「我市場経済を生きる故に我あり」

pikarrr2010-11-01



1 市場経済は生活環境である
2 国家は国際経済プレーヤーである
3 市場経済の倫理は「比較優位」である
4 常態として「思想は必ず腐敗する」
5 主体とは貨幣交換環境が生み出した症候である
6 現代のコンビニエンスな生権力環境のなにが問題なのか
7 日本人は民主主義より自由主義に順応する


哲学の基本である「私はなにものか?」と考えたときに思ったのは、市場経済に生きているというではないのか、ということだったんです。「我市場経済を生きる故に我あり」






1 市場経済は生活環境である


1)社会規模と生産様式の関係


ボクは下部構造論者なので、経済活動が社会の形態にもっとも大きな影響を与えると考えています。特に社会規模と生産様式の関係を考えています。

カール・ポランニーの生産様式区分、「贈与交換」「再配分」「貨幣交換」を参考にすると、小さな集団=共同体では比較的な親密な関係から「贈与交換」が有用な生産様式となります。しかし贈与交換は卑近な信頼に基づいているために、ある程度大きく社会規模になると限界があります。

大きな社会、都市では、はじめてあった人と交換を行うことが必要です。しかしはじめてあった人を信頼して贈与交換するのは危険です。このために、瞬時に貸し借りを精算する貨幣交換が求められます。

しかし貨幣交換は剰余価値(儲け)を生む特性があり、人々が富に目覚めて、市場経済、金融経済、そして産業化が活発になります。リーマンショックが問題になっていますが、資本主義はそのはじめ(社会に広く浸透する前)から投機、そしてバブル崩壊の歴史であり、社会に浸透する原動力になってきました。

このような意味で、ある程度の規模の社会になると、貨幣経済へうつらざるをえない。近代以降の市場経済への移行は必然であったとボクは思っています。




2)市場経済イデオロギーではなく街


市場経済イデオロギーではなく生活でです。いまの市場経済は西洋の十五世紀辺りから自給自足経済から少しずつ浸透していまに至ります。イデオロギーではないので革命はありません。そのはじめから何度も市場がフリーズする恐慌を経験していますが、そのたびに復帰しました。

たとえばいま身につけている衣服、歩いている通路、すんでいる住居の形や材質、強度は市場経済によりできています。これら環境の中で生活する人間の慣習、考え方もそうです。人は市場経済をいちいち意識しませんが、毎日繰り返される行為は市場経済の上に成り立っています。だから恐慌でマーケットが停滞しても、まずできることは毎日の慣習に従うことであり、それは市場経済を回すことになります。恐慌がきたからいきなり街が崩壊するわけではないのです。そして市場経済イデオロギーではなく街です。

資本論マルクスはまず商品から語ります。商品(貨幣)が形而上学で成立している。だから市場経済は脆弱であり、いつか崩壊する。その先にあらわれるのが社会主義であると。しかしなんど恐慌が来ようが崩壊しなかった。なぜなら市場経済とは生活する街・通路だからです。

ただボクはもっとも基本となるものが経済だといっているだけで、「重層的決定」を否定しているわけではありません。特に市場経済において。その理由は先に示したように、市場経済は街・通路に具現化された生活だからです。

たとえば下部構造を批判したものとして、ウェーバープロテスタンティズムと資本主義の精神」がありますが、ルターの宗教革命も、その前までに市場経済の浸透があり、社会の流動性があがり、平等への渇望があったと思います。その中でプロテスタトが広まり、またプロテスタントが資本主義を後押しした。

資本主義社会では主体は解放され、自分たちは中世的な宗教的迷信から解放されていると信じており、おのれの利己的な関心にのみ導かれた合理的な功利主義者として他者と関係する。しかし、マルクスの分析の眼目は、主体ではなく、物(商品)それ自体がおのれの場所を信じている、という点である。つまり、信仰や迷信や形而上学による神秘化は、合理的で功利的な人格によって克服されたかのように見えるが、じつはすべて「物どうしの社会的関係」の中に具現化されているのである。人びとはもはや信仰をもっていないが、物それ自体が人間のために祈っているのだ。

これは同時に、ラカンの基本的な前提の一つでもあるように思われる。信仰(信念)は内的なものであり、認識は(外的な手続きによって確証しうるという意味で)外的なものだ、というのが一般的な定式であるが、むしろ、信仰こそ根本的に外的なものであり、人間の実用的・現実的な活動の中に具現化されているのだ。P55


