市場経済はイデオロギーではなく生活環境である 日常哲学派の思想地図2

pikarrr2010-10-30


1 市場経済は生活環境である
2 国家は国際経済プレーヤーである
3 市場経済の倫理は「比較優位」である




1 市場経済は生活環境である


1)社会規模と生産様式の関係


ボクは下部構造論者なので、経済活動が社会の形態にもっとも大きな影響を与えると考えています。特に社会規模と生産様式の関係を考えています。

ポランニーの生産様式区分、「贈与交換」「再配分」「貨幣交換」を参考にすると、小さな集団=共同体では比較的な親密な関係から「贈与交換」が有用な生産様式となります。しかし贈与交換は卑近な信頼に基づいているために、ある程度大きく社会規模になると限界があります。

大きな社会、都市では、はじめてあった人と交換を行うことが必要です。しかしはじめてあった人を信頼して贈与交換するのは危険です。このために、瞬時に貸し借りを精算する貨幣交換が求められます。

しかし貨幣交換は剰余価値(儲け)を生む特性があり、人々が富に目覚めて、市場経済、産業化、金融経済が活発になります。リーマンショックが問題になっていますが、資本主義はそのはじめ(社会に広く浸透する前)から投機、そしてバブル崩壊の歴史です。

このような意味で、ある程度の規模の社会になると、貨幣経済へうつらざるをえない。近代以降の市場経済への移行は必然であったとボクは思っています。




2)市場経済イデオロギーではなく街


市場経済イデオロギーではなく生活でです。いまの市場経済は西洋の十五世紀辺りから自給自足経済から少しずつ浸透していまに至ります。イデオロギーではないので革命はありません。そのはじめから何度も市場がフリーズする恐慌を経験していますが、そのたびに復帰しました。

たとえばいま身につけている衣服、歩いている通路、すんでいる住居の形や材質、強度は市場経済によりできています。これら環境の中で生活する人間の慣習、考え方もそうです。人は市場経済をいちいち意識しませんが、毎日繰り返される行為は市場経済の上に成り立っています。だから恐慌でマーケットが停滞しても、まずできることは毎日の慣習に従うことであり、それは市場経済を回すことになります。恐慌がきたからいきなり街が崩壊するわけではないのです。そして市場経済イデオロギーではなく街です。

資本論マルクスはまず商品から語ります。商品(貨幣)が形而上学で成立している。だから市場経済は脆弱であり、いつか崩壊する。その先にあらわれるのが社会主義であると。しかしなんど恐慌が来ようが崩壊しなかった。なぜなら市場経済とは生活する街・通路だからです。

ただボクはもっとも基本となるものが経済だといっているだけで、「重層的決定」アルチュセール)を否定しているわけではありません。特に市場経済において。その理由は先に示したように、市場経済は街・通路に具現化された生活だからです。

たとえば下部構造を批判したものとして、ウェーバープロテスタンティズムと資本主義の精神」がありますが、ルターの宗教革命も、その前までに市場経済の浸透があり、社会の流動性があがり、平等への渇望があったと思います。その中でプロテスタトが広まり、またプロテスタントが資本主義を後押しした。

資本主義社会では主体は解放され、自分たちは中世的な宗教的迷信から解放されていると信じており、おのれの利己的な関心にのみ導かれた合理的な功利主義者として他者と関係する。しかし、マルクスの分析の眼目は、主体ではなく、物(商品)それ自体がおのれの場所を信じている、という点である。つまり、信仰や迷信や形而上学による神秘化は、合理的で功利的な人格によって克服されたかのように見えるが、じつはすべて「物どうしの社会的関係」の中に具現化されているのである。人びとはもはや信仰をもっていないが、物それ自体が人間のために祈っているのだ。

これは同時に、ラカンの基本的な前提の一つでもあるように思われる。信仰(信念)は内的なものであり、認識は(外的な手続きによって確証しうるという意味で)外的なものだ、というのが一般的な定式であるが、むしろ、信仰こそ根本的に外的なものであり、人間の実用的・現実的な活動の中に具現化されているのだ。P55


イデオロギーの崇高な対象」 スラヴォイジジェク (ISBN:4309242332

(カール・)ポランニーの言うことを信ずることにすれば、「大転換」が生じ、「自動調整」市場がその真の力を増し、それまで支配的であった社会的なものを征服するためには、十九世紀を、資本主義の完全な爆発的発展を待たなければならないことにさえなるであろう。この転換以前には、いわば飼いならされた市場、見かけだけの市場あるいは非−市場しか存在しなかったということである。

