな生権力環境のなにが問題なのか
3 日本人は民主主義より自由主義に順応する
4 常態として「思想は必ず腐敗する」
5 小さすぎて見えないグローバルな巨大な権力の誕生




1 主体とは貨幣交換環境が生み出した症候

社会の成立は超越論的か経験論的か


誰もが主体という形而上学から逃れられない。そこから差異の思想が生まれた。デリダ脱構築にしろ。しかしウィトゲンシュタイン的にいえばほんとにそうか、となるわけです。そもそも主体なんて一部ではないか。歩いているとき、キャッチボールしてるとき、パソコンさわっているときも主体なのか?

野家啓一はウィトが考える「言語ゲーム」(社会秩序)の成立の原理を二つに分けて考えました。超越論的と経験論的です。主体は超越論的哲学です。だからデリダは回避するために差異が必要になると考える。しかし経験論的に、すなわちウィト的に(「規則に従う」、慣習)に成立してるならそもそも主体は問題になりません。それどころかデリダのように主体を解体することが主体の成立を助けることになります。これがデリダとウィトの似て非なるところです。




フーコーの経験論的転回


ウィト的に考えると問題は異なるところにあることがわかります。フーコーは中期以降になぜ規律訓練権力と言いだしたのか。これを「経験論的転回」と呼びたいと思います。規律訓練権力とは主体ではなく、慣習を狙い訓練する環境に関する戦略です。人は主体だなんだと言おうが環境を包囲され気付かないうちに慣習訓練されたら丸裸ではないか。

フーコーはさらに考えます。じゃあ現代の慣習を作る環境ってなんやねんと。自由主義経済環境やないかと。自由に経済効率よく社会環境が作られ、当たり前のように習慣づけられている。この習慣を包囲することを生権力と呼びます。




主体という症候


ボクは主体など存在しないといっているわけではありません。近代哲学の父、デカルトに始まるの理性的主体は啓蒙主義をへてフロイト、そしてラカンにいきつきます。精神分析医のラカンがなぜ対象を「主体」と呼び続けたのか。ラカンフロイトへの回帰により主体が症候であることを明らかにしました。その後の現代思想ラカン的主体を巡るって語られます。デリダドゥルーズなどは賢明に解体を試みますが、先に書いたように超越論的から抜けることができません。

フーコーは症候としての主体が普遍的なものではなく、近代という環境(エピステーメー)に現れたものであることを指摘します。さらに中期の経験論的展開により、先に示したように習慣を包囲することの重要性を指摘するわけです。主体を探求する近代哲学そのものが近代という環境(エピステーメー)の産物であると。

デカルトはあの時代にはまだめずらしい旅人でした。各共同体ではそれぞれの慣習を疑うことなく生きています。しかしデカルトは共同体間を旅すること、それぞれの慣習が異なることを知ります。そしてでは確かなものとはなんだろうと不安になります。そこで見いだされるのが理性的主体です。

これば現代までつながります。流動性が高い価値多様な社会の不安から確かなものを求める。現代では、「確かなものはない確かさ」という否定神学的に見いだされますが。




貨幣社会と主体の誕生


近代化という流動性の高い社会は、自給自足から貨幣商品交換生産様式へのパラダイムシフトにより起こりました。商品交換は海の物を山へという価値の差異が新たに価値を産みます。だから流動化が必スウです。そして流動化により共同体な慣習は揺さ振られます。その中で人々は不安になる。そして確かなものを過剰に求めてしまう。それが主体という症候です。

なぜフロイト精神分析を発明できたのか。十九世紀末、国際都市オーストリア。世界中の慣習が交差する混沌の中で人々は不安が常態化する。

話を戻せばボクは主体が存在しないといっているわけではなく、求めれば求めるほど現れる症候である、ということです。日常、慣習のレールにのっかっている分に表れない。そして主体が近代環境に強く依存するように、より重要であるのはフーコーがいうように習慣を包囲する生権力環境なのです。




2 現代のコンビニエンスな生権力環境のなにが問題なのか

生権力の何が悪いのか


生権力=身体をめぐる権力は現代の思想議論のキーです。生権力の問題は「生権力の何が悪いのか」ということです。効率的で便利で適度にやっていればそこそこ豊かに暮らせる。