イデオロギーの崇高な対象」 スラヴォイジジェク (ISBN:4309242332

(カール・)ポランニーの言うことを信ずることにすれば、「大転換」が生じ、「自動調整」市場がその真の力を増し、それまで支配的であった社会的なものを征服するためには、十九世紀を、資本主義の完全な爆発的発展を待たなければならないことにさえなるであろう。この転換以前には、いわば飼いならされた市場、見かけだけの市場あるいは非−市場しか存在しなかったということである。

私の考えでは、歴史的に見て、一定の地帯の市場間において、それが異なった法制・主権を横断して起こるだけにとりわけ特徴的である、価格の変動をその一致した動きが見られる時にはいつでも市場経済が存在すると考えなければならない。この意味では、全歴史を通じて、・・・自動調整機能を持つ市場を経験した世紀であるという十九・二十世紀よりはるか以前に、市場経済は存在した。古代からすでに、価格は変動している。十三世紀には、価格はすでにヨーロッパ全域で一致して変動している。

確実なこと、それは、ポランニーが好んで口にする非−市場の傍らに、昔から、つねに純粋に利潤追求を目的とする交換がいかに小規模ではあれ存在したということである。小規模であるとは言え、ひじょうに古くから一つの村あるいは数箇の村の枠内で市は存在した。 第二章 市場を前にした経済 P278-282


「物質文明・経済・資本主義―15-18世紀」 フェルナン・ブローデル (ISBN:462202053X




2 国家は国際経済プレーヤー


1)国家は国際経済プレーヤー


国家は以前の帝国と異なります。帝国は侵略し征服し収奪することで富を得ます。しかし国家は世界を分割する国家群として存在します。国境は単に軍事的なパワーバランスではなく国境はそのものが富を産みます。すなわち貿易です。近代国家は市場経済の発展が生む富からの徴収が力となり生まれました。だから国家は始めから「国際経済のプレーヤー」です。

規律訓練により国家を作り上げたのも市場経済のプレーヤーとして、高い生産性とをめざすためにです。そこでは当然、武力は重要です。世界は調停するものがいない無法地帯なので、武力がなければ渡り歩けません。

たとえばEU(欧州連合)では、ユーロを導入し、国家間の経済活動の規制緩和を進めています。ボクがいう国境が金を生む、という考えからいくと、欧州内ではある程度豊かになり経済が均衡して、国境が金を生まなくなった。比較優位が働きにくくなった。それよりも、欧州と欧州外との差異が金を生むので、それを強化するために欧州内での規制緩和を進める、ということになります。だからといって、国家が経済プレーヤーでなくなったということではないと思います。国家を運営し国民を養うという意味でも、国家はいまも経済プレーヤーでしょう。

マルクス市場経済とともに国家も消滅すると考えました。他に市場経済が世界に徹底すれば国家は無くなるという人も多い。しかしそんな兆候はありません。なぜなら国家は市場経済のプレーヤーだからです。




2)「法治」国家と「治安」世界


法治国家というのは先進国など一部の話です。そもそも世界では法治は通用しません。たとえば大きな取引では、定価があるわけではないし、騙されたり、駆け引きの世界です。あるのは国家間のパワーバランスによる治安です。ようするに、いくら多国籍企業と言っても、貿易においては国家が味方につかないと、商売などできないのです。

そして逆に言えば、国家を見方につくことで、ボロ儲けできるともいえます。いまアメリカは、中国に人民元の切り上げを迫っていますが、そこには産業界からの要請があることは当然ですね。

たとえば中国の著作権保護の問題など一企業が「法治」に訴えても限界があるから、政府に泣き付くわけです。中国が著作権対策を積極的に進めないのは、後進国にとって先進国の技術を真似るのは有用な対応手段だからです。日本も西洋を真似て成長してきました。それが著作権法に侵害しているとしても、その法は先進国の都合で作ったものだろ、ということです。

後進国はある種の保護主義に走らないと、先進国の言うままに自由化していては先進国に勝てません。というような国家間の駆け引きがたえずあるのです。グーグルのようにただの広告屋がなにを勘違いしたか、中国に楯突いても仕方がないのです。アメリカ政府がもう少しバックアップしてくれると思ったのでしょうか。