私の考えでは、歴史的に見て、一定の地帯の市場間において、それが異なった法制・主権を横断して起こるだけにとりわけ特徴的である、価格の変動をその一致した動きが見られる時にはいつでも市場経済が存在すると考えなければならない。この意味では、全歴史を通じて、・・・自動調整機能を持つ市場を経験した世紀であるという十九・二十世紀よりはるか以前に、市場経済は存在した。古代からすでに、価格は変動している。十三世紀には、価格はすでにヨーロッパ全域で一致して変動している。

確実なこと、それは、ポランニーが好んで口にする非−市場の傍らに、昔から、つねに純粋に利潤追求を目的とする交換がいかに小規模ではあれ存在したということである。小規模であるとは言え、ひじょうに古くから一つの村あるいは数箇の村の枠内で市は存在した。 第二章 市場を前にした経済 P278-282


「物質文明・経済・資本主義―15-18世紀」 フェルナン・ブローデル (ISBN:462202053X




2 国家は国際経済プレーヤー


1)国家は国際経済プレーヤー


国家は以前の帝国と異なります。帝国は侵略し征服し収奪することで富を得ます。しかし国家は世界を分割する国家群として存在します。国境は単に軍事的なパワーバランスではなく国境はそのものが富を産みます。すなわち貿易です。近代国家は市場経済の発展が生む富からの徴収が力となり生まれました。だから国家は始めから「国際経済のプレーヤー」です。

規律訓練により国家を作り上げたのも市場経済のプレーヤーとして、高い生産性とをめざすためにです。そこでは当然、武力は重要です。世界は調停するものがいない無法地帯なので、武力がなければ渡り歩けません。

たとえばEU(欧州連合)では、ユーロを導入し、国家間の経済活動の規制緩和を進めています。ボクがいう国境が金を生む、という考えからいくと、欧州内ではある程度豊かになり経済が均衡して、国境が金を生まなくなった。比較優位が働きにくくなった。それよりも、欧州と欧州外との差異が金を生むので、それを強化するために欧州内での規制緩和を進める、ということになります。だからといって、国家が経済プレーヤーでなくなったということではないと思います。国家を運営し国民を養うという意味でも、国家はいまも経済プレーヤーでしょう。

マルクス市場経済とともに国家も消滅すると考えました。他に市場経済が世界に徹底すれば国家は無くなるという人も多い。しかしそんな兆候はありません。なぜなら国家は市場経済のプレーヤーだからです。




2)「法治」国家と「治安」世界


法治国家というのは先進国など一部の話です。そもそも世界では法治は通用しません。たとえば大きな取引では、定価があるわけではないし、騙されたり、駆け引きの世界です。あるのは国家間のパワーバランスによる治安です。ようするに、いくら多国籍企業と言っても、貿易においては国家が味方につかないと、商売などできないのです。

そして逆に言えば、国家を見方につくことで、ボロ儲けできるともいえます。いまアメリカは、中国に人民元の切り上げを迫っていますが、そこには産業界からの要請があることは当然ですね。

たとえば中国の著作権保護の問題など一企業が「法治」に訴えても限界があるから、政府に泣き付くわけです。中国が著作権対策を積極的に進めないのは、後進国にとって先進国の技術を真似るのは有用な対応手段だからです。日本も西洋を真似て成長してきました。それが著作権法に侵害しているとしても、その法は先進国の都合で作ったものだろ、ということです。

後進国はある種の保護主義に走らないと、先進国の言うままに自由化していては先進国に勝てません。というような国家間の駆け引きがたえずあるのです。グーグルのようにただの広告屋がなにを勘違いしたか、中国に楯突いても仕方がないのです。アメリカ政府がもう少しバックアップしてくれると思ったのでしょうか。




3)国家とは人々にとっては生活の基盤


ベネディクト・アンダーソン「想像の共同体」のテーマは、国家というものが最近できた虚像であるのに、なぜこんなに昔からあるように感じ、守るべきもののように感じるのか。そのように信じる国民、そして歴史や伝統・文化という物語は、いかに作られたのか、というものでした。

アンダーソンの「想像の共同体」はネーション(国家国民)の成立を、標準語に見るわけです。これは日本にも当てはまります。「国語」は明治時代に作られ、義務教育制度によって、規律訓練され、国民が生まれましたね。この当たりは、柄谷日本近代文学の起源も参照。

ボクは、国家は単なる「想像の共同体」ではない。「国際経済のプレーヤー」であると。先にいったように市場経済は生活に根ざした街です。いわばもはや魚にとっての水のようなもので、なくなれば生きていけない。