しかし生権力環境の労働をネグリなど現代左翼はポストフォーディズムと呼び、労働者が自主的に搾取に参加する状態と考えます。たとえばネットではみなが無償で労働により、創造していますが、それをもとに稼いでいるのはひろゆきやグーグルなど一部の人たちです。著作権料など払われないし、好きでやっているから仕方がないというわけです。IT系企業等でも好きでやってるからと、安い賃金で長時間労働は当たり前です。

すなわち労働が生活に深く入り込み、曖昧になっています。リバタリアンなど自由主義ではこれこそ自由だ大成功ということです。




ポストフォーディズムとコンビニエンスな環境


たとえば第二次産業は3K、きつい、きたない、危険など言われ、若者は第三次産業を好みます。また第三次産業では労働内容、時間に自由度があります。しかしこのような自由度が逆に問題を生んでいます。

ポストフォーディズム的にいえば、第二次産業で明確だった労働と生活の境界が曖昧になる。第三次産業ではフレックスなど労働時間が自由な分、サービス残業、自宅自主労働、あるいは能力主義、リストラなどで、自己責任という自由の裏面として過酷な労働条件があります。

キャリアをつみ、よりよい職場を求める流動性という自由な労働環境では、生活の中で自主学習が求められます。また企業は労働者の生活を保障しません。能力にあわせて労働時間、賃金、そして採用を決めます。結果的に第三次産業は一部の富むものと、多くの安い賃金で不安定な労働者を生み出しています。

それでも自由主義社会は魅力です。食は百均ローソン、マック、サイゼで満たされ、住はマンガ喫茶もあり、性はネットでエロは見放題、暇はフリーのゲーム。そしてオタクやネットで「オレは主体だ」と、やりたいことを表現して生き甲斐を感じる。このようなコンビニエンスな生権力環境のなにが問題なのか。




3 日本人は民主主義より自由主義に順応する

日本人の国家集団主義


日本人の社会秩序の在り方について。まず江戸末期に欧米からの圧力から開国に到り、明治政府は占領されないように急激な近代化を急ぐ。このために市民革命を経ずに、階級制度を活用しつつ国家として国民への規律訓練を進める。これによって短期間で露西亜に勝利するなど、強国の仲間入りをする。そしてここで生まれた国家集団主義の暴走は世界大戦の敗退へ行き着く。

戦後、米国によって民主主義社会を目指すが、ソ連共産主義の台頭から、日本の共産主義化を恐れた米国は国家機関、財閥の解体を強行せずに、以後、国家と財閥による護送船団方式による経済復興をめざし、集団主義は継続される。このまま、高度経済成長、ジャパンアズナンバーワンのバブル期を向かえる。

高度成長期をへて成長率は停滞し、企業は終身雇用で社員を抱えることが困難になる。しかしいままでの慣例であり、また60年代の労働争議の名残りから、既得権社員を残し、新規採用を控えて、非正規雇用を活用することで、世代間格差が生まれる。また先に示したような、産業構造の第三次産業化によって、労働形態の自由度が増し、ポストフォーディズム化によって、雇用は不安定になる。さらに中国の台頭によって、生産が中国にシフトすることで、日本の雇用の空洞化が進む。




日本的集団主義の限界


戦後、社会保障から、コミュニティ機能まで広く担ってきた会社が解体することで、人々は経済的、社会的に孤立化している。保守王国と言われた日本が、リベラルな民主党へ政権移管した背景には、このような孤立化の不安から、国家に社会保障を担って欲しいという強い願望が表れている。

かつて集団主義は、官僚や大企業の重役など、強いリーダーシップによって、船団的に世界と渡り合ってきました。現代の問題は、むしろ豊かさの中で、集団への帰属意識が薄れて、リーダーシップも働かなくなってきた結果、経済的な推進力が落ちているのだと思います。

韓国の台頭もウォン安など経済環境の影響も大きいし、まだリーダーシップが働くほどに、貧しい社会ともいえます。現に韓国で儲かっているのは一部企業だけで、多くの人が貧しいままです。




日本人にとって個人とは環境


このように日本人は市民革命を経ずに近代化をここまで進めてきました。産業化、貨幣社会化を重視してここまで来ました。日本人が民主主義より、自由主義を重視する傾向はこのような歴史的な背景もあるでしょうが、やはり島国という閉じた地理的条件からくるハイコンテクストな環境の影響が大きいでしょう。