3)国家とは人々にとっては生活の基盤


ベネディクト・アンダーソン「想像の共同体」のテーマは、国家というものが最近できた虚像であるのに、なぜこんなに昔からあるように感じ、守るべきもののように感じるのか。そのように信じる国民、そして歴史や伝統・文化という物語は、いかに作られたのか、というものでした。

アンダーソンの「想像の共同体」はネーション(国家国民)の成立を、標準語に見るわけです。これは日本にも当てはまります。「国語」は明治時代に作られ、義務教育制度によって、規律訓練され、国民が生まれましたね。この当たりは、柄谷日本近代文学の起源も参照。

ボクは、国家は単なる「想像の共同体」ではない。「国際経済のプレーヤー」であると。先にいったように市場経済は生活に根ざした街です。いわばもはや魚にとっての水のようなもので、なくなれば生きていけない。

すなわち国家が国際経済のプレイヤーであるということは、人々にとっては生活の基盤です。そりゃ愛以上のものです。ここでどこの国でも生活はできると考えるでしょうか。ボクが「街」のメタファーでいっているのは慣習です。




3 市場経済の倫理は「比較優位」である


1)市場経済の倫理 「比較優位」


市場経済の特徴は「比較優位」です。競争によるゼロサムではなく、それぞれが自らの得意なことをすることで社会的分業体制により社会全体が豊かになるWin-Winな関係です。比較優位は価値多様と言われる現代でも広く共有されている倫理の一つです。「誰もが自由にすることができるが、なんらかの生産的な行為により社会の価値を高めよう。」

そして比較優位を可能にしているのが市場経済です。貨幣交換という共通基盤があることで、価値を容易に交換することができ、分業体制が可能になっています。たとえばある人はつまようじの凹んだ部分だけを毎日作り続けても、生活に必要なものは市場で手に入れることができます。市場経済という街の秩序は暗黙の比較優位により保たれて、分業体制による効率化のために建設されています。だから恐慌がきてもすぐに市場は復活するのです。




2)市場経済が生み出す平等と平和


市場経済では、活発な流動性を求めることから封建的な集団は阻害要因になり、自由な個人、そして平等な関係が重要になります。また市場経済では、争いは武力闘争から経済戦争へ移行します。武力闘争は経済を破壊し非経済的だからです。

だから現代の平等は、まず市場経済を活発にするための平等です。左派的に人権的な平等というイデオロギーへ高められるのは後付です。いまも現実的には、平等とは市場経済を活発にすることが基本です。

また武力闘争の抑止も経済のためです。先進国同士の武力闘争は経済的損害が多くて控えられますが、途上国への侵略的な武力闘争は市場経済を発展させるために重要です。植民地主義帝国主義、そして最近の石油利権をめぐる中東の戦争まで、保守主義的な侵略は資本主義の歴史です。これらは資本主義の負の面でしょう。

農地からりんごをとるのは泥棒です。では未開地になるりんごは?天からの贈り物です。植民地からの収奪は、天からの贈り物でした。たとえばいまだにコロンブスによるアメリカ大陸発見と言われます。無視される原住民は発見する人ではなく、言わば自然物です。植民地とは山の物を海で売る商売の基本です。




3)権力は必ず偏在する


ボクはどのようなイデオロギーであっても、「権力は必ず腐敗する」ことが問題だと思います。封建社会や、共産主義における権力腐敗の実体をみると、自由主義はまだましだといえるでしょうか。

「権力腐敗をなくそう」というほど簡単なことではありません。権力腐敗は社会そのものを支える贈与交換に根ざしているからです。簡単なことで人は身近な人を大切にします。生きていくためには人とのつながりが重要です。しかし市場経済は原理的には、貨幣価値を元にした自由な競争による効率化を目指しますからこのように信頼関係を嫌います。

だから自由主義社会において、社会の信頼関係と市場の自由競争の間に妥協点が生まれます。そして妥協点を越えると贈収賄などの犯罪で権力腐敗と呼ばれ、越えなければ強力な権力基盤になります。そしてこの妥協点は時代、地域で変化するグレーなものです。

現代の権力の道具は情報と知です。たとえば現代の金融取引は自由競争か?どれほど情報は公開されているのか?高度な金融取引の知の格差は?単純に考えて、違法行為ではなくても、金持ちには優秀な投資のプロがつき、広い強者ネットワークから有用な情報が集まるという恩恵に預かりやすいのはわかります。