すなわち国家が国際経済のプレイヤーであるということは、人々にとっては生活の基盤です。そりゃ愛以上のものです。ここでどこの国でも生活はできると考えるでしょうか。ボクが「街」のメタファーでいっているのは慣習です。




3 市場経済の倫理は「比較優位」である


1)市場経済の倫理 「比較優位」


市場経済の特徴は「比較優位」です。競争によるゼロサムではなく、それぞれが自らの得意なことをすることで社会的分業体制により社会全体が豊かになるWin-Winな関係です。比較優位は価値多様と言われる現代でも広く共有されている倫理の一つです。「誰もが自由にすることができるが、なんらかの生産的な行為により社会の価値を高めよう。」

そして比較優位を可能にしているのが市場経済です。貨幣交換という共通基盤があることで、価値を容易に交換することができ、分業体制が可能になっています。たとえばある人はつまようじの凹んだ部分だけを毎日作り続けても、生活に必要なものは市場で手に入れることができます。市場経済という街の秩序は暗黙の比較優位により保たれて、分業体制による効率化のために建設されています。だから恐慌がきてもすぐに市場は復活するのです。




2)市場経済が生み出す平等と平和


市場経済では、活発な流動性を求めることから封建的な集団は阻害要因になり、自由な個人、そして平等な関係が重要になります。また市場経済では、争いは武力闘争から経済戦争へ移行します。武力闘争は経済を破壊し非経済的だからです。

だから現代の平等は、まず市場経済を活発にするための平等です。左派的に人権的な平等というイデオロギーへ高められるのは後付です。いまも現実的には、平等とは市場経済を活発にすることが基本です。

また武力闘争の抑止も経済のためです。先進国同士の武力闘争は経済的損害が多くて控えられますが、途上国への侵略的な武力闘争は市場経済を発展させるために重要です。植民地主義帝国主義、そして最近の石油利権をめぐる中東の戦争まで、保守主義的な侵略は資本主義の歴史です。これらは資本主義の負の面でしょう。

農地からりんごをとるのは泥棒です。では未開地になるりんごは?天からの贈り物です。植民地からの収奪は、天からの贈り物でした。たとえばいまだにコロンブスによるアメリカ大陸発見と言われます。無視される原住民は発見する人ではなく、言わば自然物です。植民地とは山の物を海で売る商売の基本です。




3)権力は必ず偏在する


ボクはどのようなイデオロギーであっても、「権力は必ず腐敗する」ことが問題だと思います。封建社会や、共産主義における権力腐敗の実体をみると、自由主義はまだましだといえるでしょうか。

「権力腐敗をなくそう」というほど簡単なことではありません。権力腐敗は社会そのものを支える贈与交換に根ざしているからです。簡単なことで人は身近な人を大切にします。生きていくためには人とのつながりが重要です。しかし市場経済は原理的には、貨幣価値を元にした自由な競争による効率化を目指しますからこのように信頼関係を嫌います。

だから自由主義社会において、社会の信頼関係と市場の自由競争の間に妥協点が生まれます。そして妥協点を越えると贈収賄などの犯罪で権力腐敗と呼ばれ、越えなければ強力な権力基盤になります。そしてこの妥協点は時代、地域で変化するグレーなものです。

現代の権力の道具は情報と知です。たとえば現代の金融取引は自由競争か?どれほど情報は公開されているのか?高度な金融取引の知の格差は?単純に考えて、違法行為ではなくても、金持ちには優秀な投資のプロがつき、広い強者ネットワークから有用な情報が集まるという恩恵に預かりやすいのはわかります。

途上国では政治家や役人への賄賂が普通です。市場経済が十分に成熟していない社会では、妥協点が明確でなく、封建的な社会の名残として権力の贈与交換の慣習が当たり前だからです。

市場経済の基本である機会の平等による自由競争のために、卑近な信頼関係(贈与交換)を断ち切ることは、ある意味不自然な考えであって、根気強く教育しなければ根付かない倫理です。そしてこのために国家として、権力腐敗というグレーゾーンに線引きし、取り締まる必要があります。その国家権力自身が権力腐敗しているのだから改善には長い時間がかかります。それでも最近では、途上国もBRICS、そしてアフリカ経済を育てて豊かになっている状況があります。




参考


■日常哲学派の思想地図 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20101022#p1
1 主体とは貨幣交換環境が生み出した症候
2 現代のコンビニエンスな生権力環境のなにが問題なのか
3 日本人は民主主義より自由主義に順応する
4 常態として「思想は必ず腐敗する」
5 小さすぎて見えないグローバルな巨大な権力の誕生
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*1:画像元 拾いもの