日本は民主主義国家ではありますか、日本人は人権的な平等について真剣に吟味したことがありません。だから個人とは、基本的人権として尊重しあう存在であるより、経済的な豊かさにより他者に干渉されない自由な存在を意味します。だから多くの場合には人権的には個人より集団が重視される傾向が強い。

しかし日本人の中では集団主義的な行為と、個人主義的な自由は自然に共存します。そこにイデオロギーはなくただコンテクストによる慣習だからです。日本人にとって個人とは主体を意味しません。個人という環境であり習慣なのです。日本人の個人を支えるの、イデオロギーや人権などではなく、コンビニであり、マックであり、マンガ喫茶であり、部屋のテレビであり、バソコンです。だから世界有数のコンビニエンスな環境を作り上げたのです。




日本人の新たな未来像への憂鬱


それでも二度にわたる奇跡の成長から日本は、いまでは世界一のコンビニエンスな環境を作り上げました。日本人はもともと慣習により社会秩序を保ってきたので、生権力は得意分野です。なのに日本人の憂鬱はなんなのでしょうか。これ以上なにが不満なのでしょうか。

日本人の不安は、将来への不安でしょ。こんな楽な生活をいつまで続けられるのか。先の世代は第二次産業が主流の安定した終身雇用生活だったので、このようなコンビニエンス社会は初の試みです。年金もいまのままでは難しいともいわれます。隠されていますが世代間でいえば先の世代の既得権による安定した蓄積が不安定な子の世代の生活を支える日本の社会保障の現実があります。親の世代なきあとどうなるのか。

さらに最近の無縁社会問題は経済的より不安が中心です。結婚せず子供作らないコンビニエンスな社会では、老後は一人淋しく死んでいく。これがほんとに問題なのか、疑問がありますが、どちらにしろ新たに社会の見えない先への不安が、日本人全般をおおっています。




4 常態として「思想は必ず腐敗する」

思想は必ず腐敗する


日常哲学派は哲学を疑い現実を見ることです。哲学的主体?そんなのほんとにいるか?だから思想も同様です。自由主義共産主義?そんなのどこにあるの?そこで重要な考えは「権力は必ず腐敗する」です。すなわち腐敗した状態が常態なので、純粋なイデオロギー議論は空論です。

たとえば共産主義の失敗はイデオロギーと関係あります?単に腐敗しただけでしょ。しかしこれは偶然はなく共産主義のような高い理想(理論)は腐敗に弱い。だから何度やっても同じ腐敗を繰り返します。

だから当然、自由主義も腐敗を常態として議論しなければ空論です。まず自由主義の基本である格差社会は公正な自由競争の結果か?ヒントとしてはなぜ自由主義はそのはじめから保守主義と相性がいいのか?すなわち自由とは強者に有利なのです。強者は自由競争のようなバクチはせず固く強者と組みます。それを国家として考えれば、自由をたてに弱国に解放をせまり、豊富な物的、人的資源を安価で手に入れます。弱国の権力者は金と権力をつかませ仲間に引き入れる。自由主義とは経済的武器だから保守主義は支持するのです。




資本主義は誰を信用するか


少し考えれば、公平な自由競争なんてものがそう儲からないことがわかります。自由競争の中でいかに無防備な弱者をみつけ、強者と組み巻き上げるか。だから自由主義は新たに弱者を求めて拡大することが必要なのです。

リーマンショックも一つの拡大の結果です。米国の金融規制緩和政策によって新たに金融市場が開かれたのです。そして強者グループたちは、政治家と金融工学者たちを使い、弱者たちと情報格差を利用して一儲けしたわけです。

このような傾向は資本主義と呼んだ方がわかりやすいと思います。資本とはなにか。信用で貸し借りされる貨幣価値です。現代の経済は信用を基盤にしています。では誰を信用するか。貨幣社会で信用されるのは、当然、多くの貨幣価値を保有する強者です。強者たちが信用を担保し合うネットワークを形成し、いかに公平な自由競争を回避するか相談するのです。これは多くが犯罪ではありません。なぜなら強者には規則を作る政治家も含まれ、ルールも彼らが作るからです。