途上国では政治家や役人への賄賂が普通です。市場経済が十分に成熟していない社会では、妥協点が明確でなく、封建的な社会の名残として権力の贈与交換の慣習が当たり前だからです。

市場経済の基本である機会の平等による自由競争のために、卑近な信頼関係(贈与交換)を断ち切ることは、ある意味不自然な考えであって、根気強く教育しなければ根付かない倫理です。そしてこのために国家として、権力腐敗というグレーゾーンに線引きし、取り締まる必要があります。その国家権力自身が権力腐敗しているのだから改善には長い時間がかかります。それでも最近では、途上国もBRICS、そしてアフリカ経済を育てて豊かになっている状況があります。




4 常態として「思想は必ず腐敗する」


1)思想は必ず腐敗する


哲学的主体?そんなのほんとにいるか?だから思想も同様です。自由主義共産主義?そんなのどこにあるの?そこで重要な考えは「権力は必ず腐敗する」です。すなわち腐敗した状態が常態なので、純粋なイデオロギー議論は空論です。

たとえば共産主義の失敗はイデオロギーと関係あります?単に腐敗しただけでしょ。しかしこれは偶然はなく共産主義のような高い理想(理論)は腐敗に弱い。だから何度やっても同じ腐敗を繰り返します。

だから当然、自由主義も腐敗を常態として議論しなければ空論です。まず自由主義の基本である格差社会は公正な自由競争の結果か?ヒントとしてはなぜ自由主義はそのはじめから保守主義と相性がいいのか?すなわち自由とは強者に有利なのです。強者は自由競争のようなバクチはせず固く強者と組みます。それを国家として考えれば、自由をたてに弱国に解放をせまり、豊富な物的、人的資源を安価で手に入れます。弱国の権力者は金と権力をつかませ仲間に引き入れる。自由主義とは経済的武器だから保守主義は支持するのです。




2)資本主義は誰を信用するか


少し考えれば、公平な自由競争なんてものがそう儲からないことがわかります。自由競争の中でいかに無防備な弱者をみつけ、強者と組み巻き上げるか。だから自由主義は新たに弱者を求めて拡大することが必要なのです。

リーマンショックも一つの拡大の結果です。米国の金融規制緩和政策によって新たに金融市場が開かれたのです。そして強者グループたちは、政治家と金融工学者たちを使い、弱者たちと情報格差を利用して一儲けしたわけです。

このような傾向は資本主義と呼んだ方がわかりやすいと思います。資本とはなにか。信用で貸し借りされる貨幣価値です。現代の経済は信用を基盤にしています。では誰を信用するか。貨幣社会で信用されるのは、当然、多くの貨幣価値を保有する強者です。強者たちが信用を担保し合うネットワークを形成し、いかに公平な自由競争を回避するか相談するのです。これは多くが犯罪ではありません。なぜなら強者には規則を作る政治家も含まれ、ルールも彼らが作るからです。

これらは陰謀論のような単純な話ではありません。それでも自由主義経済が勝ち残ったのは、共産主義の腐敗には偶然性が忍び込む余地が少ないのに対して、自由主義は腐敗にも絶えず偶然性を呼び込むからです。自由主義経済では強者たちもまた偶然性にさらされる。そして考える以上に小さいが、弱者にも偶然によって成功するチャンスがあることも確かです。




3)小さすぎて見えない巨大権力


このような闘争としての自由主義のダイナミズムは、生権力という静的な面のもう一つの面です。そして現代の自由主義経済はこれらの二面性によって新たな問題が起こっています。

強者の私感が、マクロレベル(生権力)へ「短絡」し大きな影響として波及してしまう。戦争であり、政治であり、経済であり、金融であり、グローバル化するマクロレベルへ容易に「短絡」してしまう。

仮に、ネグリの「帝国」など最近のサヨクがいうように、グローバルな権力が透き通って捉えにくいとすれば、それは単に「生権力」と呼ぶだけでは不十分です。生権力というマクロレベルへ影響を与える権力者たちの行為があまりにミクロになりすぎて見えなくなっているのです。

ここでいう権力者はかつてのように終身的な権力をもっているわけではなく、また大きなイデオロギーや世界を変えようと言う意図を持っているかどうかに関わらず、小さな部屋の中でのその場の私欲というミクロレベルがマクロレベルへ影響を与えてしまう。たとえば今回の世界を巻き込んだ大不況が一人の男のささやきによって起こったとしてもおかしくない状況ということです。




4)セカイ系権力の誕生


権力者が思想や意志をもって世界を変えようとすることではなく、ミクロで卑近な想いが自らの想像をこえたマクロレベル(グローバル)に多大な影響を与えてしまう。これは「セカイ系権力」とでも呼べるようなものです。

セカイ系権力のひとつの問題はこのような権力をいかに捉えて語るのかということです。もはや世界を左右する権力を語れないのはマクロに透明であるからではなく、ミクロに私感的すぎるからです。おそらくこのようなミクロに私感な権力を知識人は語らないでしょう。セカイ系権力はあまりに不可逆(一回性)でミクロであるために再現性がなく怪しく、学問をすり抜ける。歴史家が語るには早すぎるだろうし、ノンフィクション作家はどこまで内通できるだろうか。だから限りなくゴシップの領域に近づいてしまう。

過去数十年のあいだに出現したグローバルなエリートたちは、いまや地球上の他のあらゆる集団をはるかにしのぐ強大な影響力を持っている。この"超・階級[スーパークラス]"、すなわち超権力者階級のメンバーの一人が、世界中の国々に暮らす何百万、何千万という人々の生活に、継続的な影響をあたえる能力を持っている。彼らはそれぞれが積極的にこの能力を行使しており、多くの場合、同じ階級に属する他の権力者たちと関係を深めることによって、その能力を拡大している。終身権力が代々受け継がれていたのは、もはや遠い昔のことであり、現代の超権力者の持つ影響力はたいていが一時的なものにすぎない。

なかには「クラス[階級]」という語を用いることによって、私が「マルクス主義」や「階級闘争」という、学問的にはいかがわしい領域に足を踏みいれる危険性があると指摘する者もいた。・・・国際政治の舞台裏で、権力者たちとの秘密対話や極秘会談の現場を何度も目撃した経験から言わせてもらえば、陰謀などということは、まずありえない。・・・「世界征服」という昔ながらの空想は、実現するはずのない無理な話なのである。

現実に目を向ければ、世界でもっとも裕福な人々上位千人が保有する純資産の総額は、世界の最低貧困層二十五億人の資産総額の約二倍に相当する。・・・国境を超えたスーパークラスの影響力は、結束した集団として活動することによって、ますます強力なものになる。ビジネス上の取引であったり、相互投資であったり、重役会、学閥、社交クラブの一員同士だったりと、じつにさまざまな結びつきによって集団が形成されているが、それはけっして世界征服を含む悪の秘密結社などではない。がしかし、ともに手を携えて自己の利益を追求することにかけては折り紙付きの達人集団であることは確かである。P12-18


「超・階級 スーパークラス」 デヴィッド・ロスコフ (ISBN:4334962076




5 主体とは貨幣交換環境が生み出した症候である


1)社会の成立は超越論的か経験論的か


誰もが主体という形而上学から逃れられない。そこから差異の思想が生まれた。デリダ脱構築にしろ。しかしウィトゲンシュタイン的にいえばほんとにそうか、となるわけです。そもそも主体なんて一部ではないか。歩いているとき、キャッチボールしてるとき、パソコンさわっているときも主体なのか?

野家啓一はウィトが考える「言語ゲーム」(社会秩序)の成立の原理を二つに分けて考えました。超越論的と経験論的です。主体は超越論的哲学です。だからデリダは回避するために差異が必要になると考える。しかし経験論的に、すなわちウィト的に(「規則に従う」、慣習)に成立してるならそもそも主体は問題になりません。それどころかデリダのように主体を解体することが主体の成立を助けることになります。これがデリダとウィトの似て非なるところです。




2)フーコーの経験論的転回


ウィト的に考えると問題は異なるところにあることがわかります。フーコーは中期以降になぜ規律訓練権力と言いだしたのか。これを「経験論的転回」と呼びたいと思います。規律訓練権力とは主体ではなく、慣習を狙い訓練する環境に関する戦略です。人は主体だなんだと言おうが環境を包囲され気付かないうちに慣習訓練されたら丸裸ではないか。

フーコーはさらに考えます。じゃあ現代の慣習を作る環境ってなんやねんと。自由主義経済環境やないかと。自由に経済効率よく社会環境が作られ、当たり前のように習慣づけられている。この習慣を包囲することを生権力と呼びます。