これらは陰謀論のような単純な話ではありません。それでも自由主義経済が勝ち残ったのは、共産主義の腐敗には偶然性が忍び込む余地が少ないのに対して、自由主義は腐敗にも絶えず偶然性を呼び込むからです。自由主義経済では強者たちもまた偶然性にさらされる。そして考える以上に小さいが、弱者にも偶然によって成功するチャンスがあることも確かです。




5 小さすぎて見えないグローバルな巨大な権力の誕生

小さすぎて見えない巨大権力


このような闘争としての自由主義のダイナミズムは、生権力という静的な面のもう一つの面です。そして現代の自由主義経済はこれらの二面性によって新たな問題が起こっています。

強者の私感が、マクロレベル(生権力)へ「短絡」し大きな影響として波及してしまう。戦争であり、政治であり、経済であり、金融であり、グローバル化するマクロレベルへ容易に「短絡」してしまう。

仮に、ネグリの「帝国」など最近のサヨクがいうように、グローバルな権力が透き通って捉えにくいとすれば、それは単に「生権力」と呼ぶだけでは不十分です。生権力というマクロレベルへ影響を与える権力者たちの行為があまりにミクロになりすぎて見えなくなっているのです。

ここでいう権力者はかつてのように終身的な権力をもっているわけではなく、また大きなイデオロギーや世界を変えようと言う意図を持っているかどうかに関わらず、小さな部屋の中でのその場の私欲というミクロレベルがマクロレベルへ影響を与えてしまう。たとえば今回の世界を巻き込んだ大不況が一人の男のささやきによって起こったとしてもおかしくない状況ということです。




セカイ系権力の誕生


権力者が思想や意志をもって世界を変えようとすることではなく、ミクロで卑近な想いが自らの想像をこえたマクロレベル(グローバル)に多大な影響を与えてしまう。これは「セカイ系権力」とでも呼べるようなものです。

セカイ系権力のひとつの問題はこのような権力をいかに捉えて語るのかということです。もはや世界を左右する権力を語れないのはマクロに透明であるからではなく、ミクロに私感的すぎるからです。おそらくこのようなミクロに私感な権力を知識人は語らないでしょう。セカイ系権力はあまりに不可逆(一回性)でミクロであるために再現性がなく怪しく、学問をすり抜ける。歴史家が語るには早すぎるだろうし、ノンフィクション作家はどこまで内通できるだろうか。だから限りなくゴシップの領域に近づいてしまう。

日常哲学派が語るのは知識人ではタブー視されるような日常という危うい領域なのです。

過去数十年のあいだに出現したグローバルなエリートたちは、いまや地球上の他のあらゆる集団をはるかにしのぐ強大な影響力を持っている。この"超・階級[スーパークラス]"、すなわち超権力者階級のメンバーの一人が、世界中の国々に暮らす何百万、何千万という人々の生活に、継続的な影響をあたえる能力を持っている。彼らはそれぞれが積極的にこの能力を行使しており、多くの場合、同じ階級に属する他の権力者たちと関係を深めることによって、その能力を拡大している。終身権力が代々受け継がれていたのは、もはや遠い昔のことであり、現代の超権力者の持つ影響力はたいていが一時的なものにすぎない。

なかには「クラス[階級]」という語を用いることによって、私が「マルクス主義」や「階級闘争」という、学問的にはいかがわしい領域に足を踏みいれる危険性があると指摘する者もいた。・・・国際政治の舞台裏で、権力者たちとの秘密対話や極秘会談の現場を何度も目撃した経験から言わせてもらえば、陰謀などということは、まずありえない。・・・「世界征服」という昔ながらの空想は、実現するはずのない無理な話なのである。

現実に目を向ければ、世界でもっとも裕福な人々上位千人が保有する純資産の総額は、世界の最低貧困層二十五億人の資産総額の約二倍に相当する。・・・国境を超えたスーパークラスの影響力は、結束した集団として活動することによって、ますます強力なものになる。ビジネス上の取引であったり、相互投資であったり、重役会、学閥、社交クラブの一員同士だったりと、じつにさまざまな結びつきによって集団が形成されているが、それはけっして世界征服を含む悪の秘密結社などではない。がしかし、ともに手を携えて自己の利益を追求することにかけては折り紙付きの達人集団であることは確かである。P12-18


「超・階級 スーパークラス」 デヴィッド・ロスコフ (ISBN:4334962076




日常哲学派のための神本リスト(神本とは何度も何度も立ち返り読み返すべき本)


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