3)主体という症候


ボクは主体など存在しないといっているわけではありません。近代哲学の父、デカルトに始まるの理性的主体は啓蒙主義をへてフロイト、そしてラカンにいきつきます。精神分析医のラカンがなぜ対象を「主体」と呼び続けたのか。ラカンフロイトへの回帰により主体が症候であることを明らかにしました。その後の現代思想ラカン的主体を巡るって語られます。デリダドゥルーズなどは賢明に解体を試みますが、先に書いたように超越論的から抜けることができません。

フーコーは症候としての主体が普遍的なものではなく、近代という環境(エピステーメー)に現れたものであることを指摘します。さらに中期の経験論的展開により、先に示したように習慣を包囲することの重要性を指摘するわけです。主体を探求する近代哲学そのものが近代という環境(エピステーメー)の産物であると。

デカルトはあの時代にはまだめずらしい旅人でした。各共同体ではそれぞれの慣習を疑うことなく生きています。しかしデカルトは共同体間を旅すること、それぞれの慣習が異なることを知ります。そしてでは確かなものとはなんだろうと不安になります。そこで見いだされるのが理性的主体です。

これば現代までつながります。流動性が高い価値多様な社会の不安から確かなものを求める。現代では、「確かなものはない確かさ」という否定神学的に見いだされますが。




4)貨幣社会と主体の誕生


近代化という流動性の高い社会は、自給自足から貨幣商品交換生産様式へのパラダイムシフトにより起こりました。商品交換は海の物を山へという価値の差異が新たに価値を産みます。だから流動化が必スウです。そして流動化により共同体な慣習は揺さ振られます。その中で人々は不安になる。そして確かなものを過剰に求めてしまう。それが主体という症候です。

なぜフロイト精神分析を発明できたのか。十九世紀末、国際都市オーストリア。世界中の慣習が交差する混沌の中で人々は不安が常態化する。

話を戻せばボクは主体が存在しないといっているわけではなく、求めれば求めるほど現れる症候である、ということです。日常、慣習のレールにのっかっている分に表れない。そして主体が近代環境に強く依存するように、より重要であるのはフーコーがいうように習慣を包囲する生権力環境なのです。




6 現代のコンビニエンスな生権力環境のなにが問題なのか


1)生権力の何が悪いのか


生権力=身体をめぐる権力は現代の思想議論のキーです。生権力の問題は「生権力の何が悪いのか」ということです。効率的で便利で適度にやっていればそこそこ豊かに暮らせる。

しかし生権力環境の労働をネグリなど現代左翼はポストフォーディズムと呼び、労働者が自主的に搾取に参加する状態と考えます。たとえばネットではみなが無償で労働により、創造していますが、それをもとに稼いでいるのはひろゆきやグーグルなど一部の人たちです。著作権料など払われないし、好きでやっているから仕方がないというわけです。IT系企業等でも好きでやってるからと、安い賃金で長時間労働は当たり前です。

すなわち労働が生活に深く入り込み、曖昧になっています。リバタリアンなど自由主義ではこれこそ自由だ大成功ということです。




2)ポストフォーディズムとコンビニエンスな環境


たとえば第二次産業は3K、きつい、きたない、危険など言われ、若者は第三次産業を好みます。また第三次産業では労働内容、時間に自由度があります。しかしこのような自由度が逆に問題を生んでいます。

ポストフォーディズム的にいえば、第二次産業で明確だった労働と生活の境界が曖昧になる。第三次産業ではフレックスなど労働時間が自由な分、サービス残業、自宅自主労働、あるいは能力主義、リストラなどで、自己責任という自由の裏面として過酷な労働条件があります。

キャリアをつみ、よりよい職場を求める流動性という自由な労働環境では、生活の中で自主学習が求められます。また企業は労働者の生活を保障しません。能力にあわせて労働時間、賃金、そして採用を決めます。結果的に第三次産業は一部の富むものと、多くの安い賃金で不安定な労働者を生み出しています。

それでも自由主義社会は魅力です。食は百均ローソン、マック、サイゼで満たされ、住はマンガ喫茶もあり、性はネットでエロは見放題、暇はフリーのゲーム。そしてオタクやネットで「オレは主体だ」と、やりたいことを表現して生き甲斐を感じる。このようなコンビニエンスな生権力環境のなにが問題なのか。




7 日本人は民主主義より自由主義に順応する


1)日本人の国家集団主義


日本人の社会秩序の在り方について。まず江戸末期に欧米からの圧力から開国に到り、明治政府は占領されないように急激な近代化を急ぐ。このために市民革命を経ずに、階級制度を活用しつつ国家として国民への規律訓練を進める。これによって短期間で露西亜に勝利するなど、強国の仲間入りをする。そしてここで生まれた国家集団主義の暴走は世界大戦の敗退へ行き着く。

戦後、米国によって民主主義社会を目指すが、ソ連共産主義の台頭から、日本の共産主義化を恐れた米国は国家機関、財閥の解体を強行せずに、以後、国家と財閥による護送船団方式による経済復興をめざし、集団主義は継続される。このまま、高度経済成長、ジャパンアズナンバーワンのバブル期を向かえる。

高度成長期をへて成長率は停滞し、企業は終身雇用で社員を抱えることが困難になる。しかしいままでの慣例であり、また60年代の労働争議の名残りから、既得権社員を残し、新規採用を控えて、非正規雇用を活用することで、世代間格差が生まれる。また先に示したような、産業構造の第三次産業化によって、労働形態の自由度が増し、ポストフォーディズム化によって、雇用は不安定になる。さらに中国の台頭によって、生産が中国にシフトすることで、日本の雇用の空洞化が進む。




2)日本的集団主義の限界


戦後、社会保障から、コミュニティ機能まで広く担ってきた会社が解体することで、人々は経済的、社会的に孤立化している。保守王国と言われた日本が、リベラルな民主党へ政権移管した背景には、このような孤立化の不安から、国家に社会保障を担って欲しいという強い願望が表れている。

かつて集団主義は、官僚や大企業の重役など、強いリーダーシップによって、船団的に世界と渡り合ってきました。現代の問題は、むしろ豊かさの中で、集団への帰属意識が薄れて、リーダーシップも働かなくなってきた結果、経済的な推進力が落ちているのだと思います。

韓国の台頭もウォン安など経済環境の影響も大きいし、まだリーダーシップが働くほどに、貧しい社会ともいえます。現に韓国で儲かっているのは一部企業だけで、多くの人が貧しいままです。




3)日本人にとって個人とは環境


このように日本人は市民革命を経ずに近代化をここまで進めてきました。産業化、貨幣社会化を重視してここまで来ました。日本人が民主主義より、自由主義を重視する傾向はこのような歴史的な背景もあるでしょうが、やはり島国という閉じた地理的条件からくるハイコンテクストな環境の影響が大きいでしょう。

日本は民主主義国家ではありますか、日本人は人権的な平等について真剣に吟味したことがありません。だから個人とは、基本的人権として尊重しあう存在であるより、経済的な豊かさにより他者に干渉されない自由な存在を意味します。だから多くの場合には人権的には個人より集団が重視される傾向が強い。

しかし日本人の中では集団主義的な行為と、個人主義的な自由は自然に共存します。そこにイデオロギーはなくただコンテクストによる慣習だからです。日本人にとって個人とは主体を意味しません。個人という環境であり習慣なのです。日本人の個人を支えるの、イデオロギーや人権などではなく、コンビニであり、マックであり、マンガ喫茶であり、部屋のテレビであり、バソコンです。だから世界有数のコンビニエンスな環境を作り上げたのです。




4)日本人の新たな未来像への憂鬱


それでも二度にわたる奇跡の成長から日本は、いまでは世界一のコンビニエンスな環境を作り上げました。日本人はもともと慣習により社会秩序を保ってきたので、生権力は得意分野です。なのに日本人の憂鬱はなんなのでしょうか。これ以上なにが不満なのでしょうか。

日本人の不安は、将来への不安でしょ。こんな楽な生活をいつまで続けられるのか。先の世代は第二次産業が主流の安定した終身雇用生活だったので、このようなコンビニエンス社会は初の試みです。年金もいまのままでは難しいともいわれます。隠されていますが世代間でいえば先の世代の既得権による安定した蓄積が不安定な子の世代の生活を支える日本の社会保障の現実があります。親の世代なきあとどうなるのか。

さらに最近の無縁社会問題は経済的より不安が中心です。結婚せず子供作らないコンビニエンスな社会では、老後は一人淋しく死んでいく。これがほんとに問題なのか、疑問がありますが、どちらにしろ新たに社会の見えない先への不安が、日本人全般をおおっています。

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